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継承者の痣

第2話 第2話

第2話

第2話

その揺れは、夜明け前にやってきた。

 最初は夢の中の出来事だと思った。闇の底で巨大な紋章が脈打ち、その鼓動に合わせて世界そのものが震えている——そんな夢を見ていた。だが次の瞬間、寝台ごと身体が跳ね上がり、天井から土埃が降り注いだ。リュカは反射的に転がり落ち、床に膝をついた。

 地震だ。

 壁の石組みが軋み、棚に並べていた干し肉の瓶が次々と落ちて砕ける。揺れは収まるどころか、腹の底に響く低い唸りを伴って激しさを増していった。大地そのものが苦悶の声を上げているかのようだった。

「リュカ!」

 祖父の声。隣の部屋から駆け込んできたザールが、リュカの腕を掴んで外へ引きずり出した。戸口を抜けた瞬間、背後で石壁の一部が崩れる鈍い音がした。

 村中が悲鳴と怒号に満ちていた。家畜が暴れ、犬が吠え、石畳の継ぎ目から細い亀裂が走っている。井戸の水が溢れ出し、黒々とした泥水が石畳を這うように広がっていった。リュカは裸足のまま広場に立ち尽くし、揺れが去るのを待った。

 やがて、長い長い震動がゆっくりと鎮まった。残されたのは、静寂と、土埃の匂いと、誰かの啜り泣きだけだった。

 そして——山が、崩れていた。

 裏山の北斜面。昨日まで鬱蒼とした針葉樹に覆われていたその一帯が、巨大な爪で抉り取られたように削げ落ちている。土砂が谷筋を埋め、折れた大木が幾本も斜面に突き刺さっていた。朝もやの中に土の匂いが立ちこめ、まだ小石がぱらぱらと転がり落ちる音が続いている。

 だがリュカの目を捉えたのは、崩落の規模ではなかった。

 露出した山肌の中腹に、灰色の石壁が見えている。土砂に半ば埋もれながらも、人の手で積まれたことが明らかな、整然とした切石の壁面。そしてその中央に、闇を湛えた矩形の開口部——扉だ。いや、門と呼ぶべき大きさだった。

 左手が、熱い。

 痣ではない、紋様だと昨夜知ったばかりのそれが、手袋の下で脈打つように発熱していた。心臓の拍動と同期するかのように、熱が強まり、弱まり、また強まる。まるで何かが、あの門の奥から呼びかけているようだった。

「あれは……」

 隣でザールが息を呑んだ。祖父の顔から血の気が引いていくのが、朝の薄明かりの中でもはっきりと見て取れた。

「じいちゃん、あれが——昨日話してた遺跡か」

 ザールは答えなかった。ただ、リュカの左手を見つめていた。手袋の下で仄かに光が漏れていることに、二人とも気づいていた。

 昼前には村の全容が明らかになった。家屋の倒壊は三軒、怪我人は十数名。幸い死者は出なかったが、北斜面の崩落で山道が塞がれ、隣村への連絡路が断たれていた。村長のグレンが広場に人を集め、被害の確認と復旧の手配を進める中、誰もが裏山に現れた石壁のことをひそひそと囁き合っていた。

「古い時代の遺跡だろう。この山にあんなものがあるとは知らなんだ」

「ありゃあ近づかんほうがいい。地震で出てきたもんに碌なもんはない」

「封じてあったんじゃないのか。封じてあったものが、開いちまったんだ」

 村人たちの声には畏れが滲んでいた。辺境の民にとって、古代の遺跡とは祝福ではなく災厄の予兆だ。かつてこの大陸を覆った魔の時代——千年前の大戦の残滓が、人知れず地の底に眠っていることを、彼らは伝承として知っている。

 村長が裏山への立ち入りを禁じたのは、当然の判断だった。

「子供は絶対に近づくな。大人も同じだ。あの石壁には何が仕掛けてあるかわからん」

 その日の午後、リュカは崩れかけた納屋の修繕を手伝いながら、何度も裏山に目をやった。灰色の石壁は午後の陽を受けて鈍く光り、門の内側の闇はいっそう深く沈んで見えた。左手の熱は朝から引いていない。むしろ微かに強くなっている気がした。掌を開くたび、紋様の線が昨日より僅かに濃くなっているような——いや、それは気のせいだと思いたかった。

 夕刻、村に一頭の早馬が駆け込んできた。

 乗っていたのは、麓の町アンベルに駐在するギルドの連絡官だった。地震の報を受けて派遣されたらしく、泥にまみれた外套のまま村長の家に転がり込むと、しばらくして村長と共に広場に姿を現した。

「ギルドから正式な依頼が出た」

 村長の声に、広場に集まった村人たちが静まり返る。

「裏山に露出した構造物について、初期調査を行う者を募る。報酬は銀貨五枚。ただし、内部への立ち入りは入口付近の目視確認までとし、危険と判断した場合は即座に撤退すること」

 銀貨五枚。ハルトの水準では破格だった。だが誰も名乗り出なかった。沈黙が広場を満たし、村人たちは互いの顔を窺うばかりだった。あの石壁の前に立つことを、誰もが恐れていた。

 リュカの心臓が早鳴りしていた。

 左手の熱。昨夜の祖父の言葉。遺跡の紋章と寸分違わぬ紋様。すべてが、あの門の奥に繋がっている。自分が何者なのか——その答えが、あそこにある。理屈ではなく、身体がそう告げていた。血の一滴一滴が、地の底に向かって引かれているような感覚。

 近づくな、と祖父は言った。触れてはならんものがある、と。

 だが。

「——俺が行きます」

 声が出ていた。自分でも驚くほど静かな声だった。広場の視線が一斉にリュカに集まる。おかみが目を見開き、村長が眉を顰め、子供たちが口を開けてこちらを見ている。

「拾い子が何を言い出す」

 誰かが呟いた。だがリュカは構わなかった。連絡官のほうを真っ直ぐに見て、続けた。

「俺はギルドの末端依頼を三年こなしてきました。裏山の地形は誰よりも知っています。入口の確認だけなら、俺にやらせてください」

 連絡官は若い村人の顔をしばらく見つめ、それから村長に目を向けた。村長は渋い顔だったが、他に志願者がいない以上、選択の余地は狭い。

「……ザール殿はご存じなのか」

「これから話します」

 嘘ではなかった。だが、祖父が許すとは思えなかった。

 家に戻ると、ザールは囲炉裏の前に座っていた。リュカが口を開くより先に、祖父が言った。

「聞こえていた」

 広場から家までは百歩と離れていない。リュカの声が届いていたのだろう。ザールは火を見つめたまま動かなかった。炎が爆ぜ、薪が崩れ、赤い火の粉が闇に散る。

「じいちゃん、俺は——」

「わかっている」

 ザールの声は低く、枯れた木の幹のようだった。

「止めても無駄だということくらい、十五年も育てていればわかる。お前は山の向こうを見る目をしている。わしが何を言っても、お前はいずれあそこに行く」

 祖父が顔を上げた。その目には怒りではなく、深い哀しみに似たものが宿っていた。十五年分の沈黙が、ここに来てようやく限界を迎えたのだと、リュカは悟った。

「だが聞け。あの遺跡の奥には、触れた者の運命を変えるものがある。わしはお前を連れ出すとき、それを見た。紋章に囲まれた石の間。その上にお前がいて——その下に、何かが封じられていた」

「何かって——」

「わからん。わしにはわからなかった。だが、あれは人の手に負えるものではない。それだけは確かだ」

 ザールは立ち上がり、リュカの肩に手を置いた。太く節くれだった指が、微かに震えている。

「入口だけだ、リュカ。奥には絶対に入るな。何が呼んでも、応えるな」

 リュカは祖父の目を見つめ、頷いた。だがその頷きが、どこまで自分自身への約束として保てるのか——左手の脈打つ熱が、答えを暗示しているようだった。

 その夜もまた、リュカは眠れなかった。窓の外には半月が昇り、裏山の崩落面を青白く照らしている。露出した石壁が、月光の下でかすかに——本当にかすかに——紋様の輝きを帯びているように見えた。

 左手の紋様が、それに呼応するように明滅している。

 脈拍と同じ律動。地の底から伝わる振動。まるで巨大な心臓が、山の下で目を覚まそうとしているかのようだった。

 ——来い。

 声ではない。音ですらない。だが左手を通じて流れ込んでくるそれは、言葉以上の切実さを持っていた。身体の奥底にある何かが、その呼びかけに共振している。

 リュカは掌を握りしめ、目を閉じた。明日、あの門の前に立つ。入口だけだと祖父に誓った。だが地の底から響くこの鼓動が、果たして入口で止まることを許してくれるのか——その確信は、どこにもなかった。

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