第1話
第1話
蛍光灯の白い光が、退職届の二文字をやけに鮮明に照らしていた。
佐伯陽介は自分の指先を見た。ボールペンを握りすぎて、中指の第一関節にできた窪みが消えない。十二年分の窪みだ。十二年分の営業成績表と、十二年分の未達理由書と、十二年分の「来期こそは」という言葉。そのすべてが、今朝プリントアウトしたA4一枚の紙で終わる。
課長は退職届を受け取ると、三秒ほど黙って文面を見つめ、それから何も言わずに引き出しにしまった。引き留めの言葉はなかった。当然だろう。先月の健康診断で産業医に呼び出され、「このまま続けたら本当に倒れますよ」と言われたのは、課長も知っているはずだった。
会社を出ると、四月なのに風が冷たかった。首筋を撫でるその冷たさが、不思議と心地よかった。今まではこの風すら感じる余裕がなかったのだと気づく。駅までの道を歩きながら、陽介はふと気づいた。十二年間、この道を毎日歩いていたのに、街路樹が何の木なのか一度も確かめたことがない。立ち止まって見上げると、ハナミズキだった。白い花弁が夕日に透けている。こんなに綺麗だったのか、とぼんやり思った。それだけで、なぜか涙が出そうになった。
アパートに戻り、スーツを脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。枕元の目覚まし時計を止める必要はもうない。明日の朝、起きなくていい。それがどういう意味なのか、陽介にはまだよくわからなかった。
ただ、ひどく疲れていた。骨の芯に鉛を流し込んだような重さが、体の隅々にまで行き渡っている。瞼を閉じると、意識は呆気なく沈んでいった。
頬に触れたのは、枕の感触ではなかった。
湿った土だった。指の間に草の葉が絡み、どこかで鳥が高い声で鳴いている。陽介はゆっくりと目を開けた。
木だった。見上げた先に、途方もなく大きな広葉樹が枝を広げている。葉の隙間から木漏れ日が差し、光の粒が地面に模様を描いていた。アパートの天井ではない。蛍光灯の光でもない。鼻腔に入り込んでくるのは、雨上がりの森に似た、深くて青い匂いだった。
体を起こす。スーツではなく、麻のような生成りの服を着ていた。足元には革紐で編まれた簡素な靴。ポケットもなければ、スマートフォンもない。右手を開いたり閉じたりしてみる。ボールペンの窪みはまだ残っていた。この手だけが、さっきまでの自分と地続きだった。
頭の中に、声でも文字でもない何かが浮かんだ。「薬草鑑定」——それがスキルの名前だと、なぜか理解できた。意味がわからない。夢にしては五感がはっきりしすぎている。土の冷たさも、木の幹のざらつきも、遠くの鳥の声も、全部本物だった。
立ち上がり、周囲を見回した。森だ。どこまでも森が続いている。道らしきものは見当たらない。パニックになるかと思ったが、不思議と心は凪いでいた。もしかすると、壊れてしまった心身が感情の振れ幅ごと鈍くしているのかもしれない。
とにかく歩くことにした。方角もわからないまま、木々の間を縫うように進む。足元の草を踏むたびに、青い匂いが立ち上る。ふと、視界の端で何かが光った気がして足を止めた。小さな白い花をつけた草が、木の根元にひっそりと生えている。
目を向けた瞬間、頭の中に情報が流れ込んだ。
——カミツレモドキ。解熱・鎮静。花弁を煎じて服用。
薬草鑑定。これが、そういうことか。
前世で——いや、さっきまで生きていた世界で、陽介は製薬会社の営業だった。薬学部を出て、MRとして病院を回り、薬の知識は人並み以上にある。カミツレモドキという名前は知らないが、カモミールに似た成分構成だということは直感的にわかった。前世の知識と、このスキルが噛み合っている。
しゃがみ込み、花弁に指先で触れた。薄く柔らかい手触り。鼻を近づけると、甘くて少しだけ苦い香りがした。MR時代に覚えた薬効の一覧が頭の中で自動的に回り始める。解熱と鎮静——つまりこの花は、この世界における風邪薬の原料になりうる。
それがどうした、という気持ちもあった。でも、少なくとも完全な無力ではないらしい。その事実だけを胸の隅に置いて、陽介はまた歩き始めた。
森は少しずつ明るくなっていった。木々の間隔が広がり、空が見える範囲が増えていく。太陽は西に傾き始めていて、夕暮れまでそう長くないことがわかった。夜の森で一人というのは、さすがに避けたかった。
やがて、木立の向こうに煙が見えた。
細い灰色の煙が、夕空に溶けるように立ち上っている。煙があるということは、火があるということだ。火があるということは、人がいる。陽介は自然と足を速めた。
森を抜けた先に広がっていたのは、小さな村だった。石造りの家が十数軒、緩やかな丘の斜面に点在している。畑があり、柵に囲われた家畜の姿があり、洗濯物が風に揺れている。どこか東欧の田舎を思わせる、素朴で古びた集落だった。夕日が石壁を琥珀色に染め、畑の土の匂いと、どこかの家から漂う煮炊きの香りが混じり合っていた。
村の入り口に立っていると、杖をついた小柄な老婆が近づいてきた。深い皺の間から、鋭いが温かい目が陽介を見上げる。
「見ない顔だね。旅の人かい」
「……はい。道に迷って」
老婆は陽介を頭のてっぺんからつま先まで眺め、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「ここはレーゲンだよ。人口三十人のちっぽけな村さ。宿屋なんて気の利いたもんはないけどね」
陽介は言葉を探した。泊めてほしい、とも、助けてほしい、とも言えなかった。会社では取引先の医師相手に一日中喋り続けていたのに、今は一言が出てこない。ただ立ち尽くしていると、老婆はしばらく陽介の顔を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「一つだけ空き家があるよ。元は診療所だったんだけど、薬師がいなくなってからもう何年も放ったらかしでね。屋根は半分崩れてるし、雨漏りもする。それでもいいなら——」
腰に下げた紐から古びた鍵を外し、陽介の掌に載せた。
「誰も使わんから、好きにしな」
鍵は錆びていて、握ると冷たかった。陽介は「ありがとうございます」とだけ言った。声が震えていたかもしれない。老婆は何も訊かなかった。ただ踵を返しかけて、一度だけ振り向いた。
「顔色が悪いね。今夜は早く寝な」
その声は素っ気なかったが、ずいぶん久しぶりに、誰かに体を心配された気がした。
診療所は、村の外れにあった。
石壁の半分は蔦に覆われ、屋根の右側が大きく崩れている。扉は歪んで閉まりきらず、中に入ると埃の匂いが鼻を突いた。木の棚が傾き、何かの瓶が割れた跡がある。床板は所々抜けていて、奥の部屋には苔が生えていた。
それでも、壁は残っていた。崩れていない側の屋根の下なら、雨はしのげそうだった。棚の奥に、黴びてはいるが厚手の毛布が一枚あった。
陽介はそれを床に敷き、横になった。天井の隙間から、紫がかった夕空が見えた。星が一つ、瞬き始めている。
静かだった。蛍光灯の唸りも、キーボードを叩く音も、電話の着信音もない。遠くで虫が鳴いている。風が蔦を揺らしている。それだけだった。
十二年間、こんな静けさの中にいたことがなかった。朝は満員電車に揺られ、昼は取引先を回り、夜はデスクで報告書を書いた。家に帰っても、翌朝のアラームが頭の隅にあった。いつも何かに急かされていた。次の数字、次の四半期、次の目標。
ここには、何もない。
明日起きなければならない理由がない。誰にも報告しなくていい。何者でもない自分が、ただ横たわっている。
頬を涙が伝った。声は出なかった。泣いているという自覚もなかった。ただ、体が勝手に涙を流していた。十二年分の、出し損ねた何かが、静けさに触れてようやくほどけたのかもしれなかった。
——ここで、静かに暮らせたら。
それだけでいい。誰かに認められなくていい。成果を出さなくていい。何者にもならなくていい。
湿った毛布の匂いと、崩れた天井から覗く星の光。陽介は目を閉じた。異世界の最初の夜が、音もなく更けていく。
どこかで、薬草の花が風に揺れていた。