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荒れ地農耕師、静かに土を耕す

第1話 第1話

第1話

第1話

蛍光灯の白い光が、まぶたの裏に焼きついていた。

それが最後の記憶だった。深夜二時のオフィス、誰もいないフロアで報告書の数字を打ち込んでいた。肩が重い。目がかすむ。キーボードを叩く指先の感覚がなくなって——そこで途切れている。空調の低い唸りだけが、広すぎるフロアに反響していた。デスクの脇に置いた缶コーヒーは、もう何時間も前にぬるくなっていたはずだ。画面の数字がにじんで、何度まばたきしても焦点が合わなかった。体が椅子に沈んでいく感覚があって、それが眠気なのか別の何かなのか、判断がつく前に意識が消えた。

頬に触れたのは、冷たい土だった。

山崎耕太は目を開けた。灰色の空が広がっている。雲ではない。空そのものが灰色をしていて、太陽の位置だけがぼんやりと明るかった。体を起こすと、膝の下で乾いた草がかさりと鳴った。見渡す限りの荒れ地だった。痩せた土、色を失った草、遠くに低い丘陵が連なっている。風が吹いて、枯れた匂いが鼻をかすめた。

ここはどこだ——という問いは、不思議と切迫感を持たなかった。

三十四年間生きてきて、そのうちの五年間を食品メーカーの営業部で費やした。週八十時間。月曜の朝が来るたびに体が重くなり、金曜の夜になっても軽くはならない。上司の黒田は数字だけを見た。「山崎、今月もギリギリだな」。達成しても褒められず、未達なら詰められる。同僚は一人、また一人と辞めていき、残った耕太に仕事が積まれた。代わりはいくらでもいる——そう言われ続けて、最後には本当に代わりが必要な状態になったというわけだ。

死んだのだろうか。

その問いにも、やはり切迫感はなかった。もし死んだのだとしたら、誰が気づくのだろう。朝になって清掃員が来て、デスクに突っ伏した体を見つける。救急車が呼ばれ、誰かが黒田に電話をかける。黒田は舌打ちをして、「引き継ぎどうすんだ」と言うだろう。葬儀には何人来るだろうか。地元の母には連絡がいくだろうが、最後に電話したのがいつだったか、もう思い出せなかった。

立ち上がると、少し離れた場所に小屋が見えた。壁板が反り、屋根の端が朽ちかけている。窓は一つだけで、硝子ははまっていない。それでも四方に壁があって、雨は凌げそうだった。他に行く場所もない。耕太は枯れ草を踏みながら、ゆっくりとそちらへ歩いた。革靴の底が乾いた地面を踏むたびに、小さな砂埃が立つ。スーツのズボンの膝には、さっきまで横たわっていた地面の土がついていた。場違いな格好だ、と思った。どこまでも場違いな男が、どこまでも場違いな場所にいる。

扉は蝶番が錆びていて、押すと甲高い音を立てた。中は薄暗い。土間があり、奥に木の寝台がある。棚には埃を被った陶器の壺がいくつか。天井の隙間から細い光が差し込んで、床の土を照らしていた。

土の匂いがした。

オフィスの、コピー機のトナーとコンビニ弁当が混じった空気とは違う。湿った土と、かすかに甘い草の根の匂い。耕太はその場に立ったまま、深く息を吸った。胸の奥まで空気が入ってくる。肺が広がる感覚を、久しぶりに思い出した。

ああ、と思った。

もう、誰の顔色も見なくていい。

その感情に名前をつけるなら、安堵だった。喜びでも感動でもない。ただ、長い間締めつけられていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。それだけのことだった。けれどその「それだけ」が、五年間で一度もなかったのだ。目の奥が熱くなるのを感じたが、涙は出なかった。涙の出し方さえ、いつの間にか忘れていた。

寝台に腰を下ろすと、木が軋んだ。壁に背を預けて目を閉じる。黒田の声が聞こえる気がした。「お前の代わりはいくらでもいる」。耕太は目を開けた。薄暗い小屋の天井が見える。蜘蛛の巣が一つ、光の筋に揺れていた。

——代わりはいくらでもいる。

そうだ。だから俺はここにいるのかもしれない。代わりが見つかったから、もう用済みになったのだ。前の世界では。

不思議と、悲しくはなかった。ただ疲れていた。何年分もの疲れが、今になって体の隅々から染み出してくるようだった。耕太は寝台に横になった。硬い木の感触が背中に当たる。けれどオフィスの椅子より、ずっと体に馴染んだ。天井の隙間から入る風が頬を撫でて、それだけで瞼が重くなった。

どれくらい眠っただろう。目を覚ますと、窓の外の灰色が少しだけ明るくなっていた。朝なのか夕方なのか判断がつかない。体を起こしたとき、右の手のひらに違和感があった。

見下ろすと、薄い光の文字が浮かんでいた。

半透明で、掌の皮膚の上に重なるように表示されている。瞬きをしても消えない。

【農耕師 Lv1】

農耕師。耕す者。レベル1。

意味がわからなかった。ゲームのステータス画面のようでもあるし、何かの称号のようでもある。指で触れてみたが、文字は指先をすり抜けた。実体はない。けれど確かにそこにあって、手のひらを閉じても薄く光が漏れた。握った拳の隙間から淡い青白い光が線になって漏れる様子は、まるで体の中に蛍を飼っているようだった。

異世界、という言葉が浮かんだ。小説やアニメで見聞きした類の——死んだ人間が別の世界に生まれ変わる、あの話だ。耕太は深いため息をついた。感動はない。「まさか自分が」という興奮もない。ただ、状況を受け入れるだけの余白が、疲れきった頭の中にはかろうじて残っていた。

農耕師。農業をやれ、ということか。

勇者でも魔法使いでもなく、農耕師。世界を救うのではなく、土を耕せ。あまりにも地味で、あまりにも耕太らしかった。華々しいものとは縁がない。前の世界でもそうだった。営業成績は常に中の下で、表彰されたことは一度もない。それでも毎日出社して、毎日数字を積んだ。誰にも見えない場所で、誰にも気づかれない仕事を。そして最後まで、誰にも見えないまま終わった。

小屋の外に出た。朝の空気は冷たくて、肌に触れると少しだけ目が覚めた。荒れ地は昨日と変わらず灰色に広がっている。だが小屋のすぐ裏手に、わずかに土の色が違う場所があった。他より少しだけ暗い——湿り気があるのかもしれない。

耕太はしゃがみ込んで、その土に手を伸ばした。

指先が土に触れた瞬間、ほんのりと温かくなった。

外気は冷たいのに、土から熱が伝わってくるように指先だけが温まる。手のひらの【農耕師Lv1】の文字が、一瞬だけ明るく光った気がした。温もりは指先から手首へ、手首から腕へと、ゆっくり遡ってきた。血の巡りが変わったわけではない。もっと内側の、筋肉の奥の奥を、何か柔らかいものが通り抜けていくような感覚だった。心臓のあたりまで届いたとき、胸の底でとくん、と一度だけ強く脈打った。痛みではない。むしろ、凍えていた場所に血が戻るときの、あのじんとする感覚に近かった。

耕太は手を止めなかった。両手で土を掬い、指の間からこぼれる感触を確かめた。乾いているのに、芯にわずかな湿り気がある。この土は、死んでいない。痩せてはいるが、まだ何かを育てる力が残っている——そんな直感が、指先から静かに伝わってきた。

前世で、こんなふうに何かに触れたことがあっただろうか。報告書の紙、キーボードのキー、スマートフォンの画面。どれも冷たくて、何も返してこなかった。

この土は、温かい。

耕太は膝をついたまま、しばらくそうしていた。風が荒れ地を渡って、枯れ草をさらさらと鳴らしている。遠くの丘陵の稜線が、灰色の空にぼんやりと溶けていた。静かだった。誰も急かさない。誰も数字を求めない。ここには、ただ土と風と、この奇妙に温かい手のひらだけがあった。

——この土で、何かを育てられるんだろうか。

答えはまだわからない。けれど指先の温もりが消えない限り、試してみる理由はある気がした。耕太は立ち上がり、土のついた手をズボンで拭った。スーツの生地に茶色い筋がついたが、もう気にならなかった。この服はもう、前の世界の残骸でしかない。小屋の中に戻った。棚の奥に、埃を被った小さな袋が一つ。口を開けると、乾いた粒が転がり出た。形からして、種だった。

何の種かはわからない。けれど手のひらに載せると、また指先が温かくなった。

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