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黒鉄の牙、霧を裂く

第1話 第1話

第1話

第1話

陣幕の支柱が斬り倒され、油布が炎を吸って崩れ落ちる音を、レオン・ヴァルトは背中で聞いた。

「団長、伏せろ!」 七星の一人、弓手バルクが叫ぶより速く、レオンは腰を落として横に転がった。頭上を白刃が鳴き、いま立っていた幔幕の縄を断ち切る。寝床の側に並べていたはずの長剣は、すでに無い。誰かが宴の隙に持ち去ったのだ——十年、同じ椀から麦粥を啜った仲間の誰かが。

血の臭いは、すでに陣中に満ちていた。 南方の自由都市キルヴァス郊外、諸侯連合の駐屯地。明日、帝国本軍と最後の会戦が始まるはずの夜だった。傭兵団「黒鉄の牙」の四百はその先鋒に据えられ、団長レオンは北辺の天幕で副官ガルドと最後の作戦を詰めていた——はずだった。

ガルドの肩越しに見えた焚火の影が、十数本の矛となって殺到したのは、子の刻に変わったばかりのことだ。

「ガルド、てめぇ!」 レオンは折れた机の脚を掴み、向かってきた一人の喉笛に突き入れた。骨の砕ける手応えと共に、男の鎧の胸に縫い付けられた紋章——黒鉄の牙、自分が縫わせた紋章——が血を吐く。 副官は、こちらを見ていた。十年共に死線をくぐった男の目は、戦のあとにいつも見せていた、あの泥のように疲れた色をしていなかった。冷えていた。値踏みされる馬を見るような目だった。

「レオン。悪く思うな」 低い声が、火の粉に紛れて届いた。「お前の首には、千枚の金貨が乗っちまったんだ」

千枚——。 傭兵団長一人の首に、領地一つが買える値が付いている。意味は一つだ。明日の決戦の前に、論功行賞を惜しんだ諸侯連合が、自分たちの先鋒を屠ろうとしている。

「裏切りやがったのか」 「裏切ったのは俺じゃねぇ」ガルドの口元が薄く歪んだ。「金を払う側が、お前を要らねぇと言ってるだけだ」

問答する暇は無かった。 陣幕の外で、味方であったはずの団員の悲鳴が上がる。寝込みを襲われた者は鎧を着ける時間も無く、剣を抜けぬまま串刺しにされていく。半数が寝返り、半数が眠ったまま殺される——それが、宴の杯に毒を仕込んだ男の絵図だった。

「七星! 集まれッ!」 レオンは咆哮した。声は炎の轟きを貫き、陣の四方から応えがあった。弓手バルクの矢が、追ってきたガルド配下の額を貫いて先導する。槍手ヴァンが幕布を切り裂いて路を作り、盾持ちのドナ爺が大盾を地に立てて矢の雨を喰い止める。両手斧のグレルが柵を一撃で割り、短剣のクレイが煙の中から飛び出した刺客の脇腹を裂いた。最年少の斥候ライ——まだ十六——が地に伏せて篝火の油壺を蹴り倒し、副長格の二刀ジンが背後から迫った馬上の隊長を、片手の刀で鞍から薙ぎ落とす。十年の戦野でレオンの背を守り続けた七つの影が、火の中を縫って集まった。

「南だ。馬は捨てろ。沢を伝って崖下に降りる」 即座にジンが頷いた。多くは語らない。語る暇のある場面で、十年生き残ってきた男ではない。

血路は短かった。火は陣に伝染し、百を超す天幕の油布が次々と燃え上がり、追手の足を奪った。 背中で誰かが倒れた音がした。レオンは振り返らなかった。振り返れば、立ち止まることになる。立ち止まれば、七人とも死ぬ。 肺は熔けた鉛を吸ったように熱く、足は焚火の中を駆けたように灼けていた。それでも、走ることをやめれば、それは死だった。喉の奥で煙と血の鉄錆が絡み合い、息をするたびに胃の腑まで火傷するようだった。

崖を滑り降りる時、ライが転がり落ちて沢の水を浴びた。岩の苔は雨のあとのように滑り、足元はろくに踏ん張れない。冷水が傷口に染みて、少年は奥歯を噛んで悲鳴を殺した。岩肌に手のひらを擦り、爪が剥がれかけても、声は出さなかった。レオンはその肩を引き寄せ、自分の上着を被せた。鉄錆と汗の臭いが染みた上着の重みが、震えるライの小さな背を辛うじて押さえつけた。 「死ぬな。明日の朝までに、二里」 「……はい」 ライの声は震えていた。怯えではない。怒りだった。握り直された短剣の柄から、血か沢水か分からない雫が、ぽつりと岩の上に落ちた。レオンはそれを見届けてから、視線を進路の闇へ戻した。少年が育つには、ひどい育ち方をしている。だが今夜、その怒りだけが少年を生かす。

夜明け前の風は、煙の臭いと血の臭いを等分に運んできた。沢を二里下った先、岩陰に腰を下ろした七人と一人——黒鉄の牙、四百の生き残りが、ここに八。 誰も泣かなかった。誰も罵らなかった。バルクは黙って弓弦を指先で確かめ、ヴァンは穂先に凝った血を布で拭った。グレルは斧の刃毀れを爪の腹で撫で、クレイは短剣の柄に巻いた革紐を結び直す。それぞれの音は小さく、岩の隙間に吸い込まれていった。沢の水音だけが、生き残りの数を数えるように、絶えず鳴っていた。

レオンの懐には、混戦のさなかに陣幕の机から掴み取った一枚の羊皮紙があった。封蝋には、諸侯連合議長家の獅子。 震える指でそれを開く。

「諸侯連合議長コンラート伯爵より、傭兵団『黒鉄の牙』副官ガルド殿へ。 帝国軍との会戦に先立ち、貴殿の手にて団長レオン・ヴァルトの首級を挙げらるべし。報酬として金貨千枚、並びに南境フェルム子爵領の代官職を授ける」

短い文だった。短いほど、骨の髄まで凍る種類の文だった。

ジンが横から覗き込み、低く息を吐いた。「……明日の決戦は、最初から俺たちを死兵に使う絵図だった」 「いや」レオンは羊皮紙を握り潰した。「死兵にすらしねぇつもりだったのさ。死人に賃金は払わなくていい。論功行賞も、要らねぇ」

十年だ。 凍る塹壕で凍傷の足を切り落としたこともある。沼地で熱病に倒れた仲間を背負って三日歩いたこともある。最後の干し肉を八つに割って分けた朝もあれば、雪に半身を埋めた夜、互いの体温だけで朝を迎えたこともあった。仲間の子が初めて立った日、その父親に酒を奢った酒場の隅も、思い出せる。城壁の崩れる音の中、最後まで矢を放ち続けた仲間が、いま炎の中で焼かれている。 その全てを、コンラート伯爵は、紙切れ一枚で勘定した。

ドナ爺が低く呻くように言った。「団長。次はどうする」 七つの目がレオンを見た。十六のライまでが、剣を握り直して待っている。

レオンは羊皮紙の灰を風に散らした。 夜明けの第一光が、烟る丘の向こうから滲んだ。地平の彼方、駐屯地の方角に立ち上る黒煙が、空を二色に裂いていた。 「俺は二度と、戦友の屍の上で踊る貴族を許さねぇ。コンラートも、ガルドも、奴らに金を出した諸侯も、一人残らず舌の根まで毟る」

声に怒気は無かった。怒気を超えた、もっと冷たいものだった。 「異論のある奴は、ここで抜けろ。これは傭兵稼業じゃねぇ。仕事じゃねぇ」 誰も動かなかった。グレルが斧を肩に担ぎ直し、クレイが短剣の刃を白布で拭いただけだった。バルクは矢筒の中の本数を黙って数え、ドナ爺は大盾の縁にこびり付いた血を指の腹で擦り落とした。ヴァンは穂先を空に向け、ジンは二刀の鯉口を一度だけ鳴らした。ライは涙の跡を袖で乱暴に拭い、それから胸を張って前を見た。それが、八人の応えだった。

──同じ朝、駐屯地の本陣。 ガルドは焼け落ちた幔幕の前に立ち、灰の中から黒鉄の紋章の燃え残りを拾い上げていた。胸の内で、まだ熱が引かない。十年。あの男の背を守ってきた十年が、千枚の金貨で釣り合うかどうか、自分でも分からなかった。 ただ、釣り合わせる側に回らなければ、自分が死ぬ夜だった。それだけだった。 「……レオン。お前が悪い。お前が、強すぎたんだ」 副官は、呟いた。

南へ二里、また二里。 七人と一人は、追討軍の哨戒線を抜け、無人の峠道に入った。背後ではすでに、諸侯連合の急使が四方の領主館へ走り、レオン・ヴァルトの似顔絵を描いた高札が、街道のあらゆる辻に立ち始めている。 一万の網が、八つの影を絞り上げにかかっていた。

峠の頂で、レオンは足を止めた。 南の地平、まだ朝靄の底に沈む山並みの向こうに、見たことのない紋章の旗影が一つ、揺れていた。鷲——銀の鷲。敵国アルメリア帝国、第三皇女の旗印だと、レオンが知るのは、まだ少し先のことになる。 旗は、こちらに向かって、進んできていた。

ジンが小さく言った。「……団長。あれは」 レオンは、剣の柄に手を置いたまま、答えなかった。 答える代わりに、烟る北の空をもう一度だけ振り返り、それから南の旗影に向き直った。

風が、変わった。

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