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黒鉄の牙、霧を裂く

第3話 第3話

第3話

第3話

封蝋の銀の鷲を、レオン・ヴァルトは指先で割った。

廃修道院の鐘楼に風が抜け、苔むした祭壇に夕陽の最後の一筋が落ちた。革の筒から滑り出た羊皮紙は二枚。一枚は短い直筆、もう一枚は岩稜の見取り図であった。直筆の文字は太く、迷いの跡が無い。女人の筆と知ってもなお、これを書いた手が剣を握り慣れた手であろうことを、レオンは疑わなかった。

「黒鉄の牙、団長レオン・ヴァルト殿。三日後、月の昇る刻、ザリュク北稜の旧砦アルブにて、単身にてお会いしたく。エルディス・ヴェル・アルメリア」

短いほど、余白に重みのある文であった。 背後の七星が息を詰めるのが、肩越しに分かった。ジンが先に口を開いた。 「単身、と書きおったか」 「書いた」 「罠の常套でさ」グレルが両手斧の柄を握り直した。「アルブの砦は、十年前にコンラート伯の先代が落とした空き城。地形は皇女に有利、退路は一本道」 「読んでいる」レオンは二枚目の羊皮紙を石床に広げた。砦の見取り図に加え、岩稜の裏に隠された脱出口が三本、朱の細い線で記されていた。「だが、罠を仕掛ける側が、退路を地図で教えはせぬ」

使者は石段の下、外套を夕露で重くしたまま、身じろぎひとつせずに立ちつくしている。襟元の紋章を布で隠してあるのは、皇女の差配の細やかさを物語っていた。返答は明朝までと、腰の革袋を撫でて目で告げた。レオンは羊皮紙を畳み、本堂の闇に踵を返した。指先には、まだ封蝋の冷たさが残っていた。

廃修道院の屋根なき本堂で、八つの影が焚火を囲んだ。苔の絨毯の上に乾いた薪は無く、クレイが廃材の梁を割って焚き付けた。煙は空の梁を抜け、星の出始めた天に消えた。火は弱く、影ばくがゆらいだ。湿った石壁の冷気が、脛から這い上がってくる。鼻孔の奥には、苔と古い香木の名残りが、一筋の細い糸となって絡みついた。

「団長、行ってはなりませぬ」 ドナ爺が口火を切った。皺の刻まれた手の甲を、節くれだった指先で撫でながら、爺は火を見ていた。眼窩の奥の灰色の瞳が、炎の揺らぎを映して二度、瞬いた。「使者の眼は嘘をついておらぬ。だが、嘘をつかぬ使者ほど、主の罠を知らされておらぬもので」 「ジンは」 「同じ意見でさ。三月前から我らを見ていた、と使者が口を滑らせた。それが本当なら、皇女は団長の癖を知り尽くしている。会談は刃を抜くより前に、勝負のついてる場でしょう」 バルクが弓弦を指の腹で弾き、低く言った。湿気を吸った弦は、いつもより鈍い音を返した。「俺は、三月前なら覚えがある。ハルム川の渡河戦だ。あの時の敵の伏兵の動きが、妙にこちらの裏を読んでいた。前列の槍が崩れた瞬間、退路の沢に矢が刺さってきた。あれが、皇女の眼だったか」 「だろうな」レオンは火に薪を一本足した。火の粉が一筋、夜気に巻き上げられて消えた。樹脂の弾ける乾いた音が、誰かの呑み込んだ唾の音と重なった。「だが、読んだ者が、今になって首を取らずに招くのには、別の理由がある」

ヴァンが穂先を地に立てた。鉄の冷えた響きが、苔の絨毯にくぐもって沈んだ。「会いに行かれる、ということで」 「行く」 七つの目が一斉に上がった。十六のライまでが、握った膝の上で拳を強張らせた。少年の喉仏が、唾を飲み下す音と共に上下した。火の照り返しが、その細い首筋を朱に染めた。 「五日以内に、コンラートの追討軍は東の谷の橋を架け直す。それまでに、こちらは旗を立てねばならぬ。一団きりで諸侯連合と帝国の双方を敵に回す馬鹿はいねぇ。皇女が本気で戦乱を終わらせたいなら、俺たちは敵の敵だ」 「敵の敵は、味方とは限らねぇ」グレルの声は低かった。両手斧の刃を布で拭う手が、火の明かりに鈍く光った。布の端から漏れる油の匂いが、湿った夜気に重く混じった。 「だから俺一人で行く」レオンは火の向こうのグレルを見据えた。視線は揺るがず、しかし瞳の奥には、十年分の戦野の塵が沈んでいた。「俺が三日後の夜明けまでに戻らねば、お前たちは東のザイード山道を抜け、自由都市キルヴァスの裏手のバルディ伯領へ走れ。バルディは、俺に二度命を救われた借りがある。八人なら匿えるはずだ」 「団長を置いて、逃げろと」 「団長として命じる。生き残れ。十年共に死線を渡った仲間を、千枚の金貨で勘定する世だ。誰かが、その勘定を覆す側に立たねばならぬ」

火が一つ、弾けた。 ライが俯いていた顔を上げた。少年の声は、もう震えていなかった。 「俺、伴います。砦の手前まででいい。狼煙の合図役を、誰かが担がねば」 ジンが少年の肩を無言で押さえた。掌の重さが、言葉より雄弁に少年を諭した。「斥候は俺がやる。お前は爺さんの盾の影で、矢じりを磨いてろ」 ライは唇を噛み、それから頷いた。火の光が、少年の頬の擦過傷の影を深く落とした。誰も、それ以上は何も言わなかった。風が梁の隙間を鳴らし、遠い梟が一声啼いた。焚火の周りに、八人分の沈黙だけが残り、その沈黙は石壁に吸われ、星空へと薄く昇っていった。

三日目の夜、月は満ちていた。

ザリュク北稜、旧砦アルブ。十年前の戦で焼け落ちた石壁は、半ばが苔と蔓に呑まれ、残った塔の一基だけが、月光を白く照り返していた。塔の根方には、葦毛の馬が一頭、繋がれている。鞍は質素な革で、皇族の装飾は一つも見当たらなかった。馬は静かに鼻を鳴らし、首を低く垂れていた。長く待たされ慣れた、戦場の馬の佇まいであった。

レオンは外套の下に短剣のみを忍ばせ、腰の長剣は山道の岩陰に置いてきた。剣を提げて入る場ではないと、十年の戦野が告げていた。腰の軽さが、かえって心の重さを際立たせた。

塔の螺旋階段を、足音を殺さず登った。靴底が石を擦る音が、塔内に低く反響した。階を上がるごとに、夜気は冷え、石壁の苔の匂いが薄れていった。代わりに、塔の上方から微かに、鋼を磨いた油の匂いが降りてきた。三階の窓辺、月光の差し込む石の長椅子に、人影は腰掛けていた。

銀の髪が、月光と区別のつかぬ色をしていた。 歳は十九と聞いた。だが、座した影には、戦場で十年を過ごした者の重さがあった。膝には地図が広げられ、その上に皇族の象徴である短い銀杖が一本、無造作に置かれている。立ち上がりはしなかった。代わりに、こちらを見上げた。瞳は灰色だった。月光を受けても、青みを帯びぬ、雪雲の色である。

「単身でいらしたこと、感謝する」 声は低く、女人の声でありながら、号令を発し慣れた者の張りがあった。息に混じる吐息は、白く塔の冷気に溶けた。「腰の物は、岩陰に置いてこられたか」 「気づくか」 「気づく。そういう男だと、見ておりました」

レオンは長椅子の三歩手前で足を止めた。床石の継ぎ目が、靴底にかすかに伝わった。皇女の睫毛の影が、月光に縁取られて、頬の上で微かに揺れた。 「単刀直入にいこう。皇女殿下が、何故、敵国の傭兵団長を山中の廃砦に呼び寄せた」 エルディスは膝の地図を、ゆっくりと畳んだ。指の動きは丁寧で、しかし迷いがなかった。羊皮紙が擦れ合う乾いた音が、塔内の沈黙にひと筋の線を引いた。 「大陸の戦乱を、終わらせたいからだ」

月光の中で、灰色の瞳が一度だけ瞬いた。 「父は老い、兄は宮廷の鴆毒で病み、姉は嫁ぎ先の宗教国家に縛られている。アルメリアに、戦を止められる者はおらぬ。諸侯連合に至っては、戦そのものを利として食らう獣の集まりだ。コンラート伯爵は、その頭目に過ぎぬ」 「で、俺に何をさせる」 「貴殿に、コンラートの首を獲っていただきたい」

風が塔を抜けた。割れた窓の縁で、月光が震えた。皇女の銀髪が、風に一筋だけ流れた。

「その代わり——」 皇女は、初めて立ち上がった。背は思ったより低かった。だが、まっすぐに伸ばされた背筋と、揺らがぬ視線が、その低さを覆い隠していた。 「アルメリアの剣を、貴殿の旗の下に貸し申す。三千の兵、二人の将、そして、私自身を」

レオンは、即答しなかった。

銀の鷲の旗の下に、自分の旗を翻させる——それは、傭兵稼業を遥かに越える話であった。十年、戦野で背を守り合った七人の顔が、火の向こうの闇に並んで浮かんだ。グレルの斧、ジンの目、ドナ爺の皺、ライの擦過傷。コンラートの首、ガルドの首、そしてその先の、見たこともない景色。喉の奥が、ひりつくほど乾いていた。

「返答は」エルディスは静かに問うた。 「三日、もらう」 「足りるか」 「足りなくば、俺の器が、その程度だったということだ」

皇女は、初めて口元を僅かに緩めた。それは笑みと呼ぶには鋭すぎ、頷きと呼ぶには重すぎる、薄く硬い表情であった。

塔の割れ窓の外、北の地平に、新たな篝火が一つ、点った。 追討軍の先鋒が、ザリュクの北端に取り付いた合図であった。

風は、もう、東には吹いていなかった。

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