第1話
第1話
薬務院の廊下は、いつもと同じ白檀の香りがしていた。
ユーリは十二年間、この香りの中で生きてきた。朝は誰よりも早く調合室に入り、夜は月が傾くまで薬棚の整理を続けた。流行り病が王都を襲ったときは三日眠らず、貴族の令嬢が原因不明の発疹に苦しんだときは七つの処方を試して治した。すべて、この石畳の上で積み重ねた日々だった。
その日々が、たった一枚の紙切れで終わった。
「辞令だ。本日付で薬務院付き薬師の任を解く」
新任院長のゲルツは、書類から目も上げなかった。つい先月着任したばかりの男だ。名門貴族の三男で、薬学の実務経験はほとんどないと聞いている。だが血筋と学院の席次だけで、十二年の経験を持つ薬師の上に座った。
「……理由を、伺っても」
声が震えなかったのは、長年の訓練のおかげだった。宮廷で感情を見せることは弱味を晒すことと同じだと、最初の一年で思い知らされていた。
「改革だよ。王宮の薬務に相応しい人材を揃え直す。平民上がりの薬師を置いておく理由がない」
平民上がり。その四文字が、胸の奥で古い傷口を開いた。何度も言われてきた言葉だった。成果を上げるたびに「平民にしては」と付け加えられ、手柄は上官の名で報告された。それでも薬を必要とする人がいる限り、耐えられた。調合台に向かっている間だけは、身分も政治も関係なかったから。
「退職金の代わりに、これを用意した。感謝するといい」
ゲルツが差し出したのは、一枚の馬車券だった。行き先を読んで、ユーリは息を詰めた。
北嶺領カルム村。王都から馬車で五日、国境に近い辺境の寒村だ。冬は雪に閉ざされ、商人すら寄りつかないと聞く。
「赴任ではありません。これはただの——」
「片道券だ。明朝の便が出る。荷物をまとめたまえ」
ゲルツは初めてユーリの目を見た。そこにあったのは悪意ですらなく、ただ視界の端の塵を払うような無関心だった。
調合室に戻ると、すでに私物が木箱にまとめられていた。誰かが気を利かせたのか、あるいは追い出す準備が先に済んでいたのか。同僚たちは目を伏せたまま作業を続けている。十二年一緒に働いた者たちが、誰一人として顔を上げなかった。
ユーリは木箱を抱えた。使い込んだ乳鉢、摺り棒、薬草の図鑑。どれも自費で揃えたものだ。乳鉢の縁はすり減って薄くなり、摺り棒の柄には手の形に沿った窪みができている。何千回と繰り返した調合の跡だった。この調合室で唯一、自分のものと呼べるのはこれだけだった。
「ユーリ先生」
廊下の角で、若い見習いのリータが待っていた。目が赤い。
「先生がいなくなったら、調合の質が——」
「大丈夫。私が書き残した処方録が薬棚の三段目にある。基本の調合ならあれで困らない」
本当は大丈夫ではないと、二人とも分かっていた。処方録に書けるのは手順と分量だけだ。薬草の状態を見極める目、煎じる火加減の呼吸、患者の顔色から症状を読む勘——そういったものは紙には残せない。けれど今のユーリに言えるのは、嘘でも「大丈夫」だけだった。
リータの肩にそっと手を置きたかったが、木箱で両手がふさがっていた。だから小さく笑って見せた。十二年で身についた、何でもないふりをする技術だった。
翌朝、ユーリは王都の東門から出る乗合馬車に揺られていた。
乗客は少なかった。荷台の隅に腰を下ろし、木箱を膝の上に載せる。馬車が街道に出ると、朝靄の中に王宮の尖塔がぼんやり浮かんでいた。あの尖塔の下で十二年間、夜明け前に起きて薬草を煮出していた。湯気の向こうに見える空が白んでいく時間が、ユーリは好きだった。
もう、あの景色は見られない。
馬車は北へ向かう。街道の両脇に広がる麦畑が、やがてまばらな林に変わり、さらに進むと見慣れない低木の群れが現れた。空気も変わった。王都の乾いた埃っぽさが消え、代わりに土と緑が混じった湿った匂いが漂い始めている。ユーリはぼんやりと窓の外を見ていたが、ふと目が止まった。
道端の斜面に、小さな白い花が群生していた。
「……ミズナ草?」
思わず声が出た。ミズナ草は傷口の消毒に使う一般的な薬草だが、これほど密集して自生しているのを見たことがない。王都の周辺ではとうに採り尽くされ、栽培品を高値で買うのが常だった。それが、こんな街道脇に無造作に広がっている。
目を凝らすと、ミズナ草の奥にも見覚えのある葉の形がいくつもあった。ノコギリ蓬、苦杏の若芽、それから——名前がすぐに出てこない赤い茎の草。図鑑で見たことがある。寒冷地にしか生えない、希少な種だったはずだ。膝の上の木箱から図鑑を引っ張り出しかけて、やめた。馬車は止まってくれない。だが目だけは斜面を追い続けていた。
枯れかけていたはずの胸の奥で、何かが小さく灯った。薬師としての目が、十二年間磨いてきた目が、勝手に働き始めていた。
北に向かうほど、野草の種類は増えていった。
三日目の夕方、馬車は峠を越えた。眼下に広がったのは、灰色の雲に覆われた谷間の集落だった。家々の屋根は苔むし、畑は痩せて見える。人の姿はまばらで、煙を上げている煙突も数えるほどしかない。
「カルム村だ。降りる者は降りろ」
御者が振り返りもせずに言った。ユーリの他に降りる者はいなかった。
馬車が去ると、風の音だけが残った。四月だというのに空気は冷たく、吐く息がうっすら白い。木箱を抱えて村の入り口に立つと、朽ちかけた道標が傾いでいるのが見えた。文字はほとんど読めない。
遠くで犬が一声吠えたが、すぐに静かになった。通りに面した家の窓から、こちらを窺う視線を感じた。だが戸を開ける者はいない。余所者を歓迎する土地ではないのだろう。ユーリは誰に声をかけるでもなく、村の奥へ向かって歩き始めた。
村の外れに、小屋があった。石壁の半分が崩れかけ、屋根板の隙間から空が見える。誰かがずいぶん前に放棄した建物だろう。戸口には蔦が絡まり、中からは湿った土の匂いがした。
ユーリは木箱を下ろし、戸口の蔦を手で払った。蔦は思いのほか強く根を張っていて、引き剥がすと壁の漆喰が一緒に崩れ落ちた。中に入ると、土間に落ち葉が積もっている。壁の棚は傾き、窓の覆いは朽ちて、夕方の薄い光が斜めに差し込んでいた。
ひどい有り様だった。王宮の調合室とは比べるべくもない。
けれど。
ユーリは深く息を吸った。冷たい空気の奥に、かすかだが確かに、薬草の匂いが混じっていた。土と、枯れ葉と、それからどこかで咲いている花の香り。この匂いは知っている。薬草が近くに自生している土地特有の、青く澄んだ気配だった。
窓の外では、雲の切れ間から夕日が一筋、谷間を染めていた。遠くの山肌が淡い橙に色づき、冷たい風が小屋の中を通り抜けていく。
誰もいない。誰にも急かされない。報告書も、上官の顔色も、平民上がりという言葉もない。
ユーリは崩れかけた棚に乳鉢を置いた。摺り棒を隣に並べ、図鑑をその横に立てかけた。十二年間持ち歩いた道具が、新しい場所にそっと収まる。棚は傾いでいたが、乳鉢の重みで少しだけ水平に近づいた。まるで待っていたかのように、ちょうどよく収まった。
「——ここで、静かに暮らそう」
声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。もう宮廷には戻れない。戻る場所もない。でも、この手と、この知識だけは誰にも奪われなかった。
外で風が鳴った。小屋の隙間から覗く空は、もう暗くなり始めている。明日、まずこの屋根を直そう。それから周囲の薬草を調べよう。一つずつ、ゆっくりと。
ユーリは荷台から引っ張り出した毛布にくるまり、土間の隅に横になった。冷たい床だった。石の隙間から地面の冷気が這い上がってきて、背中が強張る。けれど不思議と、王宮の柔らかな寝台よりも、体の力が抜けていく気がした。
遠くで、獣とも風ともつかない低い声が聞こえた。山の奥から響いてくるような、深く、長い音だった。
ユーリは薄れゆく意識の中で、その音を聞いていた。何の声だろう、と思ったが、考える前に眠りが来た。五日ぶりの、穏やかな眠りだった。