第2話
第2話
三日は、あっという間だった。
夜明け前のガルドの門を灰狼が出たとき、空はまだ鉛色に閉じていた。隊商の荷馬車は六輌。積み荷は北の砦に届ける兵糧と鉄材だという。御者たちの顔はどれも強張っていた。ヴァルザ峡谷を通る——その一事が、彼らの口数を奪っている。
カイは隊列の中ほどを歩いていた。腰に佩いた鉄剣の重みが、いつもと違って感じられる。三日かけて研ぎ上げた刃は、安物なりに光を返している。だがそれ以上に重いのは、グレンから渡された革の胸当てだった。前線要員の証。装備庫の隅に余っていた古い品だが、カイにとっては初めて身につける戦装束だ。革紐で締め上げた胸当ては歩くたびに体に食い込み、息を浅くさせた。これを着けている限り、自分はもう荷運びではない。その事実が、誇らしさよりも先に重い緊張を運んでくる。
「よう、荷物持ちが鎧なんざ着てどうする。重くて転ぶなよ」
隊列の前方からドルクの声が飛んだ。レナードが肩を竦めて笑う。だがその声には、いつもの毒気がわずかに薄い。峡谷が近づくにつれ、冗談の切れ味まで鈍るらしかった。
二日目の昼過ぎ、灰狼はヴァルザ峡谷の入口に立った。
切り立った崖が左右から迫り、その間を細い街道が蛇のように這っている。崖の高さは百尋を優に超え、日の光は谷底まで届かない。湿った岩壁に苔がこびりつき、空気そのものが冷たく重い。鳥の声は聞こえなかった。カイが酒場でグレンに伝えた通りだ。岩鷲の巣は空。峡谷を棲処としていたはずの生き物が、根こそぎ消えている。風は峡谷の奥から吹いてきた。腐った卵に似た、硫黄のかすかな臭い。カイの背筋に冷たいものが走った。この匂いを、どこかで嗅いだことがある。幼い頃の記憶の底、炎に焼かれた街道の残り香——思い出しかけて、カイはかぶりを振った。
カイは足を止め、耳を澄ませた。風が岩の隙間を吹き抜ける音。荷馬車の車輪が石を噛む音。その下に——何かがある。低く、遠く、地の底から響くような振動。耳で聞くというより、足の裏で感じる類のものだった。
「団長」
カイは前方のグレンに駆け寄った。声を落とす。
「地鳴りです。断続的に、間隔が短くなっています。最初にガルドで報告が上がったときより、はるかに強い」
グレンの灰色の目が峡谷の奥を見据えた。表情は変わらない。だがその沈黙の長さが、団長の判断の重さを物語っていた。
「引き返しますか」
「いや。依頼は受けた」
グレンは静かに言った。だが次の言葉は、全団員に聞こえるように声を張った。
「全員、戦闘態勢を維持しろ。前衛はドルク、レナード、ボルグ。斥候はミーシャを先行させる。カイ、お前は俺の傍につけ」
ボルグが無言で大斧を肩に担ぎ直した。巨体が動くだけで空気が軋む。ドルクとレナードが剣を抜き、隊商の御者たちに「馬車を止めるな、何があっても進め」と怒鳴った。
峡谷の奥へ進むにつれて、地鳴りは明らかに強くなった。馬が怯え、手綱を取る御者の腕が震えている。カイはグレンの半歩後ろを歩きながら、崖の上と谷底の両方に意識を配っていた。何かが来る。それは確信に近かった。だが何が来るのか——それはまだ、わからない。
峡谷の中腹を過ぎた頃、それは起きた。
地鳴りではなかった。地震だった。
足元の岩盤が割れるような衝撃が走り、荷馬車が跳ねた。馬が嘶き、御者が投げ出される。崖の上から岩が剥がれ落ち、粉塵が峡谷を白く染めた。
そして——崖の壁面が、内側から砕けた。
岩と土砂が雪崩のように崩れ落ち、その奥から現れたものを見た瞬間、カイの思考は凍りついた。
鱗だった。赤黒い、溶岩が冷えて固まったような鱗が、崩落した岩壁の向こうに広がっている。それは壁ではなく、身体だった。首が持ち上がる。峡谷の幅いっぱいに広がる翼が、岩を削りながら展開される。頭部だけで荷馬車二輌分はある。眼窩に灯る金色の瞳が、眼下の人間たちを見下ろした。
古代竜。
千年の眠りから目覚めた災厄が、峡谷の真上に立っていた。
時が止まったように感じた。カイの全身から血の気が引き、握った剣の柄が汗で滑った。本で読んだことがある。古代竜——国一つを灰に変えたという伝承上の存在。だがどんな言い伝えも、この圧倒的な質量の前では紙切れ同然だった。竜が息を吸うだけで、峡谷の空気が渦を巻いて吸い込まれていくのが肌でわかる。
「散開しろッ!」
グレンの怒号が峡谷に反響した。だが遅かった。
竜の顎が開いた。喉の奥に炎が渦巻くのが見えた——溶鉱炉の底をそのまま覗き込んだような、白に近い灼熱。空気が一瞬で乾き、カイの肌が焼けるように痛んだ。
ブレスが放たれた。
峡谷の街道を、炎の濁流が呑み込んだ。前衛のドルクとレナードが立っていた場所が、一瞬で灼熱の海に変わる。ドルクが咄嗟に盾を構えたが、盾ごと吹き飛ばされるのが見えた。レナードが横に跳んだ——間に合ったのか、カイには確認する余裕がなかった。
荷馬車が燃えた。馬が炎に包まれ、断末魔の嘶きが峡谷に響く。積み荷の兵糧が黒煙を上げ、鉄材が赤く溶ける。熱波がカイの全身を叩いた。グレンに腕を掴まれ、岩陰に引きずり込まれなければ、あの炎に巻き込まれていた。
「前衛がやられた——」
カイの声は震えていた。岩陰から覗くと、峡谷の街道は地獄と化していた。炎が道を舐め、岩壁に張り付いた苔が爆ぜるように燃えている。煙と熱気で視界が歪み、仲間の姿がどこにも見えない。
「ボルグは無事だ。右の岩棚に退避している」
グレンの声は、信じがたいほど平静だった。この男は炎の中でも冷静に戦場を把握している。だがその次の言葉は、初めて苦い響きを帯びていた。
「退路が塞がれた」
カイは振り返った。来た方角——峡谷の入口に向かう道が、竜のブレスで崩落した岩と炎に塞がれていた。前方も同じだ。峡谷の中腹で、灰狼は炎に囲まれた袋の中にいる。
古代竜が再び首をもたげた。二撃目が来る。
「全員、北壁の亀裂に退避しろ! ミーシャ、生きているなら隊商の人間を連れて先に行け!」
グレンが叫んだ。峡谷の北側の崖に、人一人が通れるほどの細い裂け目がある。竜の体躯では入れない。そこに逃げ込めば、少なくとも直撃は避けられる。
斥候のミーシャが煙の中から姿を現し、御者二人の腕を引いて走り始めた。ボルグが岩棚から飛び降り、負傷したドルクを肩に担いで亀裂に向かう。レナードは——左腕を押さえながら、自力で走っていた。生きている。
だが竜は、逃げる人間を見逃さない。
金色の瞳が動いた。首が、亀裂に向かって走る灰狼を追う。喉の奥に再び光が灯る。
グレンが岩陰から飛び出した。
「団長!」
カイが叫んだ。グレンは振り返らなかった。手にした長剣を峡谷の壁に叩きつけ、金属音を響かせた。何度も、何度も。耳障りな音が峡谷に反響する。
竜の視線が動いた。逃げる団員たちから——音を立てるグレンへ。
「——殿は俺が引き受ける」
グレンの声は、風に溶けるほど静かだった。だがカイの耳には、はっきりと届いた。
「カイ。お前は行け」
「行けません」
カイの足は動かなかった。全身が震えている。恐怖ではなかった。恐怖ならば走れる。足を縫い止めているのは、もっと深い場所にあるものだった。この男が自分を拾った日のことを、体が覚えている。飢えて倒れた街道の泥の冷たさを、差し出された手の大きさを。あの手がなければ、カイはとうに死んでいた。
「行けと言っている」
グレンが初めて振り返った。灰色の目が、カイを正面から射抜いた。その目に怒りはなかった。恐怖もなかった。あったのは——十年前、街道で行き倒れた孤児に手を差し伸べたときと同じ、静かな意志だった。
「お前の役目は、ここで死ぬことじゃない」
古代竜の喉が輝きを増した。三度目のブレスが来る。
グレンが背を向けた。長剣を構え、竜に向かって走り出す。その背中は一度も揺れなかった。
「——団長ッ!」
カイの叫びを、炎が呑んだ。
ボルグの太い腕がカイの襟首を掴み、強引に引きずった。岩壁の亀裂に押し込まれ、視界が暗転する。最後に見えたのは、炎の壁の向こうに立つグレンの影だった。竜に向かって走る、一人の男の背中。
亀裂の中に熱風が吹き込み、カイは岩壁に背を押しつけた。轟音が峡谷を揺るがし、光が亀裂の入口を白く焼いた。
そして——静寂が降りた。
炎の爆ぜる音だけが、低く続いていた。