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亡国の蒼炎、再び翻る旗の下に

第2話 第2話

第2話

第2話

ep2 を執筆します。

霧が、谷あいを白く満たしていた。  その白の奥から、鉄蹄の音が一打、また一打と、刻まれてくる。  レイハルトは井戸端の冷えた地面に膝をつき、折れた佩刀の柄を握り直した。掌の汗が、革の縫い目に染みてゆく。一尺三寸の刃で、騎兵を相手にできるはずもない。それは分かっている。だが、握っていなければ、十六歳の少年の指は、ただ震え続けるだけだった。  ロドリックは既に立ち上がっていた。短刀を抜きはしない。代わりに、皺の刻まれた指で空気を切るように、谷の方角を指した。 「殿下、まだ早うござる。あの拍子は、本隊の脚ではござらぬ」 「斥候か」 「左様。十騎、いや、八騎ほどかと。蹄の鉄が薄うござる」  老臣の耳は、戦場で四十年を経たものだった。少年は無言で頷く。咽喉の奥に、粥のざらつきがまだ残っていた。籾の殻が、舌の根に微かな苦みを置いている。その苦みを舌先で転がすと、胸の奥で、まだ温かいはずの何かが、確かに脈打っているのを覚えた。  粥を差し出した女が、井戸の縁から立ち上がった。爪の間に黒い土の筋を残した手が、今は乾いた木桶を抱えている。女は二人を見、それから谷の方角を見、また二人を見た。 「逃げなされ。今すぐ」  声は低かった。叫びでも、嘆きでもなかった。ただ、籾を選り分けるときと同じ、淡々とした手つきの声だった。 「殿下のお身を、ここで埋もれさせるわけにはまいらぬ。村が燃える前に、北の沢を抜けなされ」  レイハルトは、ゆっくりと立ち上がった。膝が一度、笑った。それを老臣に見られぬよう、少年は深く息を吸った。冷えた空気が肺の奥まで届くと、ようやく、自分が今、まだ生きているという実感が、薄く戻った。 「——名を、聞かせてくれぬか」  女は一瞬、訝しげに眉を寄せた。 「マルダ。ただのマルダにございます」 「マルダ。儂は、必ず戻る」  女は答えなかった。代わりに、井戸の縁に置かれていた木椀を、土埃を払って、もう一度少年の手に握らせた。冷えた粥の残りが、椀の底にわずかに張りついていた。指の腹に、籾の殻のざらつきが、もう一度伝わった。

***

 村の長老の家、と呼ぶには簡素な、土壁の小屋だった。  囲炉裏の煤けた天井に、薪を干す縄が幾本も渡されている。その下で、ロドリックが地に枯れ枝を一本、横に置いた。 「ヴェル・モンテーヌの谷は、北東から南西へと、こう走っており申す」  枝が、土間に湿った跡を引いた。続けて、老臣は石ころを三つ、枝の南側に並べた。 「ここが村。三つの石は、それぞれ井戸、村長家、礼拝堂。村は谷底ではなく、谷の中ほどの平場にある」  レイハルトは膝をつき、その地図に顔を寄せた。掌の小石を一つ拾い、枝の北東に置く。土間の冷気が、膝頭から這い上がってきた。 「斥候は、この峠から下ってくる」 「左様。されど、馬は谷を真っ直ぐ降りられませぬ。岩肌が剥き出しの箇所が、ここに二町ほど」  ロドリックの皺の指が、枝を二度、跨いだ。その指の節は、長年の鞍擦れで歪に膨らんでいた。 「斥候は、必ず東の沢筋に迂回いたす。沢を辿れば、村の背戸に出られる。されど、沢の入り口には、樫の老木が三本、川を跨いで倒れておりまする」 「橋か」 「橋にも、罠にもなりまする」  少年は唇を噛んだ。樫の倒木を、火薬を仕込まずに罠にする術を、自分は知らぬ。だが、ロドリックの目は、その先を見ていた。  戸口で、村の長老が片足を引きずりながら入ってきた。白い髭の老人だった。耳の縁が、霜やけで黒く欠けている。 「お客人。事情は、聞き申さぬ。されど、斥候が来るのなら、村の者は山の上の岩屋へ移しまする。婆と童だけは、礼拝堂の床下に伏せさせまする」 「長老」 「お礼は要りませぬ。儂らはただ、村が燃えるのを、何度か見て参った者でござる」  老人の声は、悲嘆ではなかった。山の岩を撫でる風のように、ただ冷たく、ただ平らだった。その平らさが、かえってレイハルトの胸の底を抉った。  ロドリックが立ち上がり、深く礼を取った。レイハルトもまた、膝をついたまま頭を下げた。土の匂いが、額にまで近づいた。獣の脂と灰、人の汗と、焚き続けた薪の煙——城の謁見の間とは何一つ重ならぬ匂いの中で、少年は、王家の作法をすべて、土へと落とした。  長老が出てゆくと、ロドリックは少年に向き直った。 「殿下。斥候を、生かして帰してはなりませぬ」 「……分かっておる」 「されど、八騎を、我ら二人で討つは難うござる。樫の倒木の手前で、一騎、二騎と切り離し、沢の流れに落としまする。残りは、村の井戸まで誘い込み、囲炉裏の灰を投げ、馬の目を潰してから——」  老臣の口調は、まるで朝の祈りを諳んじるようだった。少年は、その四十年の声を、一字も漏らさず聞いた。聞きながら、初めて、自分が背負う命の数を、指で数えそうになって、慌てて手を握り込んだ。

***

 午後、斥候本隊の音は、まだ遠かった。  その代わり、東の森から、別の音が滲み出してきた。馬の鼻息ではない。革靴が落ち葉を踏む、慎重な、忍び足の音だった。  黒鋼帝国第三斥候隊、隊長カーラン。三十二歳。額に古い斜め傷を持つ、この男もまた、一介の兵卒から這い上がった者だった。彼は配下に、馬を半里手前の窪地に伏せさせ、自らは部下三人を連れ、徒歩で森を進んでいた。  カーランは知っていた。蒼漣の王子は、十六歳。城を逃げ延びたとして、徒歩でこの山道を二里。そんな少年が、まだ立てる村は、谷あいに二つしかない。一つは既に、別の隊が踏み潰した。残るは——眼下、霧の底に佇むこの集落だけだった。  部下の一人が、樫の倒木の前で足を止めた。 「隊長。これは、人為に倒されたものではないか」  カーランは木の根方を見た。倒木の根は、虫に食われ、半ば朽ちている。十年は経つ自然の倒木だった。だが、そこへ続く小道には、つい今朝方、人が枝を払った痕があった。 「進む。ただし、一人ずつだ」  部下たちは無言で頷いた。先頭の若い兵が、剣を抜き、倒木に足をかけた。  その瞬間。  倒木の影から、ロドリックの短刀が、若い兵の咽喉を貫いた。血飛沫が、霧の白に赤い線を描いた。残った三人が剣を抜くより先に、ロドリックは倒木の陰へ身を翻していた。 「散れ」  カーランが叫んだ。二人は弧を描き、倒木の左右へ展開する。  左側へ駆けた一人の前に、低い藪から、レイハルトの折れた刃が突き出された。一尺三寸の刃は、長剣の間合いを取れぬ。だが、藪を抜ける一瞬の隙、ふくらはぎの腱を狙うには、その短さがむしろ利いた。  兵が呻きを上げ、片膝をつく。少年は、咽喉を狙わなかった。狙えなかった。代わりに、もう一度、同じ箇所に刃を突き立てた。兵の声は二度目で途絶えた。レイハルトの掌に、生温かいものが伝った。それは血だった。鉄の匂いが、四月の冷気の中で、はっきりと立ち昇った。指の股を伝って、手首の内側へ、ゆっくりと滑り落ちてゆく。その温度は、自分の脈よりも、わずかに高かった。  胃の腑が、迫り上がった。粥のざらつきが、咽喉まで戻ってきた。少年は奥歯を噛み、それを呑み下した。 「殿下、退かれよ」  ロドリックの声が、樫の幹の向こうから飛んできた。少年は刃を引き抜き、後退する。残るは、隊長カーランと、最後の一人。  その時、藪の外、村の方角から、女の悲鳴が一つ、上がった。  マルダの声ではなかった。もっと若い、童に近い声だった。続けて、馬蹄。本隊の馬蹄が、予定よりも早く、谷の入り口へ到達したのだ。少なくとも、二十騎。  カーランが、口の端を釣り上げた。 「王子よ。お前の隠れる時間は、もう尽きた」

***

 森の縁で、レイハルトは振り返った。  村の方角、霧の白の奥に、薪の煙とは違う、黒い筋が一本、立ち昇り始めていた。それは、燃やされた藁の匂いだった。粥を炊く煙ではなかった。喉の奥に、籾の殻のざらつきが、また蘇った。マルダが、土埃を払って渡してくれた、あの椀の底のざらつきだった。 「ロドリック」  少年の声は、自分でも驚くほど、低かった。 「儂は、北へは逃げぬ。マルダを、長老を、童たちを、置いては逃げぬ」  老臣は、樫の倒木の上で、血のついた短刀を一度振った。雫が、苔の上に散った。 「殿下。それは、お言葉でござるか。ご決断でござるか」 「決断だ」  少年の左手は、懐の書簡を握りしめていた。封蝋は、まだ冷たい。冷たいまま、未開封のまま、まだそこにあった。リシェル——その名を、舌の上で、一度だけ転がした。指先に伝わる蝋の硬さは、彼女の白い指の冷たさと、不思議なほど似ていた。  霧が、揺らいだ。  谷の入り口から、黒鋼の二十騎が、まだ姿は見せず、ただ蹄の音だけを、確かに、この山村の心臓へ向けて、刻みつけ始めていた。

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