第1話
第1話
山の向こうには、まだ見たことのない空があるはずだった。
朝靄が谷間を這うように流れている。辺境の山村ハルトは、エルディア大陸の北東の端——王都からは馬で二十日、隊商の荷馬車なら一月はかかる僻地にある。石積みの家々は山肌に寄り添うように建ち、村を囲む針葉樹の森からは、冷たい樹脂の匂いが絶えず風に乗って降りてくる。朝の空気は肺の奥まで沁み込むほど冷たく、吐く息がうっすらと白く漂っては消えた。
リュカは納屋の戸を肩で押し開けた。十五の少年にしてはやや小柄で、日に灼けた肌と、落ち着きのない琥珀色の瞳をしている。腰には革紐で括った採集袋、背には祖父から借りた古い短弓。弦は何度も張り替えた跡があり、握りの部分だけが黒く磨り減っている。今日の仕事は、村から半刻ほど登った北斜面での薬草採取だった。
冒険者ギルドの末端依頼。報酬は銅貨八枚。街道沿いの町ならば子供の駄賃にもならない額だが、ハルトではそれでも貴重な現金収入だった。
「リュカ、また山か」
井戸端で水を汲んでいた隣家のおかみが声をかけた。その目に浮かぶのは同情とも憐憫ともつかない色で、リュカはもうとっくにそれに慣れていた。
「ギルドの依頼です。霜降り草を二十束」
「気をつけなよ。このところ、獣の気配が濃いって猟師衆が言ってたから」
おかみは桶を井戸の縁に置き、声をひそめるように付け加えた。その横では、彼女の末の息子が母親の腰にしがみつきながら、リュカのほうをじっと見ていた。幼い子供の無遠慮な視線。リュカはそれに小さく笑いかけたが、子供は母親の背に顔を埋めてしまった。
リュカは軽く頭を下げ、村の石畳を足早に抜けた。背中にまとわりつく視線を、振り払うように。
——拾い子。
ハルトの誰もがそう呼ぶ。十五年前、猟師のザールが裏山の遺跡から抱えて帰ってきた赤子。母の名も、父の名もわからない。ザールは一切の事情を語らず、ただ黙って育てた。村人たちは最初こそ気味悪がったが、年月が経つにつれ、その関心は無関心へと変わった。嫌われているのではない。ただ、どこにも属していないのだ。
北斜面の森に入ると、湿った土の匂いが鼻腔を満たした。頭上では枝葉が重なり合い、木漏れ日が地面にまだらな模様を落としている。足元の落ち葉は朝露を含んで柔らかく、踏むたびにかすかな水音を立てた。苔むした岩の隙間に、霜降り草の白い葉が群生している。リュカは腰を屈め、根を傷つけないよう丁寧に摘み取った。葉の裏に浮かぶ霜のような白い粉が指先に付き、ひんやりとした感触が手のひらに広がる。この粉が薬効の源だと、最初に教えてくれたのは祖父だった。
ギルドの依頼をこなすようになったのは十二の頃からだ。薬草採取、魔獣の痕跡調査、山道の倒木処理。どれも冒険者を名乗るには程遠い雑務だったが、リュカにとっては山の向こうに繋がる唯一の糸だった。依頼書に記された町の名前、薬草の届け先、遠い国で採れる鉱石の名。そのひとつひとつが、まだ見ぬ世界の欠片のように思えた。
「……二十束」
数を確かめ、採集袋の口を縛る。ふと顔を上げると、木々の隙間から山脈の稜線が見えた。幾重にも連なる峰の向こう、雲が途切れたわずかな隙間に、陽光が一筋だけ差している。あの光の先に何があるのか、リュカは知らない。
左手が微かに疼いた。
手袋を外し、掌を見る。手首から指の付け根にかけて広がる紋様——痣と呼ぶには整いすぎた、幾何学的な文様。幼い頃はただの痣だと思っていた。だが成長するにつれ、それが自然にできたものではないと気づいた。線の一本一本が精緻に組み合わさり、まるで誰かが意図をもって刻んだかのような形をしている。
祖父に訊いても、いつも同じ答えだった。「気にするな」と。
陽が傾く頃、村に戻ったリュカはギルドの出張所——といっても村長宅の一角に設けられた木箱と帳簿だけの簡素な窓口だが——に薬草を納め、銅貨を受け取った。帰り道、村の子供たちが広場で遊んでいるのが見えた。木剣を振り回し、勇者ごっこに興じている。
「俺が勇者だ! 魔王を倒すぞ!」
「ずるい、俺もやりたい!」
笑い声が夕空に溶けていく。リュカは足を止めかけて、すぐにまた歩き出した。あの輪の中に自分の居場所がないことは、もうずっと前から知っている。仲間外れにされたわけではない。誰かに突き飛ばされたこともない。ただ、自分から輪に加わろうとしたことが一度もなかった。入る理由がわからなかったのだ。それが孤独だと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
家に着くと、囲炉裏に火が入っていた。祖父のザールが鉄鍋で芋を煮ている。白髪混じりの髪を無造作に束ね、深い皺の刻まれた顔は、山そのもののように険しい。だがリュカには分かっていた。この寡黙な老人の手が、自分をどれだけ丁寧に育ててきたかを。
「帰ったか」
「うん。霜降り草、二十束。銅貨八枚」
ザールは頷いただけで、椀に芋を盛った。二人の夕食はいつもこうだ。言葉は少なく、囲炉裏の火が爆ぜる音だけが家を満たす。
食事を終え、リュカが椀を洗っていると、ザールが珍しく口を開いた。
「リュカ」
その声に、いつもとは違う重さがあった。リュカは手を止め、振り返る。祖父は囲炉裏の火を見つめたまま、しばらく沈黙していた。炎の影が頬の皺を深く刻んでいる。
「その痣のことだ」
心臓が跳ねた。リュカは無意識に左手を握り込む。濡れた椀が手から滑り落ちそうになり、慌てて掴み直した。水の冷たさが、急に遠くなる。
「じいちゃん——」
「お前がもっと大きくなるまで黙っているつもりだった。だが……このところ、夢見が悪い。山が、嫌な軋み方をしている」
ザールはようやく顔を上げた。猟師として五十年、山と向き合ってきた男の目だった。獲物を見る目でも、孫を見る目でもない。何か、もっと大きなものを見据えている目。囲炉裏の炎が瞳の奥に揺れ、その目はまるで、山の暗がりの中で何かの気配を捉えた獣のように鋭かった。
「十五年前の冬だ。わしは裏山の奥で遺跡を見つけた。それまで誰も知らなかった場所だ。土砂崩れで石壁が剥き出しになっていた」
リュカは息を詰めた。祖父が過去を語ること自体が、ほとんど初めてだった。
「中に入ると、壁一面に紋章が刻まれていた。わしには読めん。だが、その一番奥に——お前がいた」
「……俺が」
「泣きもせず、石の台の上に寝かされていた。生まれたばかりの赤子が、真冬の遺跡の中で、息をして」
ザールの声が僅かに震えた。それはリュカが知る限り、初めてのことだった。
「周りの空気だけが温かかった。外は雪が降っていたのに、お前のいた場所だけ、春のようだった。壁の紋章が——淡く、光っていた」
「お前の左手には、もうあの紋様があった。壁に刻まれた紋章と、寸分違わぬ同じものだ」
囲炉裏の火が音を立てて爆ぜた。沈黙が落ちる。リュカは自分の左手を見下ろした。掌の紋様が、炎の明滅に合わせて濃淡を変えるように見えた。気のせいだ、と思おうとした。だが指先に感じる微かな熱は、気のせいでは片付けられなかった。
「俺は——」
言葉が続かなかった。自分は何者なのか。その問いは、ずっと胸の奥にあった。拾い子と呼ばれるたびに、村の子供たちの輪から外れるたびに、山の向こうを見つめるたびに。今、その問いに初めて輪郭が与えられようとしている。だが輪郭が見え始めたことで、かえって恐ろしくなった。知りたいと願い続けてきたはずなのに、答えの気配が近づいた途端、胸の奥が竦むように冷えていく。
「まだ全部は話せん」
ザールが立ち上がった。背を向けたまま、低く言う。
「だが覚えておけ、リュカ。あの遺跡に近づくな。何があっても——あそこには、触れてはならんものがある」
祖父の背中が、いつもより小さく見えた。それは老いのせいではない。何かを——おそらくは長い年月をかけて背負い続けてきた秘密の重さが、初めて外に滲んだのだ。
その夜、リュカは眠れなかった。寝台に横たわり、天井の木目を見つめる。左手の紋様に右手の指先で触れると、脈拍に合わせた微かな熱がある。遺跡の紋章と同じもの。自分は、あの場所から来た。
ならば、あの場所に戻れば何かがわかるのではないか。その考えが浮かぶたびに、祖父の声が蓋をするように被さった。触れてはならんものがある。だが禁じられるほどに、遺跡の存在が意識の中で大きくなっていくのを止められなかった。
窓の外で風が鳴っていた。山を越えてくる北風だ。その風の中に、かすかに——本当にかすかに——何かが軋むような音が混じっている気がした。
山が、嫌な軋み方をしている。
祖父の言葉が脳裏に蘇る。リュカは左手を握りしめ、目を閉じた。だが瞼の裏に浮かぶのは、山の向こうの景色ではなく、見たこともない巨大な紋章が淡く光る闇だった。