第2話
第2話
夜半に目を覚ましたのは、額に落ちた冷たい雫のせいだった。
最初は夢の中の出来事かと思った。だが二滴目が鼻の頭を打ち、三滴目が首筋を伝ったとき、陽介は完全に意識を取り戻した。暗闇の中で体を起こすと、天井のどこかから規則的な音が聞こえる。ぽた、ぽた、と水が床板を叩いている。雨だった。
崩れた屋根の右側だけではなかった。左側にも、壁と屋根の接合部にいくつもの隙間があるらしく、水の滴る音がそこかしこから響いていた。毛布の端が既に湿っている。陽介は暗闇の中で壁際ににじり寄り、比較的乾いた場所を手探りで見つけて膝を抱えた。
目が慣れてくると、診療所の内部が朧げに見えてきた。傾いた棚から何かの液体が染み出した痕が壁に黒い筋を作っている。割れた瓶の破片が床に散らばり、かつて薬品を並べていたであろう棚板は白い黴に覆われていた。奥の部屋に続く扉は蝶番が外れかけ、隙間風が湿った空気を運んでくる。
ここは診療所だった、と老婆は言った。薬師がいなくなってから何年も経つ、と。かつてここで誰かが薬を量り、誰かの体を診ていた。棚にはきちんと瓶が並び、患者が腰かける椅子があったのだろう。今はその面影すら、雨と黴と埃の下に埋もれている。
雨音を聞きながら、陽介はぼんやりと思った。前世の最後の夜も、一人だった。アパートの薄い壁越しに隣室のテレビの音が漏れていて、自分だけが取り残されたような気持ちになった。今も一人だ。だが、あの夜とは何かが違う。急かすものがない。追い立てるものがない。ただ雨が降っている。それだけのことだった。
眠れないまま、夜が過ぎていった。
雨は明け方に上がった。
薄い灰色の光が壁の隙間から差し込むのを見て、陽介は固まった体をほぐすように立ち上がった。一晩中同じ姿勢でいた背中が軋む。扉を押し開けると、雨上がりの湿った空気が肺に流れ込んだ。冷たくて、青い匂いがした。昨日、森の中で嗅いだのと同じ匂い。
診療所の裏手に回ると、石壁に沿って荒れ地が広がっていた。かつては何かの畑だったのかもしれない。今は膝丈ほどの雑草が繁り、蔓性の植物が石壁を這い上がり、所々に灌木が根を張っている。雨を含んだ土は黒々として、朝の光の中で鈍く光っていた。
陽介は荒れ地の縁にしゃがみ込んだ。目の前の草むらに視線を向けると、頭の中にあの感覚が蘇る。薬草鑑定——昨日、森で白い花の草を見たときに働いたあのスキル。
試してみよう、と思った。他にすることもない。
足元の雑草に目を凝らす。最初に視界に入ったのは、どこにでもありそうな幅広の葉をつけた草だった。情報は流れてこない。ただの雑草だ。その隣、少し背の低い、細い茎に小さな紫の花をつけた草に目を移す。
——ムラサキヒソップ。消炎・止血。全草を乾燥させ粉末にして患部に塗布。
情報が流れ込んだ。陽介は思わず息を止めた。消炎と止血。つまり、切り傷や打撲に使える外用薬の原料だ。ヒソップという名前は前世でも知っている。シソ科のハーブで、古くから薬用に使われてきた植物。成分構成が近いなら、この世界でも同様の薬効が期待できる。
視線を動かす。荒れ地の雑草の中に、点々と薬草が混じっていた。
——ニガヨモギ。健胃・駆虫。葉を煎じて服用。ただし過剰摂取に注意。
——ヒカリゴケモドキ。鎮痛。根を擂り潰して湿布に。
——アオツヅラ。解毒。樹皮を煮出して使用。
次から次へと、情報が頭に流れ込んでくる。雑草にしか見えなかった荒れ地が、まるで整理されていない薬品棚のように見え始めた。MR時代に叩き込まれた薬理学の知識が、スキルの提示する情報と結びつき、用途や配合の可能性が頭の中で組み上がっていく。
消炎と鎮痛を組み合わせれば、関節痛の塗り薬が作れるかもしれない。健胃と解毒を組み合わせれば、食あたりの煎じ薬になるかもしれない。前世では営業資料に載せるだけだった知識が、ここでは自分の手で形にできる。
陽介は荒れ地の土に膝をつき、一つひとつの薬草の位置を頭に刻んでいった。雨上がりの土は柔らかく、膝が沈む。服の裾が泥で汚れたが、気にならなかった。十二年間、書類とパソコンの画面しか見ていなかった目が、今は地面に這いつくばって草の一本一本を見分けている。不格好だろう。だが、悪くなかった。
自分にできることがある——その手応えが、昨日よりも少しだけ確かだった。
どれくらいそうしていただろう。太陽が雲の切れ間から顔を出し、荒れ地に日が差し始めた頃、陽介はようやく立ち上がった。膝が泥だらけだった。服の袖で額の汗を拭い、診療所の中に戻る。棚の奥を探ると、欠けてはいるが使えそうな陶器の鉢がいくつか見つかった。乳鉢に似た形のものもある。薬を調合する道具の残骸だ。
先ほど採取してきた薬草を鉢に並べ、一つずつ確認していく。ムラサキヒソップの花弁は少し萎れかけているが、乾燥させれば保存できるはずだ。ニガヨモギは葉の状態がいい。ヒカリゴケモドキの根は泥を落として陰干しにする必要がある。
前世で医薬品の品質管理について散々勉強させられたことが、こんな形で役に立つとは思わなかった。製品の保管温度、有効成分の安定性、剤形による吸収率の違い——営業トークのために覚えた知識が、ここでは生きた技術になる。
棚の割れた瓶を片付け、使えそうな鉢を洗い、採取した薬草を種類ごとに分けて並べる。それだけの作業に午前中いっぱいかかった。体力が落ちている。前世で何年もデスクワークしかしてこなかった体は、しゃがんで立つだけで息が上がる。だが、薬草が整然と並んだ棚を見ると、少しだけ診療所らしくなった気がした。
午後、診療所の前に出て風に当たっていたときだった。
隣の家から、咳が聞こえた。
小さな咳だった。子どもの、乾いた咳。一度、二度、それから連続して四度。合間に苦しそうな呼吸音が混じる。陽介は反射的にそちらへ顔を向けた。
診療所の隣には、やはり石造りの小さな家が建っていた。壁に沿って細い花壇があり、紫色の花が咲いている。開いた窓の奥から、また咳が聞こえた。甲高く、痰の絡まない空咳。陽介のMRとしての経験が、自動的に症状を分析し始める。乾性咳嗽、おそらく上気道の炎症。風邪の初期症状に聞こえる。
窓辺にふと影が見えた。小さな人影だった。覗き込むような格好で、すぐに引っ込んだ。子どもだ。女の子だろうか。もう一度咳が聞こえ、それから奥の方で別の声がした。大人の、落ち着いた女性の声。母親だろう。何か言い聞かせるような響きだったが、言葉までは聞き取れなかった。
陽介は立ち上がりかけて、そのまま止まった。
声をかけるべきだろうか。咳が聞こえる。自分には薬草がある。さっき採取したカミツレモドキの仲間——正確にはムラサキヒソップだが、消炎作用がある。ニガヨモギと合わせれば、風邪の初期症状を和らげる煎じ薬が作れるかもしれない。
だが、足が動かなかった。
昨日この村に来たばかりの、素性も知れない人間。薬師だと名乗れる資格があるわけでもない。前世では医師でもなく薬剤師でもなく、ただの営業だった。薬の知識はある。スキルもある。でも、見ず知らずの子どもに「薬を作りましょうか」と言い出す勇気は、まだ持ち合わせていなかった。
前世でもそうだった。困っている人が目の前にいても、自分の担当でなければ声をかけなかった。それが組織の作法で、余計なことをして問題になるより黙っている方が安全だった。十二年かけて染みついた処世術が、異世界に来てもまだ体に残っている。
咳は断続的に続いていた。窓の向こうで、小さな影がもう一度動いた気がした。
陽介は診療所の中に戻り、棚に並べた薬草を見つめた。ムラサキヒソップの紫色が、薄暗い室内でぼんやりと浮かんでいる。
——明日も、あの咳が聞こえたら。
そのとき自分がどうするのか、陽介にはまだわからなかった。ただ、今日採った薬草を無駄にはしたくないと思った。欠けた鉢の中で、ヒカリゴケモドキの根が静かに乾き始めていた。
夕暮れの光が窓から差し込み、並んだ薬草の影を床に落としている。隣の家からは、もう咳は聞こえなかった。眠ったのかもしれない。陽介は毛布を敷き直しながら、昨夜よりも少しだけ乾いた場所を見つけて横になった。
雨漏りの染みが残る天井を見上げる。明日は、あの荒れ地をもう少し丁寧に調べてみよう。使える薬草が他にもあるはずだ。それから、崩れた屋根を何とかする方法も考えなければ。
隣家の方角に、一瞬だけ目を向けた。暗くなり始めた窓の向こうに、小さな明かりが灯ったのが見えた。