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辺境の村で、薬師になる

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝も、咳は聞こえた。

 昨日より深い音だった。乾いた空咳ではなく、胸の奥から搾り出すような湿った咳。陽介は診療所の入口に立ったまま、隣家の方へ耳を傾けた。朝の空気は昨日の雨を含んでまだ冷たく、石壁の表面にうっすらと水滴が残っている。裏手の荒れ地からは土と草の匂いが立ち上り、どこかで小鳥がさえずっていた。のどかな朝のはずだった。だが、断続的に聞こえる咳が、その穏やかさに小さな棘を刺していた。

 咳の合間に、声が聞こえた。昨日も聞いた、大人の女性の声。今日は少し違う。言い聞かせるような穏やかさではなく、どこか切迫した響きがある。水を持ってくる足音。布を絞るような音。看病している。熱が出ているのかもしれない。

 陽介は棚に並べた薬草に目を向けた。昨日採取したカミツレモドキの花弁。ムラサキヒソップの葉。ニガヨモギ。欠けた陶器の鉢に種類ごとに分けて置いてある。MR時代の知識が頭の中で回り始める。湿性咳嗽と発熱——上気道炎が進行している。大人なら自然治癒を待てるが、子どもは体力の消耗が早い。放置すれば気管支炎に移行する可能性がある。

 足元の床板を見つめた。昨日、声をかけられなかった自分を思い出す。素性も知れない人間が薬を差し出す不審さ。効かなかったときの責任。そもそも自分は医師でも薬剤師でもない。ただの元営業だ。

 また咳が聞こえた。今度は長く続いた。途中で息が詰まるような音が混じり、それから小さな泣き声に変わった。苦しいのだ。子どもが、苦しんでいる。

 陽介は棚の前に歩み寄り、カミツレモドキの花弁を手に取った。

 調合は、思ったよりも手が覚えていた。

 カミツレモドキの花弁を乳鉢で潰し、少量の水を加えて抽出液を作る。鑑定スキルが成分の濃度を教えてくれるので、薄すぎず濃すぎない塩梅がわかる。そこにムラサキヒソップの葉を刻んで加えた。消炎作用が咽頭の腫れを抑え、カミツレモドキの解熱成分と合わさることで相乗効果が期待できる。前世の薬理学で言うところの、NSAIDsに近い作用機序だ。

 ただし、子どもに投与するなら量を絞る必要がある。体重あたりの用量は大人の半分以下。鑑定スキルは成分の種類と効能は教えてくれるが、適正な投与量までは示さない。そこは自分の知識で補うしかなかった。

 小さな陶器の碗に煎じ液を注ぐ。淡い琥珀色の液体から、かすかに甘い湯気が立ち上った。鼻を近づけて匂いを確かめる。カモミールティーに似た穏やかな香り。子どもでも飲めるだろう。

 碗を両手で持ち、診療所の入口に立った。隣の家まで十歩もない。たった十歩だ。だが足が重い。前世の処世術が囁く——余計なことはするな。失敗したらどうする。責任を取れるのか。

 咳が聞こえた。続いて、押し殺したような嗚咽。子どもの泣き声ではなかった。母親の方だった。

 陽介は十歩を踏み出した。

 隣家の扉は古い木製で、表面がささくれ立っていた。控えめに叩くと、少しの間があって扉が開いた。目の前に立っていたのは、三十代半ばくらいの女性だった。亜麻色の髪を後ろで一つに束ね、目の下に隈がある。エプロンの裾を握りしめていた。徹夜で看病していたのだろう。

「隣の、診療所にいる者です」

 それだけ言うのに、喉が詰まった。女性の目が陽介と、その手に持った碗を交互に見る。

「あの……お子さんの咳が聞こえたので。これは薬草を煎じたもので、熱を下げて喉の炎症を和らげる効果があります」

 女性の表情に警戒が走ったのがわかった。当然だ。昨日来たばかりの余所者が、得体の知れない液体を差し出している。陽介自身、同じ立場なら受け取らないだろう。

「……あなた、薬師なの?」

「いえ、その……薬の知識が、少しだけあって」

 曖昧な答えだった。女性は碗の中身を覗き込み、それから家の奥に目を向けた。奥の部屋から、また咳が聞こえた。

 しばらくの沈黙があった。女性の目が揺れている。信用していいのか、迷っているのだ。陽介は何も言い足さなかった。説得する言葉を持っていなかったし、無理に飲ませてほしいとも思わなかった。ただ差し出すことしかできない。

 やがて女性は、碗を受け取った。

「……ありがとう。試してみるよ」

 その声には感謝よりも、他に手段がないという諦めに近いものが混じっていた。扉が静かに閉まった。

 その日は何も手につかなかった。

 荒れ地の薬草を調べようとしたが、集中できなかった。効くだろうか。量は適切だったか。そもそもこの世界の薬草が、前世の薬理学通りに作用する保証はない。鑑定スキルは成分を教えてくれるが、実際に人体でどう代謝されるかまでは教えてくれない。

 午後から曇り始め、灰色の雲が低く垂れ込めた。気温が下がっている。陽介は崩れた屋根の隙間を古い布で塞ぎながら、何度も隣家の方に耳を傾けた。時折咳が聞こえる。まだ続いている。

 夕方になって、雲の切れ間から夕日が一瞬だけ顔を出した。橙色の光が石壁を染め、すぐに消えた。陽介は診療所の中で薬草の整理をしながら夜を迎えた。隣家の窓に明かりが灯り、やがて消えた。

 眠れない夜だった。雨漏りの音はなかったが、代わりに自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。あの子どもは大丈夫だろうか。間違ったことをしていないだろうか。前世では、自社の薬で副作用が出た患者の報告書を何度も書いた。効能の裏には必ずリスクがある。そのことを誰よりも知っているはずの自分が、素人同然の調合で子どもに薬を渡した。

 後悔と不安が交互に押し寄せ、いつの間にか意識が途切れた。

 翌朝、扉を叩く音で目が覚めた。

 跳ね起きて扉を開けると、昨日の女性が立っていた。手に籠を持っている。中には布に包まれた何かと、小さな焼き菓子が入っていた。

 女性の顔が、昨日とは別人のように見えた。目の下の隈はまだ残っているが、頬に血色が戻り、何よりも表情が柔らかい。

「熱が下がったの。今朝はもう咳も出てない。エルナ、朝からお腹空いたって」

 エルナ。あの子の名前だ。

「それは……よかった」

 陽介の声はかすれていた。安堵が遅れてやってきて、膝の力が少し抜けた。

「これ、お礼。大したものじゃないけど」

 女性が籠を差し出す。焼き菓子の甘い匂いがした。バターと蜂蜜。ここに来てから、甘いものは口にしていなかった。

「ありがとう、ございます」

 受け取った籠は温かかった。焼きたてなのだ。わざわざ朝から焼いてくれたのだろうか。陽介はそれだけのことに胸が詰まりそうになって、俯いた。

 女性はしばらく陽介の顔を見つめ、それから少しだけ首を傾げた。

「あんた、薬師なのかい?」

 昨日と同じ問いだった。だが、昨日とは響きが違う。警戒ではなく、純粋な問いかけだった。

 陽介は口を開きかけて、閉じた。薬師なのか。その問いに、何と答えればいいのかわからなかった。前世ではただの営業だった。この世界で薬草鑑定のスキルを得たが、修行も師事もしていない。昨日の調合だって、スキルと前世の知識を頼りに手探りで作ったものだ。それを薬師と呼べるのか。名乗っていいのか。

「……わかりません」

 正直に答えた。それ以外に言いようがなかった。

 女性は少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。

「変なひと。でも、エルナの熱を下げてくれたのは本当だからね」

 踵を返しかけて、思い出したように振り向いた。

「私はマルタ。隣に住んでるから、何かあったら声かけて」

 マルタは軽く手を振って、自分の家に戻っていった。玄関先に小さな影が見えた。亜麻色の髪を二つに結んだ女の子が、柱の陰からこちらを覗いている。目が合うと、ぱっと隠れた。だが、すぐにまた顔を半分だけ出して、小さく手を振った。

 陽介は思わず手を振り返していた。

 診療所に戻り、籠の中の焼き菓子を一つ口に入れた。素朴な甘さが口の中に広がる。蜂蜜の風味が舌の上で溶けて、喉を温かく通り過ぎていく。美味しかった。ただ、それだけのことが、ひどく沁みた。

 棚の薬草に目を向ける。昨日まではただの植物だった。だが今は、エルナの熱を下げたという事実がそこにある。自分の手で摘み、自分の知識で調合し、一人の子どもの体を楽にした。それは小さなことかもしれない。風邪の一つを治しただけだ。だが、十二年間の営業生活で、陽介が自分の手で誰かを直接助けたことは一度もなかった。

 窓の外で、エルナの笑い声が聞こえた。母親に何かを話しかけている。元気な声だった。

 陽介は欠けた鉢を手に取り、裏手の荒れ地に向かった。もう少し薬草を集めておこう。次に誰かが体調を崩したとき、今度はもう少し早く動けるように。

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