第2話
第2話
夜中に目が覚めたのは、顔に水が落ちたからだった。
冷たい雫が額を伝い、こめかみを濡らす。寝ぼけた手で拭いながら体を起こすと、また一滴、今度は首筋に落ちた。暗闇の中で天井を見上げる。屋根板の隙間から、雨粒が不規則に滴っていた。
外は本格的な雨になっていた。風はないが、細かい雨音が小屋全体を包んでいる。ユーリは毛布を引きずって場所を移したが、別の隙間から別の雫が落ちてきて、結局土間の端にある壁際の一角だけが唯一の安全地帯だった。石壁に背中を預けると、冷気がじわりと沁みてくる。
眠れなかった。雨漏りのせいだけではない。暗闇の中で聞こえるのは雨と、ときおり屋根板が軋む音だけだ。王宮では夜中でも誰かの足音がしていた。宿直の衛兵が廊下を歩き、遠くで時計塔が鳴り、調合室の隣では当直の薬師が薬を煮ている気配があった。十二年間、人の気配の中で眠っていたのだと、今になって気づく。
ここには、誰もいない。
毛布の端を握りしめたまま、ユーリは壁に額をつけた。石の冷たさが心地よいのか不快なのか、自分でも分からなかった。やがて雨音が一定のリズムを刻み始めると、それが子守唄の代わりになったのか、意識がゆっくりと沈んでいった。
次に目を開けたとき、小屋の中が白く明るくなっていた。
雨は止んでいた。屋根板の隙間から朝の光が何本も差し込み、土間に落ちた水たまりを照らしている。水面が光を弾いて、崩れかけた壁に細かな模様を揺らしていた。
ユーリは体を起こし、首を回した。背中が固い。石壁に寄りかかったまま眠ったせいで、肩から腰にかけてが板のように強張っている。王宮にいた頃は、寝台で眠っても翌朝に凝りを感じることがあった。当たり前だ。十二年も同じ姿勢で調合台に向かっていれば、体はどこかしら歪む。
立ち上がると、膝が鳴った。三十四歳の体は素直だった。
木箱から水筒を取り出し、残りの水で顔を洗う。昨日の馬車旅で汲んだ分だから、もう底が見える。水場を探さなければ。食料も、昨日街道沿いの宿場で買った干し麺麭が少しあるだけだ。まず生活の基盤を整えることが先だった。
戸口の蔦を跨いで外に出ると、朝の空気が頬を撫でた。
雨上がりの空は高く、薄い雲が東の山の稜線に沿って棚引いている。昨日の夕方には灰色に沈んでいた谷間が、朝日を受けて淡い緑に染まっていた。小屋の前には痩せた草地が広がり、その先に低い石垣が続いている。石垣の向こうは緩やかな斜面で、そこに——。
ユーリは足を止めた。
斜面一面に、見たことのない草が生えていた。細い茎に、深い緑の葉が互い違いについている。葉の縁がわずかに紫がかっていて、朝露を載せた姿が硝子細工のように光っていた。膝の高さほどの丈で、風に揺れると葉の裏側が銀色に光る。
「何だ、これは」
しゃがみ込んで葉に触れた。肉厚で、指先に微かな粘りがある。茎を折ると断面から薄い乳液が滲み出た。鼻に近づけると、清涼感のある香りがした。薄荷に似ているが、もっと奥行きがある。甘さと苦さの境目にあるような、不思議な匂いだった。
図鑑に載っている薬草のどれとも一致しない。少なくとも、ユーリが暗記している三百七十二種の中には該当するものがなかった。北方の寒冷地にしか生えない種は記録が少なく、図鑑の記述も簡素だ。もしかすると、文献にはあるが実物を見た者がほとんどいない類の薬草かもしれない。
ユーリは立ち上がり、斜面を歩いた。雨上がりの土が柔らかく、靴底が沈む。見知らぬ薬草の群生は斜面のかなり広い範囲に及んでいて、途中から別の種も混じり始めた。こちらは知っている。ヤマニガナだ。解熱に使う。その隣にはホソバ蓮華。止血に使える。さらに奥には——。
「こんなに……」
声が漏れた。この斜面だけで、王都の薬種問屋の棚一つ分に匹敵する種類が自生している。しかもどれも状態がいい。人の手が入っていない自然のままの群生で、葉も茎も虫食いが少なく、根がしっかり張っているのが土の盛り上がりで分かった。
寒冷地の薬草は成長が遅い分、有効成分が凝縮される。王都で流通する栽培品とは比較にならない効能を持つものもある。ユーリは薬師として、それを知識としては知っていた。だが実際に目の当たりにすると、胸の奥が静かに震えた。
ここは、宝の山だ。
斜面の上まで登ると、村の全景が見えた。二十軒ほどの家が谷間に点在し、中央に小さな広場と井戸がある。煙突から煙が上がり始めている家もあった。朝の仕事が始まる時間らしい。
意を決して村の中へ足を踏み入れると、井戸端で水を汲んでいた女が顔を上げた。ユーリが会釈すると、女は目を逸らし、桶を抱えて足早に去っていった。次に通りかかった男も同じだった。こちらを一瞥し、何も言わずに畑の方へ歩いていく。
余所者に壁があるのは分かっていた。辺境の小さな村では当然のことだ。ユーリは気にしないふりをして、井戸の水を水筒に汲ませてもらった。誰にも断りを入れられなかったが、井戸は共有のものだろうと判断した。水は透き通っていて、口に含むと仄かに甘かった。山の雪解け水が地下を通ってきているのだろう。
小屋に戻ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「あんたが昨日の馬車から降りた人かい」
振り返ると、小柄な老婆が立っていた。白髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔に小さな目が光っている。背は曲がっているが、声には張りがあった。両腕に抱えているのは、厚手の毛布だった。
「そうです。ユーリと申します」
「わたしはマーラ。一応この村の長をやっとる」
マーラはユーリを上から下まで眺め、それから小屋の方に目をやった。
「あの小屋に住むつもりかい。三年は誰も使っとらんよ」
「屋根の修理をすれば、なんとか」
「なんとかね」
マーラは短く笑った。それから抱えていた毛布をユーリに押しつけた。
「夜は冷える。これ使いな」
受け取った毛布は、使い古されて毛羽立っていたが、厚みがあって温かそうだった。洗いたての匂いがする。
「ありがとうございます。あの、何かお返しを——」
「いらんよ。余っとるだけだ」
素っ気ない口調だったが、わざわざ持ってきてくれたのだ。余っているだけということはないだろう。ユーリは毛布を胸に抱えて頭を下げた。
マーラは踵を返して歩き始めた。その後ろ姿を見て、ユーリの目が細くなった。
右足を引きずっている。
一歩ごとに右膝がわずかに内側に折れ、着地のたびに上体がぶれる。庇い歩きだ。痛みのある側に体重をかけまいとして、反対側の腰に負担が移っている。歩幅も左右で違う。右足の歩幅が明らかに短い。
慢性的な膝の炎症。おそらく変形を伴っている。長年の農作業か、あるいは山道の上り下りで関節に負荷が蓄積したのだろう。この寒冷地の湿気が症状を悪化させているはずだ。
ユーリは口を開きかけて、やめた。昨日来たばかりの余所者が、いきなり体の不調を指摘するのは失礼だ。まだ信用もない。
だが目は、マーラの足元を追い続けていた。右膝を庇うたびに左の腰が沈む。あの歩き方を続ければ、いずれ腰も悪くなる。
薬師としての自分が、頭の中で処方を組み立て始めていた。抗炎症にはヤマニガナの根の煎じ液。鎮痛にはホソバ蓮華の葉を擂り潰した湿布。どちらも今朝、あの斜面で見つけた。
小屋に戻ると、ユーリはマーラの毛布を棚の上に丁寧に畳んで置いた。そのまましばらく、毛布の端に触れていた。
王宮で追い出された日、誰もこうして毛布を差し出してはくれなかった。十二年間同じ廊下を歩いた同僚たちが、目を伏せて通り過ぎたあの朝とは違う。たった一枚の古い毛布が、ユーリの胸のどこかに、静かに沁みていた。
窓の外では、朝の光が斜面の薬草を照らしている。名前も分からない紫がかった葉が、風に揺れてきらきらと光っていた。あの斜面を、もっとよく調べたい。この村に生える薬草のすべてを知りたい。そしてもし——できることなら——。
ユーリは乳鉢に手を伸ばした。使い込んだ縁の感触が、指先に馴染む。
まだ何も始まっていない。けれど今朝、一枚の毛布をくれた人がいた。その人の足が、痛んでいた。
それだけで、十分だった。