Novelis
← 目次

適性C回復術師の全属性覚醒録

第2話 第2話

第2話

第2話

朝は、鳥の声ではなく荷馬車の車軸が軋む音で始まった。

背中が痛い。板張りの荷台で眠ったせいで、腰から肩甲骨にかけてが強張っている。ユウトは身を起こし、首を回した。骨が鳴る。寝藁すら敷かれていない剥き出しの板が、一晩かけて体温を奪っていた。指先が冷たい。迷宮都市オルディアの朝は早い。裏庭の向こう、石造りの建物の隙間から差し込む朝日が目に刺さった。眩しさに目を細めながら、ユウトは昨晩の寝場所を見下ろした。干し草の匂いと、荷台に染みついた古い油の匂いが混ざっている。これが自分のベッドだ。

荷台から降りると、食堂の窓から談笑が聞こえた。リーナの高い笑い声。それに被さるブレイズの声。聞き取れない。だが楽しそうだった。昨日加わったばかりの新人が、もう輪の中にいる。ユウトが五年かけても手に入れられなかったものを、一晩で。

食堂に入ると、テーブルに人数分の朝食が並んでいた。パンと干し肉、薄いスープ。ユウトの席はなかった。正確には、昨日まであった端の椅子にリーナが座っていた。リーナはユウトに気づくと、一瞬だけ目を合わせ、すぐに視線を外した。悪意ではない。興味がないのだ。Cランクの回復術師に向ける関心など、最初から持ち合わせていない。ユウトは黙って壁際のスツールを引き、そこで食べた。パンは固く、スープはぬるかった。誰も何も言わなかった。

「今日は第二十層の掃討依頼だ」

ガルドが地図を広げた。「ブレイズが前衛、ドルクが壁、俺が遊撃。回復はリーナ、ユウトは後方で補助」

補助。五年間メインヒーラーを張ってきた人間に使う言葉ではない。だが訂正はしなかった。言葉で争っても鑑定石の数字は変わらない。

第二十層は中層の入り口だ。Sランクパーティにとっては準備運動のような階層だが、新メンバーの実戦確認にはちょうどいい。ガルドの判断は合理的だった。

最初の戦闘は岩甲蟲の群れだった。二十体ほどが通路を塞いでいる。甲殻がこすれ合う乾いた音が通路に反響し、酸っぱい体液の臭いが鼻を突いた。ガルドの号令でブレイズが突入し、ドルクが盾を構える。ユウトは後方に下がった。リーナが前に出る。

岩甲蟲の顎がドルクの脛当てを砕いた。血が滲む。リーナの両手が金色に輝いた。

「聖なる光よ、傷を癒せ——『シャイン・リカバリ』!」

詠唱付きの範囲回復。金色の光が前衛二人を包み込み、ドルクの傷が瞬時に塞がった。光は派手で、温かく、見た目に分かりやすい。ブレイズが振り返って親指を立てた。ドルクも頷いている。

効いてはいる。だがユウトの目には、回復の深度が浅いことが見えていた。表皮は塞がったが、筋繊維の断裂が二割ほど残っている。戦闘中に急な負荷がかかれば再断裂する。ユウトの無詠唱ヒールなら、骨膜まで含めて完全に修復できる。五年間、そうしてきた。

だが誰もそれを知らない。ユウトの回復は光らない。薄緑色の地味な魔力が患部に染み込んで、内側から組織を繋ぎ直す。見た目には何も起きていないように見える。派手な金色と比べれば、Cランクの回復に見えて当然だった。

戦闘は順調に進んだ。岩甲蟲を片付け、奥の鉄鱗蜥蜴を三体討伐し、層主の大岩蟹に到達するまで二時間。リーナは要所でシャイン・リカバリを放ち、そのたびに前衛から声が上がった。「助かる」「タイミングいいな」「さすがBランク」。

ユウトに出番は一度だけだった。ブレイズが大岩蟹の鋏に弾き飛ばされ、背中から壁に叩きつけられた時。鈍い衝突音が洞窟に響き、ブレイズの口から短い呻きが漏れた。リーナの回復が届く前に、ユウトが走って直接触れた。掌を背中に当てた瞬間、損傷の全容が流れ込んできた。第三腰椎に亀裂。髄液の圧迫。このまま立ち上がれば——。背骨の微細なひびを感知し、脊髄への圧迫を解除しながら椎骨を修復した。リーナの範囲回復では拾えない損傷だ。放っておけば後遺症が残っていた。

「お、サンキュ」

ブレイズはそれだけ言って立ち上がり、前線に戻った。ユウトが何を治したか、理解していない。背骨が折れかけていたことも知らない。知る必要がないとも言える。治ったなら、それでいい。それが回復術師の仕事だ。

大岩蟹はガルドの一撃で沈んだ。戦利品を回収し、帰路につく。道中、ガルドがリーナの肩を叩いた。

「上出来だ。明日から第二十五層に入る。このペースなら問題ない」

「ありがとうございます、ガルドさん。皆さんのおかげです」

リーナは完璧な笑顔で応じた。ユウトはパーティの最後尾を歩いていた。前を行く四人の背中を見ながら、五年前の光景を重ねた。あの頃、最後尾にいたのはガルドだった。新参のユウトを前に置き、背中を守ると言ってくれた男だ。

宿に戻ると、分配が始まった。大岩蟹の核石と素材。ガルドが帳簿を開き、数字を読み上げる。ブレイズ、ドルク、ガルド、リーナ。四人の名前と金額。ユウトの名前は最後に呼ばれ、金貨二枚だった。昨日の五枚からさらに減っている。リーナ分の取り分が増えた結果だ。文句はない。言ったところで「適性C」が返ってくるだけだ。

食堂でリーナを囲んで酒盛りが始まった。ユウトは一杯だけ水を飲み、裏庭に出た。

荷馬車の荷台に腰を下ろす。昨日と同じ場所だ。今日はこれが日常になったのだと実感した。板の硬さにはもう慣れた。人間は二日で慣れる。

冒険者台帳を開いた。革の表紙は手垢で黒ずみ、角が擦り切れている。五年分の重みが、そのまま物理的な厚さになっていた。

最初のページ。一年目、三月七日。ガルド、右肩裂傷。全力ヒール一回。経過良好。

あの日のことは覚えている。初めての王級ダンジョンで、ガルドが庇ってくれた魔物の爪をまともに受けた。震える手で全力ヒールを放ち、傷が塞がった瞬間、ガルドが笑った。「お前の回復、地味だけど効くな」。あの言葉が嬉しくて、この記録帳をつけ始めた。

ページを繰る。二年目。ブレイズ、左腕複雑骨折。ドルク、内臓損傷。ガルド、毒状態異常。治療回数が増えていく。パーティのランクが上がるにつれ、傷は深く、頻度は高くなった。ユウトの回復がなければ死んでいた場面が、三年目だけで十一回。四年目は十七回。今年に入ってからは、もう数えていない。

ある日のページで手が止まった。四年目、八月十二日。ガルド、心臓挫傷。層主の一撃が胸甲を貫通し、心臓が止まりかけた。ユウトは両手を胸に押し当て、心筋を直接魔力で動かしながら組織を修復した。蘇生に近い処置だった。完了までの三分間、自分の心臓が代わりに止まるかと思った。

あの日もガルドは言った。「遅い」と。

台帳を閉じた。五年分、千二百回を超える治療記録。救った命の総数。その全てが「適性C」の下に埋もれている。リーナが一日で得た信頼を、ユウトは五年かけても得られなかった。いや、一度は得ていたのかもしれない。ただ、鑑定石の三文字がそれを上書きした。

数字は残酷だ。どれだけ事実を積み上げても、権威ある数字ひとつで全てが無効化される。ユウトはそれを五年かけて学んだ。

台帳を荷物袋に仕舞い、毛布を被った。薄い毛布は夜風を通し、肌が粟立つ。明日の朝、広間で何を言われるかは分かっている。リーナが「上位互換」であることは今日の戦闘で証明された——少なくとも、彼らの目にはそう映った。Cランクの回復術師を二人体制で置いておく理由は、もうない。

不思議と、恐怖はなかった。悲しみもない。ただ、胸の奥に沈殿している感情があった。名前をつけるなら——諦念だろうか。いや、違う。もっと静かで、もっと硬いものだ。五年間かけて積もった、報われなかった時間の重さそのもの。

風が幌を叩いた。遠くで酒場の笑い声が聞こえる。リーナの歓迎会はまだ続いているらしい。

ユウトは目を閉じた。明日、広間で何を言われても、叫ばない。乞わない。五年分の記録は自分の中にある。それだけで十分だ。

——最後くらい、まっすぐ立っていよう。

荷馬車の外で、オルディアの夜が更けていく。明日の朝日は、きっと冷たい。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ