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亡国の蒼炎、再び翻る旗の下に

第1話 第1話

第1話

第1話

折れた佩刀の柄が、肋骨の隙間に食い込んでいた。  レイハルトは老臣ロドリックの背に揺られている。十六歳の少年の身体は、鎧を剥ぎ取られたぶん軽いはずだった。だが揺れるたびに腰の鞘が脇腹を抉り、その鈍い痛みだけが、自分はまだ生きているという唯一の証だった。 「殿下、頭をお下げくだされ」  老臣の声は、走りながらでも低く、乱れぬままだった。隠し通路の天井は低く、松明もない。煤と血の匂いが充満する闇の中を、ロドリックは六十を越えた足で駆けていた。  頭上の石組みが、どん、と鳴る。城の上層が崩れたのだ。父王の謁見の間か、それとも母后の私室か——分からぬまま、また一段、玉座のあった世界が遠ざかってゆく。  蒼漣王国、首都ラ・ロワーヌ陥落の夜。北方の覇者・黒鋼帝国が二万の鉄騎をもって雪解けの峠を越えたのは、わずか五日前のことだった。誰もが、半月は持ちこたえると見ていた。誰もが、間違っていた。 「ロドリック、母上は。妹は」  返答はなかった。代わりに老臣は膝をぐっと深く折り、最後の隠し戸に全身でぶつかった。錆びた蝶番が悲鳴を上げ、夜気が一気に流れ込む。少年の頬を切ったのは、四月だというのに刃のように冷たい山の風だった。

***

 同じ刻、玉座の間。  父王アルベリクは、燃える梁の落ちる音を背に、黄金の卓に肘を置いたまま動かなかった。 「逃げぬのですか、陛下」  最後まで残った宰相が、震える声で問うた。父王は答えず、ただ卓の上に置かれた羊皮紙の地図を、太い指でひと撫でしただけだった。蒼漣王家三百年が拓いた、湾と河と街道の絵図。 「儂が玉座を離れれば、この国は今宵で終わる。儂が玉座にあるかぎり、レイハルトの帰る場所はまだあるのだ」  宰相の頬を涙が伝った。父王は地図の北端、黒鋼帝国の旗印の上に、ゆっくりと拳を置いた。その拳は、震えてはいなかった。  同じ刻、北翼楼閣の三階。  母后マグダレナは、まだ十二歳の妹姫リネアを抱きしめ、燃え落ちる窓の縁に立っていた。下では黒鋼の兵が槍を構え、上を見上げて笑っていた。 「お母さま、わたくし、おそろしゅうございます」  妹姫の小さな手が、母の胸元の銀の鎖を強く握りしめた。母后はその手の上に己の手を重ね、ただ一言、囁いた。 「兄上に、託しましたよ」  炎が天井を舐めた刹那、二つの影は階下からは見えぬ高みへと溶けていった。

 そして、隠し通路の出口。  ロドリックは少年を背から下ろし、灌木の根方に膝をつかせた。眼下、首都の方角は赤かった。地平の半分が、ぐつぐつと煮える血のように赤かった。 「殿下、これを」  老臣の皺だらけの手が、布に包まれた小さなものを差し出した。レイハルトは無言で受け取る。中身は分かっていた。許嫁、隣国フォルテア王国の第二王女リシェルから届いた書簡だった。三日前に届き、開封する暇を与えられぬまま、戦が始まった。  封蝋には、二羽の白鳥の紋。少年の指先が、その蝋に触れる。冷たい。指の腹に残る微かな樹脂の香り。 「……今、開けてはなりませぬか」 「殿下、御身が落ち着く土地に着くまで、それは未開封のままに。あれは姫君が、殿下御自身に宛てた言葉。死人の手紙にしてはなりませぬ」  少年はその言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。ただ、書簡の重みが、折れた佩刀の柄よりも、なお重く感じられた。

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 夜が明けるまでに、二人は二里を歩いた。  辿り着いたのは、辺境ヴェル・モンテーヌの山村だった。藁葺きの屋根が二十ほど、霧の谷あいに点在している。蒼漣の王都から馬で三日の距離が、徒歩では別の世界の遠さだった。  空気の匂いが、王都とはまるで違っていた。湿った苔と、薪を焚く煙と、家畜の糞の入り混じった、土に近い匂い。露を含んだ草が脛を濡らし、絹の上衣の裾には小さな茨の棘がいくつも引っ掛かっている。少年は一歩ごとに、自分の靴音が思いのほか軽いことに驚いた。鎧を、剣を、従者を、護衛を、官名を——昨日まで自分の歩みに重さを与えていたものは、ことごとく落ちてしまったのだ。  井戸端に立った村の女が、少年を見て一瞬たじろいだ。煤と血で黒く汚れた絹の上衣、それでいて靴底だけは王家の刺繍が残っている。だが女は何も問わなかった。代わりに木椀を一つ差し出した。女の手は、節くれだち、指の関節が太く、爪の間に黒い土の筋が残っていた。手の甲には古い火傷の痕。誰かのために、毎朝かまどの前に立ち続けた手だった。 「お食べ。冷めとるけど」  粥だった。  白米ではなく、雑穀と少しの塩と、刻んだ野草の粥。レイハルトは木匙を持ち、それを口に運んだ。  舌の上で、ざらりと砕けるものがある。籾の殻が混じっているのだと、咀嚼してから気付いた。塩気は薄く、野草の青臭さが鼻に抜ける。喉を通る瞬間、奥のほうが熱を帯びた。冷めているはずの粥が、胃の腑に落ちた途端、内側から少年の身体を温めてゆく。空腹のせいか、それとも、別の何かのせいか。  ——これが。  これが、儂の民が、毎朝啜っているものか。  城の朝餉では、白磁の皿に焼きたての小麦のパン、蜂蜜、林檎の砂糖煮、香辛料を効かせた鹿の肝。あれを支えていたのは、この一椀の粥を啜る誰かの背だった。少年の指が、無意識に椀の縁を強く握った。陶の縁が、爪の白い半月に食い込んだ。  女は何も言わず、井戸の縁に腰掛け、自分の分の椀を傾けていた。同じ粥を、同じ匙で、同じ速さで。レイハルトはその横顔を盗み見て、不意に咽喉の奥が詰まった。礼を言わねばならぬ。だが「礼を言う」という王家の作法は、この瞬間、ひどく薄っぺらく感じられた。少年は深く頭を下げ、ただ「いただいた」と、それだけを呟いた。  ロドリックは少し離れた水甕の傍らに腰を下ろし、肩で息をしていた。 「ロドリック、儂はな」 「はっ」 「昨日まで王子であった。今朝は、ただこの粥を恵まれる旅人だ」  老臣は答えなかった。ただ、皺の奥の目を細めた。それは、この少年がやっと玉座から地に足を着けたことを、長年仕えた者だけに分かる、微かな誉めの色だった。  その時——。  風に乗って、低く、低く、地を這う音が届いた。蹄である。一頭、二頭、十頭ではきかない。山の稜線の向こう、東の沢筋から、確かに鉄蹄の連打が近づきつつあった。  最初は地鳴りに似ていた。それが、谷の壁に反響して、規則正しい拍へと整ってゆく。馬蹄の鉄が石を打つ音、革の鎧が擦れる音、口枷の鉄輪が鳴る音——耳の良い者なら、その奥に、低い男たちの掛け声まで聞き分けられた。少年の頬から、血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。指先が、椀の縁から滑り落ちる。  ロドリックの顔色が変わった。 「殿下、伏せられよ」  老臣は腰の短刀に手をかけ、立ち上がった。その背は、半刻前まで少年を背負って山道を駆けた背と同じだとは思えぬほど、まっすぐに伸びていた。村の女もまた、その音を聞き取ったのだろう、井戸の傍らで凍り付いている。木椀が、彼女の指から滑り、地面に転がって、薄黄色の粥が土に染み込んでゆく。  黒鋼帝国の追討隊。たった十六歳の王子の首一つに、彼らはどれだけの騎兵を割いてきたのか。  レイハルトは粥の椀を地に置いた。冷えた木椀が、こつ、と乾いた音を立てた。それは、玉座が崩れた音にも、戦鼓の最初の一打にも、よく似ていた。

***

 少年の右手が、腰の鞘に伸びた。  折れた佩刀。三尺の刃のうち、残ったのは一尺と三寸。柄の革は、父王から賜ったときのままだった。掌に馴染んだ革の縫い目、指の腹がいつも触れていた小さな擦り切れ——それらは、父の手の温度を、まだ確かに覚えていた。  左手は、懐の書簡に触れていた。封蝋は、まだ冷たい。  逃げる、という選択肢は、確かにあった。北の山道を一日駆ければ、隣国フォルテアの国境までは抜けられる。許嫁の生家。庇護を乞うべき相手。だが少年は、その方角へは目を向けなかった。  もし今、北へ駆ければ——書簡は、未開封のまま、ただの紙になる。父王の最後の言葉も、母后が託した妹の重みも、この女が差し出した一椀の粥も、すべて、自分の背中に置き去りにされる。それは「生き延びた」のではなく、「死人になった」のと同じことだった。少年は、ゆっくりと息を吐いた。白い息が、四月の冷気の中に立ち昇り、すぐに霧へと溶けた。 「ロドリック、谷の地形を教えよ。今宵までに、奴らをどこへ落とす」  老臣はわずかに目を見開き、それから深く膝を折った。 「——御意」  霧の向こうから、追討の蹄が、確かにこの山村を目指して駆けてくる。

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