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適性C回復術師の全属性覚醒録

第3話 第3話

第3話

第3話

朝日が冷たかった。

予感は当たった。オルディアの空は鈍い灰色に覆われ、湿った風が裏庭の石畳を舐めていた。ユウトは荷台で目を開けたまま、しばらく動かなかった。体が強張っているのは寒さのせいだけではない。胸の奥に鈍い圧迫感がある。息を吸うたびに肋骨の内側が軋むような、名前のつかない重さだった。広間に来い、とガルドは言った。朝一番で話がある、と。話の中身など、昨日の時点で分かっていた。分かっていて、なお一晩を越えるのは存外に長い。

身を起こし、荷物袋から冒険者台帳を取り出した。革の表紙を親指でなぞる。角の擦り切れた感触が、五年という時間の手触りそのものだった。これを持っていく意味があるのかどうか、少し迷った。結局、腰の袋に入れた。記録は事実だ。事実は持っていく。

食堂を通り抜けるとき、リーナがテーブルでパンを齧っていた。目が合った。リーナは小さく首を傾げ、何か言いかけて、やめた。その沈黙の中に、全てが入っていた。知っているのだ。全員が知っている。今朝、何が起きるのか。食堂には焼きたてのパンの匂いが漂っていた。いつもと同じ朝の匂いだ。それが余計に、今日という日の異質さを際立たせていた。

広間の扉は開いていた。

中に入ると、ガルドが長机の上座に座っていた。右にブレイズ、左にドルク。その後ろにリーナが立っている。四人の視線がユウトに集まった。広間の高い天井に、ユウトの足音だけが反響した。石壁に掛けられた「黄金の剣盟」の旗が、隙間風に僅かに揺れている。

ガルドの前に、羊皮紙が一枚広げてあった。黒インクの文字列と、ギルドの朱印。見覚えのある書式だ。冒険者パーティの人事変更届——除名証書。

「座れ」

ガルドの声は平坦だった。怒りも嘲りもない。事務処理の声だ。ユウトは机の端に腰を下ろした。椅子の座面が冷たく、木の硬さが骨盤に響いた。ガルドとの距離は長机の全長分。五年前、この同じ広間で加入の契約書に署名したときは、隣に座っていた。

「単刀直入に言う。ユウト、お前を黄金の剣盟から除名する」

空気が固まるような瞬間を、ユウトは感じなかった。むしろ静かだった。予定通りの言葉が、予定通りの順序で並んでいく。雨が降るという予報を聞いて、実際に雨が降り始めた——それくらいの感覚だった。

「理由は明白だ。回復適性C。パーティの最低水準を下回っている。リーナが加入した今、Cランクの回復枠を維持する合理性がない」

ガルドは淀みなく言った。練習したのだろう、とユウトは思った。言葉の継ぎ目に迷いがない。昨夜、あるいはもっと前から、この台詞を組み立てていたのだ。

「五年の貢献は認める。だが数字は数字だ。パーティの安全を預かる立場として、感情で判断するわけにはいかない」

貢献は認める。その一文が、何より残酷だった。認めた上で切るのだ。お前の五年間には価値があった、しかしその価値よりも鑑定石の三文字の方が重い——ガルドはそう言っている。

ブレイズが目を伏せていた。テーブルの木目を見つめたまま、唇を引き結んでいる。何か言いたそうに見えた。だが言わなかった。五年間、一度も異を唱えなかった男が、最後の場面で口を開くはずがない。ドルクは腕を組んで壁を見ていた。その横顔に表情はなかった。表情を消すことで、加担していないふりをしている。リーナだけが真っすぐユウトを見ていた。興味深そうに。自分が引き起こした結末を、観察するように。

「署名しろ」

ガルドが除名証書をユウトの前に滑らせた。羊皮紙の上に、黒々としたインクで条項が並んでいる。除名理由、適性不足。有効日、本日付。再加入条件、なし。最下段に署名欄が一つ。被除名者、と書かれた行の横に、空白。

ユウトは証書を読んだ。一行ずつ、丁寧に。急ぐ理由がない。ガルドが僅かに眉を動かした。早く署名しろ、という苛立ちだろう。だがユウトは構わなかった。これは自分の五年間に押される最後の印だ。何が書いてあるか、知っておく権利がある。

読み終えた。ペンを取った。

「——何か言うことは」

ガルドが聞いた。予想外だった。ユウトは顔を上げた。ガルドの目を見た。そこにあったのは、僅かな——本当に僅かな、後ろめたさだった。弁明の機会を与えることで、自分の正当性を担保しようとしている。お前には言い分を述べる機会を与えた、それでも覆らなかったのだから仕方がない——そういう理屈を、この男は必要としているのだ。

「ない」

ユウトはペンを走らせた。署名欄に自分の名前を書く。インクが羊皮紙に染み込んでいく。五年間の最後が、たった四文字の署名で終わる。ペン先が紙を離れる瞬間、指先に微かな抵抗を感じた。インクが乾ききる前の、粘りのある感触だった。

ペンを置いた瞬間、ガルドが長机の引き出しから一冊の帳簿を取り出した。見覚えがある。ユウトの冒険者台帳ではない。パーティの公式台帳だ。ユウトの名前が記載された五年分の活動記録。ガルドはそれを両手で掴み、背表紙から真ん中に向かって、裂いた。

革表紙が鈍い音を立てて割れた。紙が千切れる乾いた音が広間に響く。ガルドは裂いた台帳を机の上に放った。破れたページが扇状に広がり、ユウトの名前が書かれた行が、斜めに断ち切られていた。

「黄金の剣盟に、お前の記録はもう残らない」

ブレイズが椅子を鳴らした。立ち上がりかけて、止まった。ドルクが壁から背を離し、またもたれ直した。リーナは無表情だった。終わった話に興味はないのだろう。

ユウトは破れた台帳を見なかった。見る必要がなかった。公式台帳にどう書かれていようと、自分の治療記録帳は腰の袋にある。千二百回を超える治療の記録は、破れない。

「世話になった」

それだけ言って、ユウトは席を立った。広間を横切り、扉をくぐり、食堂を抜け、宿の玄関を出た。振り返らなかった。

外は雨だった。

いつから降り始めたのか分からない。細かい雨粒が石畳を叩き、オルディアの街路を濡らしている。屋根から垂れる雨水が排水溝に流れ込む音が、やけに大きく聞こえた。通りには人がまばらだった。早朝の雨の中を歩く物好きは少ない。魔道具屋の軒先に猫が一匹、丸まって雨を避けていた。

ユウトは濡れるまま歩いた。フードを被る気にならなかった。冷たい雨が髪に染み込み、額を伝い、顎から滴る。ローブが水を吸って重くなっていく。足元で水溜まりが跳ねた。

手が震えていた。

最初、寒さのせいだと思った。だが違った。震えは指先から始まり、手首を通って肘まで昇ってきている。止めようとして、止まらなかった。

怒りではない。ガルドを恨んではいない。恨むなら五年前に恨んでいる。悔しさでもない。悔しいと思うには、結果が予想通りすぎた。

震えの正体は、もっと深い場所にあった。

信じていたのだ。数字がCでも、事実が覆すと。千二百回の治療が、金貨二枚の分配が、荷馬車の寝床が——それでも続けていれば、いつか正しく見てもらえると。腕が認められる日が来ると。その信仰が、署名一つで終わった。崩れたのは居場所ではない。五年間自分を支えていた前提そのものが崩れたのだ。

手の震えは、その残響だった。

石畳を踏む足取りは真っ直ぐだった。震える手を握り込み、ユウトはオルディアの街路を歩いた。行く先は決めていない。宿には戻れない。ギルドに寄る理由もない。ただ前に歩いた。

街の東門が見えてきた。門の向こうは街道だ。雨に煙る平原が、灰色にどこまでも続いている。

門番が声をかけた。「一人か。この雨の中、依頼か?」

「いや」

ユウトは門をくぐった。雨脚が強くなっていた。街道の土が泥に変わり、足が沈む。振り返れば、オルディアの城壁が雨の向こうに霞んで見えた。五年間暮らした街だ。五年間、誰かの後ろに立ち続けた街だ。

腰の袋に手を触れた。冒険者台帳の硬い感触がある。千二百回分の記録。それだけが、五年間の証だ。

——ここから先は、後ろに立つ必要がない。

雨が頬を打った。冷たかった。だが荷馬車の板よりは、ずっとましだった。

街道の先に、雷鳴が一つ、低く転がった。空の色が変わり始めている。灰色の雲の奥で、何かが光った。魔力を帯びた雷——自然のものではない。迷宮の瘴気が大気に干渉しているのだ。

ユウトは足を止めなかった。泥の道を、一人で歩き続けた。

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