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追放錬金術師と精霊の薬草園

第2話 第2話

第2話

第2話

目を覚ましたのは、鳥の声だった。  一羽ではない。何種類もの鳴き声が重なり合って、小屋の薄い壁を通り抜けてくる。高く澄んだ声、低く繰り返す声、遠くで応えるように短く鳴く声。王都では聞いたことのない合奏だった。王都の朝は鐘の音で始まり、鐘の音で区切られていた。時刻を告げる音に支配された暮らしの中では、鳥の声など聞こえていたとしても意識の外にあった。ここには鐘がない。代わりに、名前も知らない鳥たちが好き勝手に朝を告げている。その無秩序さが、不思議と耳に心地よかった。  ハルトは藁束の上で身じろぎした。背中が痛かった。土間の冷たさが一晩かけて体の芯まで沁みていて、指先がうまく動かない。息を吐くと白く曇った。四月の朝だというのに、山あいの冷気は容赦がなかった。肩を回すと、関節がぎしりと音を立てた。王都の薬務院では、硬い寝台でも毛布が二枚支給されていた。あの薄い毛布を贅沢だと思う日が来るとは、昨日までは考えもしなかった。  起き上がって、傾いた扉を押し開けた。蝶番が錆びついていて、木と金属が擦れる嫌な音がした。  朝の光が、目に刺さった。  昨日の夕暮れに見た景色とは別の場所のようだった。谷間を薄い霧が流れていて、斜面に点在する石造りの家々が白くぼやけている。屋根に苔が生え、壁に蔦が這い、どの家も山の一部になりかけていた。煙突から細い煙が立ち上っているのが三軒。空気の中に、薪の燃える匂いと、湿った土の匂いが混じっていた。山の向こうから射す朝日が霧を透かして、谷の底に淡い金色を落としている。その光の中を、小さな羽虫の群れがゆらゆらと漂っていた。  井戸に目をやった。石組みの縁に朝露が光っている。昨夜の青い光のことが頭をよぎったが、今は何の変哲もない古井戸だった。水を汲んで顔を洗うと、冷たさで一気に意識がはっきりした。手のひらに受けた水は透き通っていて、底の小石まで見えるほどだった。唇に触れた水滴は、かすかに甘いような、鉄っぽいような、どちらとも言いきれない味がした。

 小屋の中を改めて見回した。  朽ちた棚、崩れかけた土壁、落ちた屋根の隙間から差し込む光の筋。ここが以前は何に使われていたのか、痕跡をたどった。壁の一角に、何かを吊るしていた釘の跡がある。棚の表面には、丸い染みがいくつも残っていた。瓶か壺を置いていた跡だろう。土間の隅には、石を組んだ小さなかまどの名残があった。  薬師の小屋だったのかもしれない。あるいは、ただの物置だったのかもしれない。どちらでもよかった。  まず、藁束を外に出して日に当てた。湿気を含んで重くなった藁を広げると、土と草の匂いが立ちのぼった。棚は傾いていたが、石を噛ませてやれば水平に戻せそうだった。壁の漆喰は手で触れると粉のように崩れたが、構造を支える石壁自体はしっかりしている。  屋根の穴だけは、どうにもならなかった。見上げると、朝の空が四角く切り取られている。雲が流れていくのが見えた。雨が降れば、この真下は水浸しになる。  革鞄から乳鉢を取り出し、棚の上に置いた。それから調合ノートを隣に並べた。二つの持ち物が、薄暗い小屋の中で妙に存在感を放っていた。置いてから、なぜ置いたのかと思った。もう使うつもりはないのに。乳鉢の内側には、最後に擂り潰した何かの色素がうっすらと残っていた。爪で触れると、指先に薄い緑が移った。  手持ち無沙汰になって、小屋の周りを歩いた。  井戸の向こう側に、かつて何かが植えられていた区画があった。蔓草と雑草に覆われているが、よく見ると畝の痕跡がある。しゃがんで草をかき分けると、見覚えのある葉が目に入った。  丸みを帯びた小さな葉。縁がわずかに紫がかっている。 「ツキミソウ……?」  声に出して、自分で驚いた。ツキミソウは薬草だった。鎮痛作用のある、ごくありふれた野草。薬務院では栽培するまでもないとされていたが、辺境では重宝される種だ。こんな場所に自生しているのか。それとも、かつて誰かが植えたものが野生化したのか。  指先で葉に触れた。肉厚で、状態は悪くない。葉脈がしっかりと浮き出ていて、朝露を弾くだけの張りがある。摘む気はなかったが、触れた指をしばらく離せなかった。薬務院で何百回と繰り返した、葉の厚みで生育状態を測る癖が、指先に染みついていた。  隣に、別の草が生えていた。細長い茎に、小さな白い花。これはヤマハッカだ。消炎作用がある。その奥に、もう一種。灰緑色の産毛に覆われた葉——ニガヨモギの一種だろう。解熱に使う。  三種の薬草が、雑草に紛れてひっそりと生きていた。  ハルトは立ち上がり、改めて周囲を見渡した。谷間の斜面は日当たりがよく、井戸の水は清澄で冷たい。土は黒く湿り気を帯びていて、指で押すと適度な弾力がある。薬草の生育に悪い条件ではなかった。  それがどうした、と思い直した。自分はもう錬金術師ではない。薬草を見つけたからといって、何かをする義理はない。

 日が傾き始めた頃、村の中を歩いてみた。  人の気配は薄かった。畑に出ている者がいるのか、家々の戸は閉じている。砂利道を歩くと、足元から小石の音だけが響いた。  村の中央に、古い掲示板があった。板は灰色に退色していて、釘の跡だけが残っている。その隣に、水場があった。山から引いた水が石の樋を伝って流れている。水音が、やけに大きく聞こえた。  水場の傍らにしゃがんでいた老婆が、ハルトに気づいて顔を上げた。深い皺の刻まれた顔に、色の薄い目。背は小さく、肩の骨が着物の上から浮き出ていた。洗い物をしていた手は節くれだち、爪の間に土が詰まっている。畑仕事の合間なのだろう。 「見かけない顔だね」 「昨日、着いたばかりです」 「ああ、あの小屋かい」  老婆は特に驚いた様子もなく、洗い物に視線を戻した。手元の布を樋の水に浸し、絞り、また浸す。その動きには淀みがなかった。 「あそこには昔、婆さまが住んでいてね。薬草を煎じて、村の者に配っていた。もう二十年も前の話だけど」  やはり薬師の小屋だったのか。あの棚の染みは、薬瓶の跡だったのだろう。壁の釘は、乾燥させた薬草の束を吊るしていた名残か。 「井戸の水は飲めるかい」 「飲めるよ。あの井戸は枯れたことがない。不思議な井戸だって、婆さまが言っていた」  老婆はそれだけ言って、また手元に集中した。会話はそこで自然に終わった。聞きたいことは他にもあったが、口を開くきっかけを逃した。老婆の背中が、もう話は済んだと告げていた。  ハルトは村の端まで歩き、引き返した。帰り道、視界の端に小さな影が動いた気がして振り返ったが、木立の間には何もいなかった。風が枝を揺らしただけだったのかもしれない。夕日が山の稜線に沈みかけていて、木立の影が長く伸びていた。自分の影もまた、細く長く砂利道に落ちている。その影を踏みながら歩いた。

 日が落ちた。  小屋に戻り、日に当てた藁束を敷き直した。昨日よりは多少ましだった。藁が日光の温もりをわずかに残していて、横になった瞬間だけは背中にぬくみが伝わった。井戸の水で喉を潤し、革鞄の底にあった干し肉をひとかけ齧った。固く、塩辛く、噛むほどに顎が疲れた。それでも腹に何か入ると、体の輪郭が少しだけはっきりした。残りはあと三日分。その先のことは、まだ考えたくなかった。  乳鉢とノートが棚の上にある。薄闇の中で、それだけが妙に白く浮かんで見えた。  ——あそこには昔、薬草を煎じる婆さまがいた。  老婆の声が耳に残っていた。  この小屋で、誰かが薬を作っていた。この土地に根を下ろした薬草を使い、この井戸の水で煎じて、この村の人間に手渡していた。二十年前に途絶えた営みの跡に、自分は転がり込んだことになる。  偶然だ。それ以上の意味はない。  横になり、目を閉じた。昨夜よりは少しだけ早く、意識が沈んでいった。  井戸のほうで、また何かが光った気がした。今度は目を開けなかった。開ける代わりに、瞼の裏であの青い色を思い出していた。昨夜より少しだけ近い、ような気がした。  風が止み、虫の声だけが残った夜の底で、井戸の水面はしずかに揺れていた。石組みの隙間から漏れる光は、昨夜よりもわずかに強く、わずかに温かかった。まるで、誰かがそこにいて、こちらを見ているかのように。

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