第2話
第2話
種は五粒あった。
手のひらの上で転がすと、どれも同じ形をしている。扁平な楕円で、表面に薄い筋が入っている。トマトの種に似ていた。前世でスーパーの棚に並んでいたトマトを半分に切ったとき、断面にこんな形の種が詰まっていたのを覚えている。もっとも、あのときは料理をしようとしたわけではない。一人暮らしのアパートで、コンビニ弁当に飽きて買ってみただけだ。結局うまく切れなくて、そのまま丸かじりした。味は覚えていない。
小屋の裏手に出た。昨日、土に手を触れた場所だ。朝の光は相変わらず灰色がかっているが、昨日よりほんの少しだけ白い気がする。風はない。空気が冷たく澄んでいて、耕太の吐く息がかすかに白くなった。
しゃがみ込んで、種を埋める場所を探す。指先で土を掘ると、爪の間に細かい砂が入り込んだ。五センチほど掘ったところで、手のひらの【農耕師Lv1】の表示がふっと明るくなった。
そして——土の色が変わった。
正確には、色が「見えた」のだ。掘り返した土の断面が、淡い赤に染まっている。目を凝らすと、赤の濃い部分と薄い部分がまだらに混じっていた。周囲の掘っていない地表は灰色のままだ。手を離すと赤は消え、もう一度触れると戻る。手のひらを通して見える、もう一つの色。
赤。これは何だ。
耕太は土を掬い上げて、指の間で擦った。ざらつきがある。粘土質ではない。水はけは悪くなさそうだが、この赤い色は——酸性だ。唐突に、そう思った。根拠はない。農学を学んだことはないし、土壌のpHを色で判別する知識もない。けれど指先が赤い土に触れているとき、舌の奥に酸味が広がるような、奇妙な共感覚があった。スキルが教えているのだ、と理解するまでに数秒かかった。
農耕師のスキルは、土を視ることができる。
赤は酸性。ならば種を埋めるには、この赤を薄くしなければならない。耕太は周囲を見回した。小屋の横に、灰が溜まった窪みがある。以前の住人がここで火を焚いていたのだろう。灰は白っぽく、さらさらと乾いている。草木灰——アルカリ性だ。これも知識ではなく、指先が教えてくれた。灰に触れた瞬間、酸味の感覚が消えて、代わりに石鹸のような滑らかさが指を包んだ。
耕太は灰を両手で掬い、赤い土の上に撒いた。そしてそのまま、手で混ぜ始めた。道具はない。スコップも鍬もない。素手で土と灰を混ぜ合わせる作業は、途方もなく原始的だった。爪が欠けた。指の腹が擦れて、薄い皮が剥けた。それでも手を止めなかった。土の冷たさが手のひらの熱を吸い取り、指先の感覚が鈍くなっていく。だが鈍くなるのは温度の感覚だけで、土の色を視る力はむしろ鮮明さを増していた。混ぜれば混ぜるほど、赤と白が細かく絡み合い、新しい色を生み出していく過程が、手のひら越しにはっきりと見えた。
混ぜるたびに、土の赤が薄くなっていく。
赤が橙になり、橙が黄になり、やがて淡い緑に変わった。緑。それが良い状態なのだと、指先が告げていた。酸味の共感覚が消えて、代わりに土の匂いそのものが鼻に届くようになる。湿った腐葉土のような、あるいは雨上がりの公園のような匂い。嫌いではなかった。
三十分か、一時間か。時間の感覚が曖昧になるころ、小屋の裏手に五十センチ四方ほどの、淡い緑色の区画ができあがった。両手は土まみれで、スーツの袖は肘まで茶色く汚れている。膝も泥だらけだ。前世の自分が見たら、何をしているのかと呆れるだろう。あるいは、何も思わないかもしれない。前世の自分には、土に膝をつく理由がなかった。
次は水だ。
種を埋める前に、土を湿らせたい。乾いた土に種を置いても、発芽に必要な水分が足りない。これはスキルではなく、常識の範囲でわかることだった。耕太は立ち上がり、荒れ地の先を見渡した。丘陵の手前に、地面がわずかに窪んでいる場所がある。歩いて十分ほど。近づくと、窪みの底に水が溜まっていた。湧き水だ。量は多くないが、透明で、底の小石が見えるほど澄んでいる。手を浸すと、骨まで届くような冷たさが走った。指先の擦り傷に水がしみて、小さく息を吸う。痛みのあとに、火照っていた手のひらが静かに冷えていく心地よさがあった。
小屋に戻り、棚にあった陶器の壺を持ち出した。底にひび割れがないことを確認して、湧き水の場所まで往復する。壺一杯分の水は、両手で抱えると肩に食い込むほどの重さだった。前世ではウォーターサーバーのボタンを押すだけで済んだ水が、ここでは体力と時間を要求する。けれど不満はなかった。水を運ぶ、という行為そのものに手応えがある。体を使い、重さを感じ、一歩ずつ進む。デスクワークでは決して得られなかった、体と行為が直結する感覚だった。
淡い緑の区画に水をかけた。土が水を吸い込む音が、小さく聞こえた。しゅう、と。乾いたスポンジに水を垂らしたときのような、かすかな息づかい。土の色が少しだけ濃くなり、緑がより鮮やかになった。
五粒の種を、等間隔に埋めた。深さは指の第一関節くらい。土を被せて、手のひらで軽く押さえる。それだけの作業が、妙に手慣れていた。やったことがないはずなのに、指が自然に動く。農耕師のスキルが体に染みているのかもしれない。
種を埋め終えると、手のひらの文字がゆっくりと明滅した。まるで、よくやったと言っているかのように。耕太は土の上にあぐらをかいて、しばらくそこに座っていた。何もしていない。ただ、種を埋めた場所を見ている。土の表面には何の変化もない。当然だ。種は地中で水を吸い、殻を柔らかくし、やがて根を伸ばす。それには時間がかかる。明日か、三日後か、一週間か。
急ぐ理由がない、というのは不思議な感覚だった。前世では全てに締め切りがあった。週次報告、月次目標、四半期決算。時間は常に足りず、追われ続けていた。ここには締め切りがない。種は種の速度で芽を出す。耕太がどれだけ焦っても、早まりはしない。その当たり前のことが、今はひどく贅沢に思えた。
日が傾き始めた。灰色の空の、太陽があるはずの方角だけがぼんやりと橙色に染まっている。耕太は小屋に戻り、寝台に横になった。体のあちこちが痛む。慣れない姿勢で土を混ぜ続けた腕が重い。指先はひりひりして、爪の間の土は洗っても取れなかった。けれど不快ではない。体を使った疲れは、精神を削る疲れとは質が違う。頭の中にあの赤から緑への変化がまだ残っていて、まぶたの裏で淡い色が揺れた。その色を眺めているうちに、布団がなくても硬い寝台の上ですぐにまぶたが落ちた。
翌朝。
小屋の裏手に回った耕太は、足を止めた。
芽が出ていた。
五つの種を埋めた場所から、それぞれ双葉が顔を出している。薄い黄緑色の、まだ柔らかそうな二枚の葉。昨日埋めたばかりなのに。たった一晩で。茎は細いが、まっすぐ上を向いていた。朝の光——今日は昨日より少しだけ明るい——を受けて、双葉の縁がうっすらと光っている。
耕太はしゃがみ込んで、芽に手を伸ばしかけ、やめた。触れたら折れてしまいそうだった。代わりに、芽の周りの土に触れる。昨日の淡い緑が、さらに深い緑に変わっていた。土が良くなっている。種が根を張ることで、土そのものが変化し始めたのだろうか。指先を通じて、昨日はなかった微かな脈動のようなものが伝わってくる。土の中で根が水を吸い上げている振動だと、スキルが囁くように教えた。生きている。この土の下で、五つの命がそれぞれの根を伸ばし、水を求め、必死に生きている。
一晩で発芽する植物は、前世にもある。もやしやカイワレ大根は、条件さえ整えば一日で芽を出す。だがこれは——昨日の種の形からして、おそらくトマトに近い何かだ。トマトの発芽には通常、五日から十日かかる。
農耕師のスキルが成長を早めているのか。あるいは、この世界の植物の時間が前世とは違うのか。どちらにせよ、種は芽になった。耕太が手で混ぜた土の中で、水を吸い、殻を破り、光に向かって伸びた。
その事実が、胸の奥で静かに温かかった。
耕太は湧き水を汲みに立ち上がった。芽に水をやらなければ。今日はもう少し多めに運ぼう。壺を抱えて歩き出しながら、ふと振り返る。五つの双葉が、朝の光の中で揺れていた。風はないはずだった。それでも双葉は揺れている。まるで耕太が離れていくのを見送っているかのように、小さく、ゆっくりと。
三日もすれば、もっと大きくなるだろうか。この芽が実をつける日が来るのだろうか。急がなくていい。けれど——少しだけ、楽しみだった。前世では感じたことのない種類の期待が、指先の温もりと一緒に、まだ残っていた。