第3話
第3話
世界が黒に塗り潰されてから、たぶん〇・三秒も経っていない。
俺の左手の薬指で、父さんの指輪が、皮膚を焼くほど熱く脈を打っている。それなのに、銀の縁を這い上がる文字めいた紋様だけは、氷の刃のように冷たい。熱と冷が、同じ場所で、同じ強さで、俺の指を挟んで叩いていた。指の関節がじん、と痺れて、爪の先まで、知らない言語で命令されているような感覚が走る。
雷牙の右拳の紫電が、止まっている。
——いや、止まっているのではない。俺の主観時間だけが、無理やり引き延ばされていた。紫の電光の輪郭が、ゆっくりと崩れていく。書き換えられている、と俺の頭のどこかが冷静に呟いた。何に。何に書き換えるんだ。
問いを立てた瞬間、答えが、皮膚の裏側から、強引に押し上げられてくる。
——花弁(はなびら)。
なぜその単語が浮かんだのかは、わからない。三歳の春、父さんと最後に行った、名前を覚えていない公園。俺の手の上に、一枚だけ落ちてきた桜の花弁。父さんの指がそれを摘まんで、俺の薬指の銀の輪に乗せた——その記憶の底で、いま指輪が、確かに反応している。記憶の中の父さんの指は、いまの俺の指より、ずっと太くて、節くれ立っていて、土の匂いがした。その指の感触が、二十年近い時間を飛び越えて、俺の薬指の付け根に、重なっている。
雷牙の紫電が、輪郭を失った。
紫が、薄紅(うすべに)に、ほどけていく。
***
「な——」
雷牙の喉から、初めて、台本にない音が漏れた。
彼の右拳の周りで、紫の電光だったはずのものが、五枚、六枚、七枚と、薄紅の花弁に変わっていく。空気の焦げる匂いが、湿ったコンクリートの匂いに混じって、ふわりと甘い、春の何かに置き換わった。錆びかけた缶コーヒーの上を、花弁の渦が一周して、俺の頬を撫で、雷牙の頬に、軽く触れる。耳の奥で、ぱちぱちと弾けていた高圧電流の音が、絹を擦り合わせるような、衣擦れに似た音に置き換わっていた。
ぱし、と乾いた音。
雷牙の頬で、薄紅の花弁が、一枚、はじけて消えた。
それだけだった。
肋骨は折れていない。心臓は止まらない。Aランクの収束雷が、Eランクの掃除当番の鳩尾に届いていたら、今ごろ俺の制服のシャツには、焼け焦げた穴が開いているはずだった。それが、桜の花弁が雷牙の頬を撫でただけで、終わった。
「は——?」
坊主刈りの男のスマホが、コンクリートに落ちた。撮影中の赤い丸が、レンズを上に向けたまま、まだ点滅を続けている。眼鏡の男が、自分の手のひらを、何度か握ったり開いたりしていた。彼の空気の圧縮は、起動しない。起動しようとした瞬間に、たぶん、別の何かに上書きされている。彼の口が、ぱくり、と一度開いて、何か呪文めいた音節を吐き出しかけて、そのまま唾液だけを呑み込んだ。
——上書き。
その言葉だけが、俺の頭の真ん中で、ぐらりと座った。これは、俺がやっている。父さんの指輪が、俺の主観時間に黒い膜を貼って、その膜の上に「別の意味」を書き込んでいる。雷を、花弁に。痛みを、撫でるに。Aランクの収束雷を、Eランクの肌に当たっても害のないものに。
雷牙が、自分の右拳を、信じられないという顔で見つめていた。革靴の縫い目に、いつの間にか、薄紅の花弁が一枚、挟まっている。
「お前——なんだ、それ」
雷牙の声が、震えていた。半年間、毎週のように俺を踏みつけてきた靴の主とは思えないほど、語尾が、子供じみて掠れている。
「Eランクの——お前の——なんで——」
紫電を纏った右拳が、もう一度、振り上げられかけて、止まった。彼の右手の指先が、彼自身の意思に反して、ぱし、ぱし、と、花弁を一枚ずつ吐き出していた。Aランクの霊力が、Aランクの体の中で、勝手に書き換えられ続けている。指の腹から零れ落ちた花弁は、コンクリートに触れる前に、ふっと消えて、あとには、桜の樹皮を擦ったような、わずかな匂いだけが残った。
鼻の奥で、何か、温かいものが垂れた。
鼻血だった。指輪のある左手で拭うと、銀の輪に、赤が一筋、こびりつく。指輪の温度が、ようやく俺の体温と同じところまで降りてきた。視界の黒い膜が、薄れていく。世界の色彩が、戻ってくる。蛍光灯の白さも、雷牙の制服の濃紺も、潰れた弁当箱のアルミの鈍い銀色も、全部、いつもより一段だけ、彩度が高く見えた。
「お、おい——」
眼鏡の男が、雷牙の肩を引いた。坊主刈りも、スマホを拾うことすら忘れて、後ずさっている。
雷牙は、自分の右拳から、まだ一枚、また一枚と零れていく花弁を、呆然と見ていた。それから、俺の顔を見た。Eランクの掃除当番の顔を、彼はたぶん、生まれて初めて、ちゃんと見た。瞳の奥に、怒りでも侮蔑でもない、知らないものを見るときの、薄い怯えが揺れていた。
「……今日のところは」
雷牙の喉が、無理やり、台詞を絞り出した。
「今日のところは、引いてやる」
引いてやる、ではなかった。引かざるを得ないのだと、俺にも、彼にも、それはわかっていた。
三人の足音が、非常階段の鉄扉の向こうへ消えていく。坊主刈りのスマホだけが、レンズを上に向けたまま、コンクリートの上に取り残されていた。撮影中の赤い丸が、まだ点滅している。
***
足音が完全に消えてから、俺は、ようやく膝をついた。
潰れた弁当箱の隣に、白い犬の絵のしおりが、一緒に転がっていた。ひなたが昨夜、「兄ちゃんが落ち込んだとき用」と言って俺の絵本に挟んだやつだ。俺は左手の指で摘まんだ。父さんの指輪が、しおりの紙に、赤い指紋を一つ残した。妹のへたくそな犬の絵の、片耳の上に、ちょうど血の丸が一つ、咲いた。
「——見事ね」
頭上から、声が落ちてきた。
非常階段の二階の踊り場から、屋上へ続く鉄階段の途中。逆光の中に、白い腕章をつけた女子生徒が立っていた。風紀委員長、二年A組、氷室ユキ。学年首席、Aランク序列三位、属性は氷結。革靴の踵が、鉄階段の段を、こつ、と一度だけ鳴らした。その一音だけで、踊り場の温度が、二度ほど下がった気がした。
彼女は、いつから、ここにいたのか。
「何を——どこから、見て」
「全部」
氷室の声は、属性そのままに、温度が低かった。低いのに、なぜか、責められている感じはしない。むしろ、長い間ずっと探していたものを、ようやく見つけた人間の声に、近かった。
彼女は鉄階段を、一段ずつ降りてくる。革靴の踵が、コンクリートに触れる音が、やけにはっきり耳に届いた。俺の前まで来ると、制服の内ポケットから、白い封筒を一枚取り出す。封蝋の代わりに、銀の細い線で、見たことのない紋章が描かれていた。父さんの指輪の銀と、寸分違わぬ色だった。指輪が、薬指の付け根で、ほんの一瞬、答えるように、こく、と脈を打った。
「九条悠真」
氷室は、俺の名前を、フルネームで呼んだ。Eランクの掃除当番ではなく、九条悠真、と。
「地下三階、第零席(ゼロセキ)」
彼女は封筒を、俺の左手——指輪のある側の薬指の付け根に、そっと押し付けた。指先が触れた一瞬、彼女の体温の冷たさが、銀の輪を通り抜けて、骨の中まで届いた。
「今夜、十九時。お父様の話を、聞きに来なさい」
俺の喉が、勝手に動いた。
「父さんは、なんで死んだんですか」
氷室は、もう鉄扉のノブに手をかけていた。振り返らずに、低い声で答えた。
「殺された、のよ。記録に残っているのとは、違う形で」
鉄扉が、閉まった。
***
封筒の表に、宛名はない。裏返すと、銀の紋章の下に、たった一行、万年筆の細い文字で、こう書かれていた。
『慎吾の遺産、回収の時。』
学園の名簿には、九条慎吾は病死としか記録されていない。母さんも、一度も、父さんがどう死んだかを話さなかった。それを知っている人間が、この校舎の中に、いる。
俺は腕時計を見た。十二時五十五分。あと、六時間と五分。
立ち上がる。膝が震えていた。アルミの弁当箱を拾って、潰れた蓋を、もう一度指で押し戻す。やっぱり、直らない。鞄に詰め直して、肩紐の切れた部分を、結び目で繋いだ。
地下三階。鳳凰学園の校舎案内図に、そんな階は、存在しないはずだった。父さんの指輪が、薬指の付け根で、招待状の銀紋章に応えるように、もう一度だけ、静かに脈を打った。