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荷物持ちと呼ばれた守護神

第1話 第1話

第1話

第1話

結界が割れる音は、いつも前衛には聞こえない。

 Aランクダンジョン『灰燼の回廊』、第七層。天井から降り注ぐ溶岩弾を、レンは三重の結界で受け止めていた。魔力が削れる。指先が痺れる。それでも杖を握る手は緩めない。  硫黄と焦げた石の匂いが鼻腔を灼く。結界の表面で溶岩が弾けるたび、橙色の光が洞窟の壁を脈打つように照らした。三重目の結界に亀裂が走る。ガラスを引き裂くような高音が耳の奥で鳴り、砕けた魔力の破片が頬をかすめた。レンは奥歯を噛み締め、即座に四重目を編み上げた。魔力の消費が跳ね上がる。こめかみの奥で鈍い頭痛が脈を打ち始めたが、表情には出さない。出したところで、誰も見ていない。  前方では、リーダーのカイルが炎竜の首を狙って大剣を振り上げていた。 「——覇斬!」  カイルの必殺技が炸裂する。刃に纏った闘気が竜の鱗を断ち、鮮血が噴き上がった。飛沫がレンの結界に当たり、じゅう、と蒸発する音がした。  その闘気を倍化させているのがレンの支援魔法だと、カイル本人は知らない。知る必要がないと、レン自身も思っている。 「ナイス、カイル!」  後衛から攻撃魔法を叩き込んでいた魔法剣士のヴェルドが叫ぶ。聖女リーナが前衛に回復光を飛ばし、斥候のジルが側面から短剣を突き立てる。勇者パーティ『暁の剣』——Aランクダンジョンを攻略できる精鋭だ。  レンは後方で杖を構え、四人全員に支援魔法をかけ続けていた。結界維持。状態異常の即時回復。魔力供給。地味で、目に見えず、誰にも気づかれない仕事。カイルの闘気が途切れそうになれば補い、ジルの足に鈍化の呪いが触れれば即座に打ち消し、リーナの回復魔法が届かない死角にはレンが代わりに防護膜を張る。四人が戦いに集中できるのは、その土台をレンが一人で支えているからだった。だが、土台は見えない。見えないものは、評価されない。  炎竜が崩れ落ちる。 「よし、クリアだ!」  カイルが拳を掲げた。ヴェルドとジルが歓声を上げ、リーナが安堵の息をつく。  レンは黙って杖を下ろした。魔力の消耗で視界が揺れる。壁に手をつき、膝の震えを押し殺す。汗で張り付いた前髪の隙間から、笑い合う四人の背中が見えた。その輪に、自分の居場所はない。三年間、一度もなかった。 「おい、レン。コア回収しとけ」  カイルが振り返りもせずに言った。 「……わかった」  三年間、ずっとこうだった。

    *

 帰路の馬車は、いつも通りレンだけが荷台だった。  四人は幌の下で酒を開けている。笑い声が夜風に乗って荷台まで届く。レンは揺れる荷台の端に腰かけ、炎竜のコアが詰まった木箱を膝に抱えていた。木箱の角が太腿に食い込む。その痛みだけが、今の自分がここにいる証拠のように思えた。  夜空には雲がかかり始めていた。星は見えない。馬の蹄の音と車輪の軋みだけが、単調に闇を叩いている。 「——今回のコア、相場なら金貨八十枚はいくな」  カイルの声が聞こえる。 「やっと新しい鎧が買える。前衛が紙装甲じゃ話にならないからな」 「私も杖を新調したいわ」  リーナの声。報酬の分配にレンの名前が出ることはない。出たとしても、端数だ。Dランク支援術師の取り分はパーティ規約で最低保証額と決まっている。金貨八十枚のうち、レンに渡るのは二枚。  レンはそれを不当だとは思わない。鑑定結果がDランクである以上、妥当な評価だ。自分の支援がなければパーティが機能しないなどと、考えたこともなかった。  馬車が街道の石畳に入る。ガタガタと振動が変わり、遠くにギルド都市リグレスの灯りが見えた。 「レン」  幌の隙間からカイルが顔を出した。金髪を夜風に靡かせ、蒼い目でレンを見る。その目に、いつもの軽蔑とは違う何かが混じっていた。憐れみか、あるいは後ろめたさか。どちらにせよ、一瞬で消えた。 「話がある。明日じゃなくて、今言う」  レンは木箱を下ろした。 「なに?」 「お前の枠に、攻撃魔法士を入れる」  馬車の車輪が石を噛み、がくんと揺れた。 「明日からもう来なくていい」  言葉は簡潔だった。カイルはいつもそうだ。必要なことだけ言い、余計な感情を乗せない。だからこそ、その言葉には反論の余地がなかった。事実として差し出され、事実として受け取るしかない類のものだった。 「……理由を聞いていいか」 「支援術師はギルドで日雇いできる。固定枠に置く価値がない。攻撃魔法士を入れたほうが火力が上がる。以上だ」  幌の奥で沈黙が落ちた。ヴェルドもジルも口を開かない。リーナだけが顔を覗かせ、レンと目が合った。その瞳が潤んでいた。けれどその涙は、レンのためではなく、自分自身の罪悪感を洗い流すためのものだと、レンにはわかっていた。 「ごめんね、レン……」  それだけ言って、目を逸らした。  レンは頷いた。 「わかった」  怒りはなかった。悲しみも、驚きも。三年かけて磨り減った何かが、最後の一片まで削れ落ちただけの感覚だった。空になった器に水を注いでも、音すら立たない。そういう空虚さだった。

 パーティハウスに着くと、レンは自室の荷物をまとめた。私物は鞄ひとつに収まる。三年間で増えたものが、それだけしかなかった。壁に掛けた暦だけが、ここで過ごした時間の長さを示していた。暦の端は黄ばみ、最初の月のページは指の跡で擦り切れていた。毎朝、日付を確認するのが唯一の習慣だった。それすら、もう必要ない。 「装備はパーティ資産だ。置いていけ」  カイルが廊下で腕を組んで待っていた。レンは頷き、支給された防具と杖を並べた。手元に残ったのは、冒険者登録時に支給された初期装備の杖——魔力伝導率が最低クラスの、新人用の木の杖だけだった。握り慣れた感触がある。三年前、この杖一本で冒険者になった。結局、手元に残るのはこれだけだ。 「報酬の精算は」 「今月分の最低保証額を明日ギルド経由で振り込む。端数は切り捨てだ」 「……了解」  玄関の扉を開けると、雨が降り始めていた。  レンは振り返らなかった。振り返る理由がなかった。三年間、自分はここにいた。だが誰の記憶にも、支援術師の姿は残らないだろう。荷物持ちが一人減った。それだけのことだ。  廊下の奥から、すでに酒を再開する気配が伝わってきた。グラスが触れ合う音。誰かの笑い声。扉が閉まる前に聞こえたその音が、三年間の総括だった。

    *

 雨はすぐに本降りになった。  安宿を探す金もない。レンはギルドの軒先まで歩き、掲示板の前で足を止めた。濡れた木の杖を握りしめ、薄暗いランプの下で依頼票を眺める。雨に滲んだインクが、文字の輪郭をぼやかしていた。掲示板の木枠からは黴の匂いがする。この匂いを、三年前にも嗅いだことを思い出した。  Eランク、薬草採取。報酬は銅貨三十枚。  ——明日はこれを受ける。  それだけ決めて、壁に背を預けた。冷たい雨粒が頬を伝う。三年前もこうだった。何も持たず、何者でもなく、この掲示板の前に立っていた。振り出しに戻っただけだ。  違うのは、三年分の疲労が骨に染みついていることだけだった。あの頃はまだ、期待があった。パーティに入れば何かが変わると思っていた。変わったのは、期待しなくなったことだけだ。  そのとき——胸の奥で、何かが軋んだ。  痛みではない。熱でもない。もっと深い場所、骨の髄より奥、魔力の根源に近いどこかで、封じられていた何かが罅を入れるように動いた。  レンは胸を押さえた。息が詰まる。視界の端で、雨粒が一瞬だけ金色に光った気がした。軒先の水溜まりに落ちた雨滴が、波紋の代わりに淡い光の輪を描いて消える。幻覚か。いや——杖を握る右手が、微かに震えていた。魔力の枯渇による震えとは違う。何かが、内側から応えようとしている震えだった。  ——なんだ、今の。  だが軋みはすぐに収まった。残ったのは、微かな熱の余韻だけ。疲労のせいだと、レンは思い込もうとした。  雨脚が強まる。ギルドの時計塔が零時を告げた。鐘の音が雨に溶け、湿った空気を重く震わせた。  レンは初期装備の杖を抱え、軒先に蹲った。明日の朝には森へ向かう。Eランクの依頼を、一人でこなす。それだけだ。  それだけのはずだった。

 同じ頃、パーティハウスの一室。カイルは窓から雨を眺めていた。 「——支援術師の補充、早めに手配するか」  独り言は、すでにレンの名前すら含んでいなかった。  その判断が何を招くか、まだ誰も知らない。

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