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追放錬金術師と精霊の薬草園

第1話 第1話

第1話

第1話

「十年だぞ」

 声が口をついて出たのは、薬務院の裏門を抜けたときだった。ハルトは振り返らなかった。振り返れば、あの建物が目に入る。白い石壁に薄緑の蔦が這う、王都で最も古い研究棟。朝の陽光を受けて輝くその姿を、十年間、毎朝見上げてきた。  廊下の奥から、まだ書類を運ぶ足音が聞こえていた。自分がいなくなっても、あの場所は何も変わらない。処方箋の束は棚に残り、調合の手順書は引き継がれ、ハルトという名前だけが静かに消されていく。  石畳の道を歩く足取りは重かった。四月の風が王都の並木を揺らし、どこかの屋敷の庭から甘い花の匂いが流れてきた。いつもなら足を止めて、花弁の色素について考えたかもしれない。あの匂いは鎮静作用のある成分を含んでいる——そんなことを、もう考えなくていい。  荷物は革鞄ひとつだった。着替えと、使い慣れた乳鉢と、擦り切れた調合ノート。研究室にあった素材も器具も蔵書も、すべて院の財産として没収された。当然だ。宮廷錬金術師の研究成果は、すべて王室に帰属する。そういう契約だった。  ただ、名前を消されたのは、契約にはなかった。

 荷馬車の乗り場は王都の南門にあった。御者台に座った痩せた男が、行き先を訊いた。 「北へ」 「北のどこだい」  ハルトは少し考えた。考えたが、何も浮かばなかった。行くあてがあるわけではない。帰る場所があるわけでもない。故郷の村は、十年前に薬務院へ上がるとき、もう戻らないつもりで後にした。両親はとうに亡く、兄弟もいない。 「終点まで」  御者は肩をすくめて、幌の奥を顎で示した。干し草の匂いがする荷台には木箱がいくつか積まれていて、その隙間に人ひとり座れるだけの空間があった。ハルトは革鞄を抱えて乗り込み、木箱に背を預けた。  馬車が揺れ始めた。車輪が石畳を噛む音が規則正しく響く。南門のアーチをくぐると、舗装された街道に変わり、揺れが少しだけ穏やかになった。  今朝のことを思い出す。  新任の院長——レンドルフ卿は、ハルトの研究室に足を踏み入れることすらしなかった。執務室に呼び出し、書類を一枚差し出しただけだ。 「君の研究は、成果が出ていない」  その声には感情がなかった。まるで帳簿の数字を読み上げるように、淡々としていた。机の上には銀の文鎮と、きれいに整えられた羽根ペンが並んでいた。レンドルフ卿はハルトの目を見なかった。見る必要がなかったのだ。結論は、この部屋に入る前から決まっていた。  十年かけた慢性病の特効薬研究。確かに完成には至っていなかった。だが、九十二の処方を体系化し、七つの新しい調合法を確立した。薬務院の薬棚に並ぶ薬の三割は、ハルトが作ったものだ。  それを言おうとして、口を開きかけた。だがレンドルフ卿の視線は既に次の書類に移っていて、ハルトは言葉を飲み込んだ。言ったところで何が変わるわけでもなかった。 「派閥が変わったんだ」  同僚のフェリクスが、廊下でそう囁いた。目を合わせないまま。書類の束を胸に抱え、壁際に寄るようにして立っていた。すれ違う同僚たちは、ハルトの姿が見えないかのように通り過ぎていった。昨日まで挨拶を交わし、調合の相談をし、時には夜遅くまで蒸留器を囲んで議論した人間たちが。 「レンドルフ卿は貴族派だ。お前の後任には、もう別の人間が決まっている。悪いが、俺にはどうにもできない」  フェリクスの声には、申し訳なさと、それ以上の安堵が混じっていた。自分でなくてよかった、という種類の安堵。ハルトはそれを責める気にはなれなかった。十年いて、わかっていたことだ。宮廷とはそういう場所だった。  追放の書状には、理由が一行だけ記されていた。「研究成果の不足による任の解除」。その下に、院長の署名と王室の印。ハルトの署名欄はなかった。同意は求められていない。  馬車が街道の曲がり角にさしかかった。ハルトは無意識に振り返り、そしてすぐに目を逸らした。王都の尖塔が、午後の光の中で白く光っていた。あの塔の三階に、自分の——いや、もう自分のではない研究室があった。窓辺に置いた蒸留器は、今頃誰かに片付けられているだろう。あるいは、もう捨てられたかもしれない。  革鞄の中で、乳鉢が小さく音を立てた。

 二日目の夕方から、景色が変わり始めた。街道沿いの畑が減り、代わりに針葉樹の森が道の両側に迫ってきた。空気が冷たくなった。四月だというのに、吐く息がうっすら白い。  御者が時折、振り返って声をかけてきた。 「あんた、本当に終点まで行くのかい。この先は何もないぞ」 「何もないほうがいい」 「ラウネって村が最後の集落だ。その先は山しかない」  ハルトは答えなかった。幌の隙間から見える空は、王都よりもずっと広かった。雲が低く、山の稜線にかかっている。風が松脂の匂いを運んできた。  三日目の朝、馬車は細い砂利道の行き止まりで止まった。 「ここがラウネだ。帰りは——まあ、行商が月に一度来る。それに乗るしかないな」  御者は荷物を降ろすのを手伝い、気まずそうに去っていった。  村は、想像よりもさらに小さかった。石造りの家が十数軒、谷間の斜面にしがみつくように建っている。煙突から煙が上がっているのは半分ほど。人の姿は見えなかった。  村のはずれに、崩れかけた小屋があった。扉は傾き、壁の漆喰は剥がれ、屋根の一部が落ちている。その隣に、雑草に埋もれた石組みの古井戸。周囲にはかつて何かが植えられていた痕跡があったが、今は蔓草に覆われて判別できなかった。  ハルトは小屋の中を覗いた。埃と湿った木の匂い。土間に藁束が散らばり、壁際に朽ちた棚がひとつ。窓から差し込む夕方の光が、埃の粒子を浮かび上がらせていた。  ここでいい、と思った。理由は特になかった。ただ、これ以上歩く気力がなかった。  藁束をかき集めて寝床を作り、革鞄を枕元に置いた。井戸から水を汲んで口をつけると、思いのほか澄んだ味がした。山の雪解け水だろう。冷たさが喉を通り、胃の底まで沁みた。  夕暮れが、山の向こうに沈んでいく。空が橙から藍に変わる、その境目の色は、王都では建物に遮られて見えなかったものだった。虫の声が、どこからともなく聞こえ始めた。遠くで鳥が一声鳴いた。  ハルトは井戸の縁に腰を下ろし、空を見上げた。星が、ひとつ、またひとつと現れた。

 暗くなった小屋の中で、寝返りを打った。眠れなかった。  藁束は体の下で潰れて薄くなり、冷たい土間の硬さが背中に伝わってきた。研究室の寝台とは比べものにならない。あの寝台も粗末なものだったが、少なくとも毛布があり、壁の向こうには蒸留器の微かな音があった。  十年の日々が、暗闘の中で巻き戻される。蒸留器の湯気。書庫の黴の匂い。提出した報告書の束。そのどれひとつとして、自分のものとしては残らなかった。  処方箋から名前を消す——あれは追放よりも堪えた。あの処方箋は、何百回もの失敗の上に成り立っている。指先が薬品で荒れ、夜通し蒸留器を見張り、ようやく辿り着いた配合。それが「薬務院の成果」として、誰のものでもない顔で棚に並ぶ。 「もう、誰のためにも調合しなくていい」  呟きは、小屋の土壁に吸い込まれて消えた。  そのとき、井戸のほうで何かが光った。  ハルトは身を起こした。窓の隙間から覗くと、井戸の水面が淡い青色に光っている。蛍のような、だがもっと均一な、静かな光。水面が揺れるたびに、光の輪がゆっくりと広がり、井戸の石壁を柔らかく照らした。  錬金術師としての習性が、原因を特定しようとした。発光性の鉱物か、あるいは微生物の反応か。頭の中で可能性を並べ、それぞれの検証手順を組み立てかけた。十年間そうしてきたように。だが体は動かなかった。動かす理由が、もう見つからなかった。  光はしばらく揺れていて、やがて消えた。  ハルトは藁束の上に倒れ込み、目を閉じた。見なかったことにしよう。明日にはきっと、何も残っていない。  だが瞼の裏に、あの青い光がいつまでも残っていた。王都の冷たい灯りとは違う、どこか温かみのある色だった。

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