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追放料理長の異世界畑

第2話 第2話「聞いたことのない鳥の声」

第2話

第2話「聞いたことのない鳥の声」

目を覚ましたのは、鳥の声だった。

 聞いたことのない鳴き方だった。高く、短く、三度鳴いて止まる。宮廷の厨房では、夜明け前に起きるのが日課だった。窓のない部屋で、体内の時計だけを頼りに目を開ける。だが今朝はそうではなかった。鳥の声と、頬に触れる風と、背中の土の温もりで、体が自然に起きた。

 紫がかった空が白み始めている。東の丘陵の稜線が朝焼けに縁取られ、赤い土の荒野が淡い金色を帯びていた。空気は冷たく、乾いているが、湧き水の周りだけはわずかに湿った匂いがする。苔と泥の混じった、鼻孔の奥にまとわりつくような匂い。厨房にいた頃なら嫌ったかもしれない。だが今は、その湿り気が生命の気配を含んでいるように感じられた。腰を上げると、節々がきしんだ。地面で眠るのは体に堪える。四十を過ぎた体には尚更だ。肩甲骨の間に鈍い痛みが走り、膝を伸ばすと左の膝裏が引き攣った。厨房の石畳に長時間立ち続けた日の朝よりも、はるかにひどかった。

 傍らの湧き水に手を伸ばし、掬って口に含む。昨夜と同じ土臭い甘さ。空腹が腹の底から突き上げてくる。最後にまともな食事をしたのは、即位式の仕込みの合間に口にしたパンの端切れだった。もう二日近く前になる。

 ふと、視線が止まった。

 昨日、移植したハーブ。萎れて、灰色がかった葉を垂れていたはずのあの株が——背を伸ばしていた。それだけではない。茎が太くなり、葉の色が灰から深い緑へ変わっている。昨日は指の長さほどだった丈が、掌ひとつ分は伸びていた。一晩でこれほど育つ植物を、レナートは知らなかった。

 膝をつき、顔を近づける。葉に朝露がついている。その雫の奥から、清涼な香りが立ち上った。昨日よりもはるかに強い。タイムに似ているが、もっと深く、甘い層がある。嗅いだだけで鼻腔の奥が涼しくなるような、澄んだ香りだった。十五年の厨房で数え切れないほどの香草を扱ってきたが、このように一晩で香りの質まで変わる草を見たことはなかった。

 レナートは恐る恐る、ハーブの根元の土に指を触れた。

 脈動が返ってきた。昨日感じたあの温かさ。だが今朝はもっと鮮明だった。目を閉じると、土の断面が色のついた地図のように頭の中に広がる。湧き水から染み出した水分が、移植した土の層を隅々まで潤している。そしてハーブの根が——目を疑った。たった一晩で、根が四方に広がり、細い毛根を無数に伸ばしている。まるで、この土に出会うのを待っていたかのように。

 根は水脈に向かって真っ直ぐに伸びているだけではなかった。土中の養分が偏在する場所を避け、豊かな層だけを選んで食い込んでいる。植物が自力でそこまで最適な経路を選ぶのは通常ありえない。レナートの移植が——あるいはこの土に触れた手が——何かを変えたのだ。

 指を離し、目を開ける。しばらくハーブを見つめた。荒野の朝風が葉を揺らしている。根元から新しい芽が二つ、土を割って顔を出しかけていた。

 信じがたいが、事実として目の前にある。

 レナートは立ち上がり、周囲を見回した。空腹は相変わらずだが、頭は妙に冴えていた。料理人としての十五年間で身についた習性——材料を前にしたときの、あの静かな集中が、自然に湧いてくる。

 灌木の列に沿って歩く。昨日は水を求めることに必死で気づかなかったが、改めて見ると、灌木の合間に様々な植物が自生していた。名も知らない蔓草。硬い殻に覆われた小さな実。根の太い、雑草のような草。どれも痩せて萎れ、半ば枯れかけている。この赤い土の表層では養分が足りないのだろう。

 試してみたい衝動があった。

 蔓草の根元に指を触れる。脈動。断面図が浮かぶ。この蔓は水を好む。だが表層が乾きすぎていて、根が深くまで届いていない。もう少し——そう、湧き水の流れが地表に近づくあの辺りに移せば、根が水を掴めるはずだ。

 包丁の背で土を掘る。蔓草を丁寧に掘り起こし、湧き水の下流にあたる一角に移す。指が示す場所に、迷いはなかった。理屈ではなく、触れた瞬間に分かる。この土はこの植物に合う。あの土は合わない。それだけのことが、指先を通して流れ込んでくる。

 次に、殻付きの実をつけた低木。これは逆に、水が多すぎると根が腐る。乾いた砂地を好む種だ。湧き水から離れた、日当たりのよい斜面の土に移す。

 根の太い草。これは養分を大量に吸う。ほかの植物の傍では競合してしまう。単独で、粘土層の養分が濃い場所に置く。

 気がつけば、太陽は頭の上に近かった。数時間が経っていた。空腹を忘れていたわけではない。腹は鳴り続けていた。だが手が止まらなかった。土に触れるたびに返ってくる脈動が、次の植物を、次の場所を、教えてくれる。厨房で仕込みに没頭するときと同じだった。食材の声を聞き、最適な切り方を選び、火加減を決める。あのときと同じ集中が、今は土の上で起きている。

 移植した植物は八株になった。湧き水を中心に、それぞれが適した場所へ配置されている。即席の、小さな庭のようだった。レナートは汗を拭い、自分の仕事を眺めた。まだ萎れた株ばかりだ。ハーブのように一晩で変わる保証はどこにもない。

 だが、最初に移植したハーブの変化は確かだった。

 ハーブの元に戻ると、朝よりもさらに背が伸びていた。新しい芽は完全に土の上に出て、小さな葉を開き始めている。丈は昨日の倍以上。茎は小指ほどの太さに育ち、しっかりと直立している。根元を触ると、土の中で根が更に広がっているのが分かった。

 香りも強くなっている。風が吹くたびに、清涼な芳香が鼻をくすぐる。料理人の脳が勝手に動き出す。この香りの強さなら、乾燥させずに生のまま使える。肉に合わせれば臭みが消える。粉にして生地に練り込めば、焼いたときに香りが立つ。パンに——そうだ、パンが焼ける。石を組んで竈を作り、このハーブを練り込んだ生地を——。

 腹が、大きく鳴った。

 レナートは苦笑した。料理の構想ばかりが先走る。肝心の材料がない。穀物も、油も、塩もない。あるのは水と、育ち始めたハーブだけだ。だが苦笑しながらも、口の中では既に風味の組み立てが始まっていた。ハーブの清涼感に合う穀物は何か。この甘い層を活かすなら、軽い酸味がほしい。宮廷では決して考えなかった組み合わせが、空腹の頭の中で勝手に編まれていく。料理人の業だ、と思った。手元に何もなくても、頭だけは止まらない。

 それでも、と思った。

 湧き水に手を浸す。冷たい水が土で汚れた指を洗い流していく。爪の間に入り込んだ赤土が、少しずつ水に溶けて流れていった。昨日この荒野で目を覚ましたとき、手元にあったのは包丁一本だった。帰る場所もなく、行く宛てもなかった。それが今、水があり、育つ植物があり、土の声を聞く力がある。

 なぜこんなことができるのか、分からない。どこにいるのかも、まだ分からない。だが指先が覚えている温かさは嘘ではなかった。この土には、何かを育てる力がある。そして自分の手には、それを引き出す何かが宿っている。

 夕暮れが近づいていた。西の空が赤く染まり始め、荒野に長い影が伸びる。地平線に近い空は焔のような朱に燃え、それが上空にいくにつれて藤色に変わり、やがて東の空の深い藍に溶けていく。赤い土がその色を映して、昼間とはまるで違う表情を見せていた。レナートは移植した八株をひとつずつ見て回った。蔓草の葉が、ほんのわずかだが上を向き始めている気がした。気のせいかもしれない。だが最初のハーブの変化を見た後では、明日の朝が楽しみだった。

 湧き水の傍らに腰を下ろす。包丁を膝に置き、育ちゆくハーブを眺めた。風が変わった。乾いた昼の風ではなく、夜の始まりを告げる涼しい風。ハーブの葉が揺れ、清涼な香りが流れてくる。その香りを胸いっぱいに吸い込んだとき、不意に厨房の記憶が蘇った。夜明け前の暗い厨房で、一人きりで香草の束を仕分けていた朝のこと。石壁に囲まれた窓のない部屋で嗅いでいたあの香りと、今、荒野の風に乗って届くこの香りは、同じ草のものではない。だが鼻腔を通って胸の奥に落ちていく感覚は、同じだった。

 明日、この香りがもっと強くなっていたら。

 もしこの荒野のどこかに、穀物の代わりになるものがあったら。

 石を組んで、火を起こして。

 料理人の手が、また動き出す日が来るのだろうか。

 星が、一つ、また一つと灯り始めた。レナートは赤い土の上に横たわり、背中に大地の鼓動を感じながら、目を閉じた。指先に残るのは、昨日よりも確かな温もりだった。

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