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灰狼の再起・竜殺しの血脈

第1話 第1話

第1話

第1話

酒場の隅は、いつだって冷たい。

砦都市ガルドの大通りに面した「赤銅の角杯」亭——傭兵たちが依頼を待ち、報酬を呑み潰し、時に血を流す場所だ。壁に染みついた煙草と獣脂の匂いが、石造りの天井に澱んでいる。夜更けの酒場は喧騒に満ちていたが、その騒ぎから最も遠い卓の下で、青年は一人、革の手入れをしていた。

カイは膝の上に広げた剣帯の留め金に油を差しながら、微かに目を細めた。これは副団長ボルグのものだ。留め金の噛み合わせが甘くなっている。戦場で外れれば鞘ごと剣を落とす。そうなれば、あの巨躯の男でも無事では済まない。指先に伝わる金具の遊びは、ほんの半ミリ。だが半ミリが命を分ける境界線であることを、カイはこれまでの任務で嫌というほど見てきた。

「おい荷物持ち、酒を持ってこい」

三つ向こうの卓から声が飛んだ。傭兵団〈灰狼〉の前衛、赤毛のドルクだ。すでに顔が赤い。隣に座るもう一人の前衛レナードが、にやにやとこちらを見ている。

カイは黙って立ち上がり、帳場から麦酒の壺を受け取って運んだ。壺の底が冷えていて、掌に湿った重さが伝わる。ドルクが礼も言わずにひったくる。レナードが杯を差し出しながら、わざとらしく言った。

「ご苦労さん。お前がいると助かるよ、カイ。戦場じゃ何の役にも立たねえが、酒運びだけは一人前だ」

笑い声が広がる。カイは何も言わず、元の席に戻った。怒りはとうに擦り切れている。もっと正確に言えば、怒る暇があるなら手を動かすほうがいい、という結論に何年も前にたどり着いていた。

灰狼は十二人の小規模傭兵団だ。西方辺境を根城に、護衛、討伐、斥候とあらゆる依頼を請け負う。その中でカイの立場は明確だった。最弱。剣の腕は団で最も劣り、魔力はほとんどない。報酬の分け前は一人前の半分、宿は馬小屋に隣接する物置。それが、傭兵団〈灰狼〉におけるカイという人間の値段だった。

カイはボルグの剣帯を仕上げ、次の革鎧に手を伸ばした。斥候のミーシャのものだ。左肩の縫い目がほつれかけている。針と蝋引き糸を取り出し、ランプの薄明かりの下で縫い始めた。針先が革を貫くたびに、かすかな抵抗が指に返る。ランプの炎が揺れるたびに縫い目が影に沈み、そのたびにカイは顔を近づけて目を凝らした。一針ごとに蝋引き糸をきつく引き、革の表面と糸が段差なく密着するまで力加減を調整する。戦場で枝に引っかけても裂けないように——ミーシャが藪を駆け抜ける癖を、カイは知っていた。

この仕事は誰にも頼まれていない。だが、カイは知っている。手入れの行き届いた装備がどれほど生死を分けるか。自分が前線に立てないなら、せめて立つ者の盾と剣を万全にする。それが今の自分にできる唯一のことだった。

酒場の扉が開き、冷たい夜風とともに大きな影が入ってきた。

灰狼の団長、グレンだ。

四十を過ぎた壮年で、右頬に深い刀傷がある。かつて正規軍の百人隊長だったという噂もあるが、本人は何も語らない。灰狼の誰もがこの男を恐れ、同時に信頼している。カイにとっては——命の恩人だった。

十年前、西方辺境の街道で行き倒れていた孤児を拾い、飯を食わせ、団に置いてくれた。剣才がないとわかってからも追い出さなかった。それだけで十分だった。

グレンは一瞬で酒場を見渡し、カイの姿を認めた。他の団員たちの喧騒には目もくれず、まっすぐこちらへ歩いてくる。床板が重い足音を返す。その足取りには迷いがない——この男の歩き方は、いつだってそうだ。

「ボルグの剣帯、直したか」

カイは頷いた。グレンがそれを手に取り、留め金を確かめる。二度、三度と開閉し、感触を確かめてから口の端をわずかに上げた。

「いい仕事だ」

その一言で、カイの一日は報われる。

グレンは向かいの椅子を引き、腰を下ろした。酒は頼まない。この男が飲まない夜は、大抵ろくでもない話をするときだ。

「依頼が来た」

カイは手を止めた。

「峡谷の護衛だ。ヴァルザ峡谷を通る隊商を、北の砦まで送り届ける。報酬は——」

グレンが示した額に、カイは息を呑んだ。灰狼が半年かけて稼ぐ額に近い。

「ヴァルザ峡谷ですか。あそこは最近、地鳴りが報告されています。地下水脈が動いているのか、それとも——」

「それとも、何かが目覚めかけているのか」

グレンの灰色の目がカイを見据えた。この団長は知っている。カイには戦場の気配を読む異常な勘がある。剣が振るえなくても、空気の変化を嗅ぎ取る嗅覚だけは団の誰にも劣らない。だからこそ、斥候任務では何度もカイの進言が団を救ってきた。

「嫌な予感がします」

カイは正直に言った。

「ヴァルザ峡谷一帯は、ここ一月で三度、地鳴りの報告が出ています。鳥が減った。峡谷の南側に巣を作っていた岩鷲が、一羽も確認されていない。大型の獣が地中から何かを感じ取って離れている——そういう兆候です」

グレンは黙って聞いていた。酒場の喧騒が二人の間を通り過ぎていく。ドルクが卓を叩いて笑い、レナードがさいころを振る音がする。

「だから連れていく」

カイは一瞬、意味がわからなかった。

「お前の勘が正しいなら、なおさらだ。荷物持ちとしてじゃない。前線要員として連れていく」

前線。その言葉が、カイの胸の奥で熱く燃えた。何年も渇望し、一度も与えられなかった場所。周囲の喧騒が一瞬遠のき、グレンの低い声だけが鼓膜に残った。

「——俺に、務まりますか」

声がかすかに震えた。グレンは表情を変えなかった。

「務まるかどうかは、お前が決めることじゃない。俺が決める」

それは、誰よりも厳しく、誰よりも公正なこの男の、信頼の示し方だった。

「いいか、カイ。お前の剣は確かに鈍い。魔力もないに等しい。だが——」

グレンはカイが縫い終えたばかりのミーシャの革鎧を手に取り、縫い目を確かめた。太い指で縫い目をなぞり、引っ張り、それから革鎧を卓に戻した。

「戦場を見る目は持っている。お前は自分の弱さを知っている。知った上で、やれることをやっている。そういう人間は——土壇場で折れない」

カイは答えられなかった。喉の奥が詰まっていた。十年間、一度も泣かなかった。孤児として路上にいた頃から、泣いても何も変わらないと知っていたからだ。今も泣かない。だがこの言葉は、深いところに届いた。胸の底にずっと沈めていた何かが、静かに浮き上がろうとしていた。カイは膝の上で拳を握り、その震えを押し殺した。

「出立は三日後の夜明けだ。お前の装備も見ておけ」

グレンが立ち上がり、他の団員に依頼の概要を伝えに向かった。

酒場が一気に沸いた。報酬の額を聞いたドルクが目を剥き、レナードが口笛を吹く。ボルグが静かに頷き、斥候のミーシャが地図を広げ始めた。ドルクが「ヴァルザだと? あの谷は嫌いなんだよ」と言いかけたが、報酬の桁を聞き直して黙り込んだ。レナードが地図を覗き込み、峡谷の入り口から北の砦までの距離を指で測っている。

騒ぎの中で、カイは誰にも見えないところで、自分の剣を鞘から抜いた。安物の鉄剣。刃こぼれを幾度も直し、柄の革は擦り切れて巻き直してある。ボルグの大斧やレナードの長剣と比べれば、みすぼらしいことこの上ない。

だが、この剣で前線に立つ。

カイは砥石を取り出した。一振り、また一振り、丁寧に刃を研いでいく。いつもは仲間の武器ばかり手入れしていた手が、初めて己の剣に向き合っていた。砥石と鉄が擦れるたびに、微かな金属の匂いが鼻腔をくすぐる。刃に映るランプの光が、一研ぎごとに鋭さを増していく。この手で誰かを守れるのか——その問いには、まだ答えがない。だがグレンが前線に立てと言った。ならば応えるしかない。

酒場の窓の外、西の空が仄暗い。ガルドの城壁の向こうに広がる荒野の果て、ヴァルザ峡谷は闇に沈んでいる。その地の底で何かが胎動しているとすれば、灰狼はまだ知らない。

三日後、あの峡谷で何が待っているのか。

カイの指先が、わずかに震えていた。それが恐怖なのか、期待なのか——自分でもわからなかった。ただ砥石の音だけが、喧騒の底に細く響いていた。

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