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影の騎士を従える最弱勇者

第3話 第3話

第3話

第3話

三分か、五分か。体感ではもっと長かった。

ミラが戻ってきたとき、その表情は出ていく前より硬くなっていた。手には薄い冊子と、一枚の羊皮紙を持っている。唇が一文字に引かれ、何かを決めてきた顔だった。

「お待たせしました。登録についてですが——」

カウンターに冊子を置く。『冒険者登録規約』と表紙に記されていた。

「規約上、ステータスを理由に登録を拒否することはできません。ですので、登録自体は受理します」

言葉は丁寧だが、声に温度がない。事務的というより、余計な感情を乗せないよう制御している感じだった。

「ただし」

ミラが羊皮紙をこちらに向ける。そこには小さな文字でびっしりと注意事項が書かれていた。インクの色が薄く、古い様式のまま更新されていないことが窺える。

「Hランク——最低ランクからの開始になります。受注できる依頼はHランク指定のもののみ。報酬は一件あたり銅貨五枚から十枚程度です」

銅貨十枚。この世界の物価はまだ把握しきれていないが、朝歩いてきた露店のパンが一個銅貨二枚だった。つまり依頼一件でパン五個。日雇い労働以下だ。

「それと、Hランク依頼は現在——」

ミラが壁の掲示板に目を向けた。依頼書がびっしり貼られているが、最下段の一角だけ妙に空いている。色褪せた紙が数枚、寂しくぶら下がっているだけだ。

「ほとんど出ていません。薬草採取と荷運びが定番ですが、今期はどちらも受注済みです」

要するに、登録はできるが仕事がない。詰みだ。

「……一枚も残ってないのか」

「残っているのは一件だけです。ただ、これは——」

ミラが言い淀んだ。その一瞬の間に、彼女の視線が俺の全身を走査した。武器なし、鎧なし、オールG。見たものを踏まえて、何かを飲み込むように唇を引き結んでから、掲示板の端に貼られた一枚の紙を指さした。

「東の森のゴブリン討伐。Hランク指定ですが、三週間以上受注者がいません」

「三週間? Hランクなのに?」

「ゴブリンの群れが通常より大きいとの報告があって。本来ならGランクに引き上げるべき案件ですが、ギルドの査定が追いついていないんです。正直に言います。Hランクの冒険者が単独で受ける依頼ではありません」

ミラの目が真っ直ぐこちらを見ていた。嘲りでも同情でもない。警告だ。この依頼を受けたら死ぬぞ、と目が言っている。

「他に選択肢は?」

「今日のところはありません。明日以降に新しい依頼が出る可能性はありますが——」

「明日まで待つ金がない」

沈黙が落ちた。ミラが小さく息を吐く。カウンター越しに、彼女の指先が無意識に冊子の角を折っていた。

「……受注されますか」

「する」

即答した。考えている余裕はない。今日中に銅貨を稼がなければ、今夜も路地裏で凍える。明日まで体力が持つ保証がない。

ミラが黙って受注票を差し出した。名前を書く欄にペンを走らせる。この世界の文字は書けないが、日本語で『桐島ユウト』と記すと、文字が淡く光って自動的に変換された。召喚時の言語補正が書き文字にも効いているらしい。

「受領印をお願いします。依頼の概要を説明します」

ミラの声は事務的に戻っていたが、受注票を受け取る指先がわずかに強張っていた。

「東の森はここから東門を出て徒歩で半刻ほど。ゴブリンは森の浅い層に巣を作っています。目撃報告では十体前後。リーダー格の個体がいるかどうかは未確認。討伐証明として耳を持ち帰ってください。報酬は一体につき銅貨三枚、上限三十枚です」

淡々と説明するミラの横で、隣の窓口にいた男が聞こえよがしに笑った。

「おい聞いたか。オールGがゴブリン討伐だとさ」

連れの冒険者が首を振る。「止めてやれよ。死にに行くようなもんだろ」

——聞こえてる。全部聞こえてる。

だが反論する材料がない。客観的に見れば、彼らの言う通りだ。オールGで武器なしの少年がゴブリンの群れに突っ込むのは自殺行為以外の何でもない。俺自身がそう思っている。

足元の影が、揺れた。

今度は気のせいじゃない。はっきりと、影の輪郭が歪んだ。周囲を見回したが、誰も気づいていない。影の変化は俺にしか見えていないのか。

「……行ってくる」

ミラに背を向けて歩き出す。彼女が何か言いかけた気配があったが、振り返らなかった。

東門を出ると、景色が一変した。

石畳の道が途切れ、踏み固められた土の道が森に向かって伸びている。左右には牧草地が広がり、遠くで家畜らしきものが草を食んでいた。空は高く、紫がかった青。この世界の空は、日本より色が深い。風が牧草の匂いを運んできて、一瞬だけ穏やかな世界に見えた。

歩きながら、頭の中で整理する。

ゴブリン十体。武器なし。戦闘能力ゼロ。頼みの綱はヴェイルだが、呼び出し方がわからない。

昨日立てた仮説——ヴェイルは感情で動く。それも「誰かを想う」感情に反応する。

ゴブリンの群れの中で誰を想えというのか。

自分の命を守りたいという感情では動かない。それは昨夜の実験で確認済みだ。路地裏で何度呼んでも出てこなかった。女神の前で実体化したのは、あの空間自体が特殊だったからだろう。

つまり——このまま森に入れば、丸腰で魔物の群れと対峙することになる。

「最悪だ」

呟いた声が、妙に軽かった。不思議と恐怖は薄い。昨夜、王宮を追い出された時点で覚悟は決まっている。やるしかないなら、やる。それだけだ。

森の入口が見えてきた。木々が密集し、日差しが遮られて空気が急に冷たくなる。肌が粟立つのは寒さだけが理由じゃない。下草を踏む足音が、周囲の静けさに呑まれて小さく響く。

足を止めた。

何かの気配がした。後ろだ。

振り返る——誰もいない。道は真っ直ぐ街まで続いていて、人影は見当たらない。

だが気配は消えていない。殺気ではない。もっと薄い、観察するような視線。

「……ヴェイル?」

違う。ヴェイルの気配は足元にある。これは別の方向——道の脇の茂みの奥だ。

人間だ。誰かが俺を尾行している。

追及するか。無視するか。

数秒考えて、無視を選んだ。尾行者が害意を持っているなら、もっと近い距離まで来ているはずだ。この距離を保っているということは、観察が目的。殺す気なら、オールGの俺を殺すのにこんな慎重さは要らない。

それに、尾行者の正体に心当たりがあった。

ミラだ。正確にはミラの指示か、あるいはミラの上——ギルドマスターの指示か。オールGの新人がゴブリン討伐に向かう。普通なら止める。止めなかったのは、別の意図があるからだ。見張り。経過観察。あるいは死体回収の手配。

どれでもいい。今は目の前の依頼に集中する。

森に踏み込んだ。

木漏れ日が地面にまだらな模様を描いている。空気が湿っていて、腐葉土の匂いが鼻をつく。どこかで水が滴る音がして、森が生きているようだった。耳を澄ますと、鳥の声に混じって、ぎゃあぎゃあと甲高い鳴き声が遠くから聞こえた。

ゴブリンだ。方角は北東。距離はわからないが、声の大きさからしてそう遠くない。

武器がない以上、まず手頃な棒を探す。落ちていた枯れ枝を拾い上げたが、力を入れた瞬間にぽきりと折れた。次に見つけた枝は太すぎて片手で振れない。三本目でようやく、腕の長さほどの硬い枝を確保した。握りしめると、樹皮のざらつきが掌に食い込んだ。

これで戦えるかと問われれば、答えは否だ。ゴブリン一体にすら勝てる気がしない。

だが——行くしかない。

足元の影が、森の薄暗さの中で一段と濃く沈んでいる。ヴェイルはそこにいる。出てこないが、いる。

鳴き声が近づいてきた。茂みの向こうに動く小さな影が見えた。緑がかった肌。尖った耳。粗末な棍棒を引きずった、身長一メートルほどの人型。

ゴブリン。一体——いや、その後ろにもう二体。さらに木の陰に複数の気配。

十体前後というミラの情報は正確だった。いや、正確どころか控えめだったかもしれない。ざっと数えて十二、三体。手前の個体がこちらに気づき、濁った目を向けてきた。口元が歪み、黄ばんだ牙が覗く。笑っているのか、威嚇しているのか。

逃げるか。戦うか。

俺は枯れ枝を握り直した。手のひらに汗が滲む。心臓が早鐘を打っている。

そのとき——背後で枝を踏む音がした。

尾行者だ。さっきまで距離を保っていたはずの気配が、明らかに近づいている。ゴブリンの群れを目視して、慌てたのか。

振り返る余裕はない。目の前のゴブリンが、仲間を呼ぶような金切り声を上げた。

群れが、一斉にこちらを向いた。

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