第2話
第2話
風向きは、東に変わっていた。
峠の頂で、レオン・ヴァルトは剣の柄に手を置いたまま、南の地平に揺れる銀の鷲の旗影を見据えた。距離はまだ三里。馬を駆けさせれば、半刻で届く。だが、こちらが下る山道は一本きりだった。
「団長」 ジンが片膝を地につけ、二刀の鞘で南の風向を確かめながら言った。「五十には届きませぬ。重騎の旗印じゃあねぇ、密使か斥候の類で」 「数は問題じゃねぇ」 レオンは目を細めた。「問題は、あれが俺たちの行く先を読んでいたかどうかだ」 ヴァンが穂先を斜めに倒した。「読んでいた、と思って動くしか」 ドナ爺が大盾を地に立て直した。「北は追討、南は鷲。なら、東しかありますまい」
東——岩塊と霧に閉ざされた、ザリュク山系の懐。古い地図には、廃修道院が一つきり記されている。獣道さえ細く、馬は通せぬ。それゆえに、千を超える追討軍は容易に踏み入れぬ。
「馬を捨てる」 レオンは即決した。「鞍だけ括り直して、北へ走らせろ。蹄に布を巻け」 ライが背嚢を担ぎ直し、轡を握って斜面の北側に駆けた。十六の少年は、こうした暗い細工が達者だった。鞍を空のまま縛り、藁でこさえた人形を載せ、岩を蹴らせる。追討の哨兵が見れば、まだ騎乗していると思い込む。 「死んでも追いつくな」 レオンが声をかけると、ライは一度だけ頷き、馬の尻を叩いて駆け戻った。少年の頬には、夜明け前の擦過傷がまだ赤く残っていた。指先で汗の滲んだ紐を結び直すその手つきには、もう兵卒のそれが宿っていた。三月前まで町外れの粉挽き小屋で母の味噌汁を啜っていた手であるとは、誰も信じまい。
七人と一人は、馬の影が北の岩稜に呑まれるのを見届けてから、岩塊の脇に身を投じた。日は中天に届かぬまま、霧が斜面の下から這い上がってきていた。
ザリュクの懐は、霧と苔の国だった。 標高は千を超え、空の薄さに肺が痺れる。岩の表面は黒苔にびっしりと覆われ、踏めば底が滑る。クレイが先頭を行き、短剣の柄頭で岩の節を叩き、空洞の有る無しを聞き分けた。盗賊上がりの男にしか出来ぬ芸当である。崖の中腹、苔に隠れた古い罠穴を、彼の耳は岩下の風音で聞き分けた。 「この山には、昔、密漁衆が罠を残してった」 クレイは低く言った。「俺の親父も、ここで片足を抜けねぇまま冬を越したそうだ」 ヴァンが眉を上げた。「お前さんの故郷だったか」 「故郷ってもんでもねぇ。生まれ落ちた洞窟があっただけだ」 吐く息は白く、苔の匂いに混じって、どこか遠くで凍りかけた獣の死骸の臭気がした。クレイは鼻先をひくつかせ、それから無言で進路を一尺、北へずらした。誰も理由を問わなかった。霧の合間、岩棚を渡る一行の足音は、山鳴りに紛れて消えた。
半刻の後、バルクが岩の隙に身を伏せ、耳を地につけた。 その耳は、戦場では矢の風切音を聞き分け、山ではこうして地下の足音を読む。十年前、北辺の領主に妻と幼子を焼かれてから、彼は弦を引く以外の生き方を捨てた男である。火が消えた跡で、子の小さな草鞋が一足、半ば焦げて転がっていた——その光景を、彼は今でも酒も入らぬ素面の夜に思い出した。岩に押し当てた頬の冷たさが、その夜の灰の冷たさに似ていた。 「……三十。馬を降りた弓兵が、半里の谷向こうに」 「踏まれた苔の数か」 「いや。蹄を解いた音だ。重装じゃねぇ、捜索の手筋だ」 レオンは頷き、グレルに視線を送った。両手斧のグレルは、こうした話の最中に最も無口な男である。だが、今宵の目には熔銅のような色が宿っていた。捜索の弓兵——それは十二年前、彼の故郷を焼いた敵の手筋と同じだった。 「先頭を、俺にやらせろ」グレルが斧を肩から下ろす。「谷を渡る吊り橋を一刀で落とす」 「お前はコンラートの首を見るまで死ぬな」レオンが切り捨てた。 グレルは舌打ち一つで、斧を背に戻した。歯を食いしばる音が、苔の上に小さく落ちた。
代わりに、ドナ爺が前に出た。 盾持ちの老人は、黒鉄の牙が結成された日からの古参で、誰よりも多くの戦友を看取って来た男である。元は東方諸侯の槍兵長、戦場で領主の命に背いて農民を逃がし、軍籍を失った身——という以外、本人は身の上を語らぬ。 「吊り橋の落とし方なら、儂が知っとる」 盾を背負い直し、霧の中に消えていく老人の背は、思ったよりも、まだ太かった。
二刻の後、谷の岸で、ドナ爺は橋脚の楔を二本だけ抜いた。落とすには足りぬ加減である。先行した追討軍の弓兵十二が橋の中ほどに差しかかった瞬間、ジンが矢を放ち、最後の楔を蹴り抜いた。橋板は緩やかに傾ぎ、絶望の悲鳴と共に、十二の影が霧の谷底へと滑り落ちた。声は岩壁に幾度もこだまし、やがて霧に呑まれた。最後の一人の悲鳴が一際長く尾を引き、ライは思わず耳を塞ぎかけて、それから手を下ろした。これが戦場というものだと、自分に言い聞かせる仕草だった。 追手は半里手前で足を止めた。別の橋を探さねばならぬ。一刻半の足止めである。
レオンは振り返らなかった。山中の戦は、振り返れば疲れに殺される。 さらに半日、岩棚を縫って東へ。日が西の稜線に落ちる頃、一行は地図に記された廃修道院の門前に出た。
苔むした石段の上に、人影が一つ、立っていた。
ライが先に気づき、短剣を抜きかけた。バルクの矢筈は、すでに頬骨に触れていた。 影は、こちらを見ていた。
灰色の旅外套に、雨に濡れた銀の鷲の刺繍が一つ、左肩に施されている。アルメリア帝国——大陸西半を統べる仇敵の紋章である。腰に剣はなく、手にも何も握られていない。ただ、革の筒一つを胸に抱いていた。 歳の頃は四十前後。痩せた頬に、刃のような皺が幾本か走っている。傭兵を相手にする顔ではなかった。武官の引退者、とジンは見抜いた。眼の動きが、刀傷の数を数える者のそれであった。
「黒鉄の牙、団長レオン・ヴァルト殿」 影は、よく通る声で告げた。山の風に揺るがされぬ、訓練された声だった。「使者として、参った。我が君の御直書を、お渡しする為に」 「我が君、か」レオンは剣の柄から、わずかに手を浮かせた。「アルメリアに、君主は皇帝ただ一人だろう」 「皇帝陛下ではない」 使者は、外套の襟元から革の筒を取り出し、両手で差し出した。「アルメリア帝国第三皇女、エルディス・ヴェル・アルメリア殿下より」
七人の身体に、同時に小さな緊張が走った。 帝国第三皇女エルディス——名は、知っていた。皇帝の末娘、十九にして帝国西方軍総督。自ら馬を駆り前線に立つ稀代の軍才と、敵側の傭兵団にも噂は届いていた。だが、その皇女が、なぜ、今宵、この山中の廃墟で、自分たちを待っていたのか。
「俺たちの逃げ道を、読んでいたな」 レオンは静かに言った。 使者は、目を逸らさなかった。「読んでおりました。山系の地図、罠穴の位置、七星の癖——殿下は三月前から、貴方を見ておられた」 「三月」 「貴団の陣が焼かれる前から、ということになりまする」
風が、修道院の鐘楼に残った青銅を鳴らした。割れた鐘は、低く一度だけ唸って、すぐに黙した。その余韻が消えるまで、誰も口を開かなかった。クレイが舌打ちし、グレルが斧の柄を握り直す音だけが、苔の上に落ちた。
レオンは革の筒を見た。 封蝋には、銀の鷲——昨日、南の地平に揺れていた、あの旗印と同じ獣である。 ジンが背後から低く言った。「団長。罠だ」 「分かっている」 「ガルドを越える、もっと深い罠だ」 「分かっている」
それでも、レオンは石段を一段、登った。 使者は、革の筒を差し出したまま、動かなかった。 二段目で、レオンは足を止めた。ライが息を呑む音が背中で聞こえた。バルクの弓弦が、かすかに鳴った。
「中身は、何だ」 「殿下より、お申し出が一つ」 使者は初めて、口元の皺を動かした。「曰く——大陸の戦乱を、終わらせたい、と」
レオンは革の筒を受け取った。 封蝋の鷲が、夕焼けの最後の光を受けて、鈍く赤く染まった。 東の空には、もう、星が一つ滲んでいた。
千枚の金貨で自分を売った大陸の北側。 三月前から自分を見ていたという、大陸の南側。 挟まれた峠で、剣を抜くか、封を切るか。 答えを出すのに、夜は、まだ少し足りぬようだった。
風は、変わり続けていた。