第3話
第3話「三度目の荒野の朝」
三度目の朝が来た。
鳥が鳴いている。昨日と同じ、高く短い声。三度鳴いて、止まる。体が覚え始めていた。この荒野の朝の迎え方を。背中の土の温もりで目が覚め、頬に触れる冷たい風で体が起き上がる。宮廷の暗い厨房で、窓のない壁を見つめながら起きていた朝とは、すべてが違う。
目を開けて、息が止まった。
ハーブが——茂っていた。昨日の時点で掌ひとつ分だった丈が、膝の高さにまで伸びている。茎は数本に枝分かれし、それぞれの先端に濃い緑の葉が密集して開いていた。根元からは新しい株が三つほど顔を出し、小さな葉を朝日に向けている。移植してからたった二日。ありえない速度だった。
風が吹いた。ハーブの葉が一斉に揺れ、清涼な香りが波のように押し寄せてきた。昨日の比ではなかった。鼻腔を抜け、喉の奥まで染みてくるような澄んだ芳香。甘さの奥に、微かな苦みがある。この苦みは——そうだ、火を通すと消える種類のものだ。加熱すれば甘さだけが残り、香りが立つ。十五年の厨房が体に刻んだ知識が、考えるより先に答えを弾き出していた。
パンが焼ける。
その確信が、腹の底から湧いてきた。空腹のせいだけではなかった。料理人としての本能が、目の前の素材に反応している。このハーブがあれば、焼ける。穀物がなくても、あの根の太い草——昨日移植した中にあった——の根にはでんぷん質が含まれているはずだ。土に触れたとき、根の中に蓄えられた養分の密度が「視えた」。すりおろして水で晒せば、粉の代わりになる。
体が動いていた。空腹も、体の節々の痛みも、意識の外に追いやられていた。
まず、根の太い草を掘り起こす。昨日移した一株のうち、傍らに自生していた別の株を選んだ。育てたものを使う気にはなれなかった。料理人の矜持というよりも、昨日の移植で芽生えた、育てるものへの感情だった。包丁の背で土を掘り、太い根を取り出す。拳ほどの大きさの、白っぽい塊。表皮を包丁で薄く剥くと、中は乳白色で、断面が僅かに粘る。やはりでんぷん質だ。鼻を近づけると、ほのかに甘い土の匂いがする。
湧き水で根を洗い、包丁で細かく刻む。宮廷の厨房でジャガイモを千切りにしたときと同じ手つきで、繊維を断つように刃を入れていく。刻んだ根を石の上に広げ、別の石で叩いて潰す。繊維が砕け、白い液が滲み出す。それを水で晒し、繊維を取り除く。残った白い沈殿を集めると、湿った粉のようなものが掌に二杯分ほどできた。
次に、竈だ。
荒野には石がそこかしこに転がっていた。大きさの揃ったものを五つ選び、コの字型に組む。底に平たい石を敷き、風の通り道を作る。枯れた灌木の枝を折って燃料にした。火種がない。レナートは包丁の刃を見た。鋼の刃を石に打ちつければ、火花が散るかもしれない。何度か試すと、乾いた草の穂先に小さな火が移った。息を吹きかけて育て、枝に燃え移らせる。煙が上がり、やがて橙色の炎が石の竈の中で揺れ始めた。
火を見たのは三日ぶりだった。厨房の竈の火を毎日見ていた人間にとって、三日間火のない生活は、声を失ったに等しかった。炎の色と音が戻ってきた瞬間、指先が微かに震えた。
湿った粉に水を加え、こねる。粘りが出るまで掌の付け根で押し、折り、また押す。宮廷ではパンは専門の焼き職人の仕事だったが、若い頃に一通りの工程は叩き込まれている。生地がまとまったところで、ハーブの葉を数枚ちぎり、細かく刻んで練り込んだ。緑の粒が白い生地に散る。香りが立ち上る。
平たい石の上に生地を薄く伸ばし、竈の火にかざす。遠火でじっくりと。片面が乾いてきたら裏返す。焼けた面に薄い焦げ色がつき、ハーブの香りが熱で引き出されていく。苦みが消え、甘さが膨らむ。想像した通りだった。竈の炎に照らされた素朴な一枚。宮廷の七皿のフルコースとは比べものにならない、ただの焼き餅のようなものだ。
けれど、匂いだけは本物だった。
焼き上がりを手に取る。熱い。指先で端をちぎり、口に運ぶ。
硬い。粉の粒子が粗く、舌触りはざらついている。塩がないから味の輪郭がぼやけている。だがハーブの香りが噛むたびに広がり、鼻に抜けるとき、あの清涼な甘さが口の中を満たした。不格好で、粗末で、宮廷に出せば笑われるだろう。それでもこれは、自分の手で育てた素材で、自分で起こした火で焼いた一皿だった。
——ほう。
声は、背後から聞こえた。
振り向くと、灌木の向こうから一人の老婆が姿を現すところだった。背中に大きな背負い籠を負い、日に焼けた顔に深い皺を刻んでいる。杖代わりの太い棒を突きながら、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
「何かと思えば、こんなところで竈を焚いている人がいるとはね」
老婆は目を細めて煙を見上げた。警戒よりも好奇心が勝った顔だった。
「行商の途中で煙が見えたものだから、寄り道をしたんだよ。この辺りに人が住んでいるとは聞いたことがなかったのでね」
レナートは立ち上がった。この世界で初めて出会う人間だった。言葉が通じることに、まず安堵した。
「……通りすがりの者です。昨日からここに」
「ほう、昨日から」
老婆は——後にイルマと名乗った——背負い籠を下ろし、竈の傍らに腰を下ろした。遠慮のない所作だった。視線が竈の上の焼き餅に止まる。
「それ、何だい」
「ハーブを練り込んだ——パン、のようなものです。根の粉で焼いたので、とても粗末ですが」
「一つ、もらえるかい」
レナートは迷った。自分の分も足りないのだ。だが料理人の体は、差し出す前に既に手が動いていた。客に食べてもらうために作る。それが十五年間、体に染みついた動作だった。焼き上がったばかりの一枚を、両手で差し出す。
イルマは受け取り、匂いを嗅いだ。皺の奥の小さな目が、わずかに見開かれた。端をちぎり、口に入れる。
咀嚼が、止まった。
老婆の顎がゆっくりと動いている。二度、三度。飲み込んで、また端をちぎる。レナートは黙って見ていた。宮廷で貴族たちの反応を窺っていたときとは、まるで違う心持ちだった。あのときは評価を恐れていた。今は——ただ、目の前のこの人が、どう感じるのかを知りたかった。
イルマが顔を上げた。
頬に、一筋の涙が伝っていた。
「ああ——」
老婆は声を震わせた。
「温かいね」
それだけだった。うまいとも、まずいとも言わなかった。ただ「温かい」と。粗末な焼き餅を両手で包むように持ち、老婆はもう一口、ゆっくりと噛んだ。涙は拭わなかった。
レナートの胸の奥で、何かが灯った。
宮廷では得られなかったものだった。七皿のフルコースを出しても、「うまい」は社交辞令で、「不味い」は政治だった。味そのものに触れた反応を、十五年間一度も見たことがなかった。だがこの老婆の涙は——政治でも社交でもない。荒野の粗末な一皿が、ただ温かかったという、それだけの涙だった。
「行商でね、あちこちを回っているんだよ。ここから半日ほど南に、ブラントという村がある」
イルマは焼き餅を食べ終え、指についた粉を丁寧に舐めてから言った。
「小さな村だけれど、人はいる。あんた、料理ができるんだろう。この焼き餅を食べれば分かる。素材はこれしかなかったんだろうに、ちゃんと一皿に仕立てている」
レナートは答えなかった。料理ができる。その言葉を、今の自分がどう受け取ればいいのか、まだ分からなかった。
「もし行く宛てがないなら、寄ってみるといい。あたしは来月また巡回するから、そのとき顔を見に行くよ」
イルマは背負い籠を担ぎ直し、杖を突いて立ち上がった。来たときと同じようにゆっくりと歩き出し、灌木の向こうに消えていく。足音が遠ざかり、やがて風の音だけが残った。
レナートは竈の傍らに座ったまま、しばらく動かなかった。
手の中に、焼き餅の温もりが残っている。老婆の涙の跡が、まだ目の奥にある。あの涙は、レナートがこの荒野で初めて受け取った「返事」だった。自分の手で育て、自分の火で焼き、差し出したものに対する、偽りのない返事。
南に、村がある。
風がハーブの葉を揺らし、清涼な香りを運んでくる。竈の火は熾火になり、赤い光が石の隙間から漏れていた。レナートは湧き水で手を洗い、濡れた指でハーブの葉に触れた。葉が指先に押し返すような弾力がある。元気に育っている。
ここで一人、この土と向き合い続けることもできる。だが料理人は、食べる人がいなければ料理人ではない。あの老婆の涙が、忘れかけていたその当たり前を思い出させた。
半日ほど南に、ブラントという村がある。
明日、行ってみよう。
竈の熾火が静かに明滅している。赤い光に照らされたハーブの葉が、夕風に揺れていた。背負い籠の老婆が歩いていった南の方角を、レナートはもう一度だけ見つめてから、荒野の夜に目を閉じた。