第3話
第3話
亀裂の中は、暗く、熱かった。
岩壁に背を押しつけたまま、カイは呼吸を忘れていた。外の轟音が遠ざかり、耳の奥で血の巡る音だけが脈打っている。煙が亀裂の入口から流れ込み、喉を焼いた。目を開けても閉じても、あの背中が見える。炎の壁に向かって走っていく、グレンの背中。
「……出るぞ」
ボルグの低い声が、暗闇を裂いた。
亀裂の入口に光が戻っている。炎の白さではない。峡谷の上から差し込む、灰色がかった昼の光だ。カイは岩壁から背を離し、よろめきながら外に出た。
峡谷は焦土と化していた。街道の石畳は溶けて歪み、荷馬車は黒い骨組みだけを残して崩れ落ちている。岩壁に張り付いていた苔は跡形もなく、むき出しの岩肌が赤黒く焼けていた。硫黄と焦げた肉の匂いが鼻腔を埋め尽くし、カイは込み上げる吐き気を歯を食いしばって堪えた。
そして——峡谷の中ほどに、一つの影が倒れていた。
カイは走った。足がもつれた。焼けた石畳に手をつき、掌の皮が焦げる痛みも構わず立ち上がり、また走った。
グレンは仰向けに倒れていた。長剣は折れ、その半ばが数歩先の地面に突き刺さっている。鎧の左半分が溶け落ち、その下の肌は見るに堪えない有様だった。だが胸がかすかに上下している。まだ、息がある。
「団長——」
カイが膝をついた瞬間、地の底から振動が伝わった。重く、律動的な振動。心臓の鼓動に似ている。だがこれは、大地の鼓動ではない。
古代竜が、まだ生きている。
峡谷の奥で巨大な影が身じろぎした。翼を折り畳み、岩壁に身を寄せるようにして蹲っていた竜が、ゆっくりと首をもたげる。金色の瞳が、煙の向こうからカイを見つけた。
「カイ、来い! こっちだ!」
亀裂の奥からボルグの声が聞こえた。ミーシャが手招きし、レナードが左腕を押さえながら叫んでいる。亀裂の向こう側に、かろうじて北壁を伝って抜けられる道があるらしい。生き残った団員たちが、そちらへ退避しようとしている。
「団長を置いていけない」
カイはグレンの腕を自分の肩に回した。だが持ち上がらない。壮年の戦士の体躯は重く、カイの細い体では支えきれなかった。引きずるように一歩、二歩。焼けた石畳の上を、グレンの脚が引きずられる音がした。
竜が動いた。巨大な前脚が峡谷の床を踏み、衝撃波が走った。カイの足が掬われ、グレンもろとも地面に叩きつけられる。竜が近づいてくる。一歩ごとに地面が揺れ、崩れかけた岩壁からさらに石が降る。
「置いていけ!」
ボルグの声が悲鳴に近かった。だがその声は、次の瞬間、崩落の轟音にかき消された。亀裂の入口の上部が崩れ、岩と土砂が雪崩のように落ちて、亀裂を塞いだ。ボルグの声が断ち切られる。向こう側の仲間たちとの道が、完全に閉ざされた。
峡谷に残されたのは、カイと、瀕死のグレンと、古代竜だけだった。
竜が首を低くした。金色の瞳が、地面に這いつくばる人間二人を見下ろしている。その目に怒りはなかった。感情と呼べるものは何も読み取れない。虫を見る目ですらない——そもそも、虫に向ける感情などない。ただそこにある障害物を、排除するか否かを決めるだけの、冷徹な視線だった。
喉の奥に、四度目の光が灯った。
カイは立ち上がった。折れかけた膝を叱咤し、腰の鉄剣を抜いた。安物の刃が、竜の灼熱に照らされて鈍く光る。手が震えている。全身が震えている。だが、退く場所はもうない。
グレンを背に庇い、カイは剣を構えた。構えと呼べるほどのものではなかった。ただ両手で柄を握り、前に突き出しただけだ。それでも——この体が盾になるなら、一瞬でも時間を稼げるなら。
竜の顎が開いた。溶鉱炉の底が覗く。熱風が顔を叩き、肌が焼けるように痛んだ。
死ぬ、とカイは思った。これが最後だ。グレンを守ることもできず、仲間のもとに戻ることもできず、何も成せないまま灰になる。荷物持ちの最期としては、分相応なのかもしれない。
——ならば、せめてこの剣だけは前に向けたまま死のう。
カイは目を閉じなかった。
竜が、咆えた。
それはブレスではなかった。炎ではなく、音だった。峡谷の岩壁を震わせ、空気そのものを叩き割るような、原初の咆哮。千年の眠りから覚めた古の竜が、この世界に己の存在を刻みつけるための叫び。
その咆哮が、カイの体の奥底に届いた。
最初は痛みだった。胸の中心、心臓の真裏あたりを焼く鉄で突かれたような激痛。カイは声にならない叫びを上げ、膝をついた。剣を取り落としかけ、しかし指が柄に食い込んで離さない。痛みは胸から全身に広がり、血管の一本一本が灼熱に満たされていくような感覚が体を駆け巡った。
皮膚の下で、何かが砕けた。
長い間そこにあったもの——生まれたときから体の奥に封じられていた何かが、竜の咆哮に呼応して、割れた。卵の殻が内側から砕けるように、体の中心から外側へ向けて力が溢れ出す。
カイの左腕に、光の線が走った。
手首から肘へ、肘から肩へ、肩から胸へ。青白い紋様が皮膚の表面に浮かび上がり、脈動するように明滅する。文字のようで文字ではない。模様のようで模様ではない。何千年も前に刻まれ、血の中に眠っていた古代の刻印が、今初めて目覚めていた。
痛みが消えた。いや、痛みを超えたのだ。体中に満ちる力の奔流が、痛覚そのものを押し流していた。視界が変わった。煙の向こう、竜の鱗の一枚一枚が見える。金色の瞳の虹彩に走る細い亀裂が見える。竜の心臓が打つ振動が、足の裏から読み取れる。
世界が、遅くなった。
カイは立ち上がった。今度は膝が震えなかった。手も震えなかった。剣を握る指が、柄に溶け合うように密着している。安物の鉄剣が——掌の延長になっていた。
竜がブレスを放った。白い灼熱が峡谷を埋め尽くす。
カイは、跳んだ。
自分でも信じられない跳躍だった。岩壁を蹴り、炎の奔流の上を飛び越え、竜の頭部に向かって一直線に駆け上がる。足が岩を蹴るたびに岩が砕ける。体が嘘のように軽い。いや、体が重力を忘れたのだ。
竜の頭部が迫る。金色の瞳が驚愕に見開かれた——初めて、あの冷徹な目に感情が宿った。
カイは叫んだ。言葉ではなかった。体の奥から湧き上がる咆哮を、喉が勝手に解き放った。左腕の紋様が一際強く輝き、その光が剣身を伝って刃の先端まで走った。
安物の鉄剣が、古代竜の右角の根元に吸い込まれた。
岩を断つ手応え。鉄を断つ手応え。そのどちらとも違う、もっと深く、もっと硬く、もっと古いものを断つ感触が、両腕を貫いた。
角が、折れた。
古代竜の右角が根元から断たれ、峡谷の底に落ちた。巨大な角が地面に叩きつけられ、岩盤を砕く轟音が峡谷を揺るがす。竜が苦悶の咆哮を上げた。その声は先ほどの威厳ある叫びとは異なり、驚きと痛みが混じった、千年の生で初めて発したであろう悲鳴だった。
竜がカイを振り落とした。体が宙を舞い、峡谷の壁に叩きつけられる。背中に鈍い衝撃が走ったが、不思議と意識は途切れなかった。左腕の紋様がまだ脈動している。地面に転がりながら、カイは竜を見上げた。
古代竜は片角を失った頭部を振り、金色の瞳でカイを凝視していた。怒りではない。その目にあったのは——認識だった。目の前の矮小な人間を、初めて一個の存在として認識した目。
竜は翼を広げた。峡谷の岩壁を削りながら、巨体がゆっくりと浮き上がる。風圧が暴風となってカイを地面に押しつけた。竜は一度だけ振り返り、片角の人間を見下ろした。
そして、峡谷の上空へ飛び去った。
翼が起こす風が止み、砂塵が降り注ぎ、やがて静寂が戻った。
カイは地面に膝をついたまま、竜が消えた空を見上げていた。左腕の紋様は、少しずつ光を失いつつある。体の奥で脈打っていた力の奔流が引いていく。代わりに、凄まじい疲労が四肢を侵し始めた。指先から力が抜け、剣が手から滑り落ちる。刃には一筋の亀裂が走っていた。
振り返った。
グレンは、あの場所に倒れたままだった。カイは這うように近づいた。紋様の光はもう消えかけていて、体が鉛のように重い。それでも手を伸ばし、グレンの肩に触れた。
冷たかった。
峡谷にはまだ炎の残り火がくすぶり、焼けた岩が熱を放っている。空気すら熱い。なのにグレンの体は、それらすべてと無関係に、静かに冷えていた。
カイは動けなかった。グレンの肩に置いた手を、離すことができなかった。離せば本当に終わる。この手の下にあるものが、ただの亡骸になる。十年前に差し伸べられた手が、永遠に届かなくなる。
風が吹いた。峡谷の奥から、硫黄の匂いを洗い流すような、冷たい北風。グレンの灰色の髪がかすかに揺れた。その風に乗って、最後の声を聞いた気がした。
——灰狼を、頼む。
それが幻聴だったのか、グレンが最期に遺した言葉だったのか、カイにはわからなかった。ただその五文字が、体の奥に刻まれた紋様よりも深く、胸に焼きついた。
カイは長い間そこに座っていた。涙は出なかった。十年前から、泣き方を忘れている。だが目を閉じると、瞼の裏にグレンの背中が見えた。炎に向かって走る、あの揺れない背中。
やがてカイは立ち上がった。
左腕の紋様は消え、ただ薄い痕だけが皮膚に残っている。あれが何だったのか、自分の身に何が起きたのか、何一つわからない。わかっているのは、一つだけだった。
峡谷の出口に向かって、一歩を踏み出す。
仲間は散った。団長は逝った。だがグレンの最後の言葉が、折れかけた膝を支えている。ここで座り込めば、灰狼は本当に終わる。それだけは——この身が朽ちても許さない。
焼け焦げた峡谷を、一人の青年が歩いていく。その背中は小さく、足取りは覚束ない。だが一度も、振り返らなかった。