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概念上書のEランク

第2話 第2話

第2話

第2話

朝のホームルームが、生まれて初めて短く感じた。

机の天板に左手を置いて、薬指の銀の指輪を右の親指の腹で押さえる。体温よりわずかに冷たい感触は、いつもの通りだ。それなのに、肋骨の内側で心臓だけが、勝手に走り出していた。

二時間目の英語、三時間目の世界史、四時間目の異能学概論。教科書の文字を目で追っているはずなのに、視界の隅では、桐生の上履きの白いゴムだけが、何度も再生された。動画は消す、と昨日の俺は確かに言った。けれど取り巻きは、消すとは答えていない。たぶん、もう投稿されている。家に帰れば、ひなたの友達のお兄ちゃんがそれを観るかもしれない。

四時間目のチャイムから、昼休みのチャイムまで、五分の休み時間しかなかった。

「九条、お前——」

廊下に出た俺の背中に、クラスメイトの誰かが何か言いかけて、結局言わなかった。Eランクの「掃除当番」が、Bランクに呼ばれて非常階段裏へ向かう。それを止めれば、止めた人間の格まで下がる。そういう仕組みで動いている学園だ。

俺は、鞄の肩紐を握り直した。中で、アルミの弁当箱が、潰れた蓋のままかちかちと鳴る。今朝、ひなたは「兄ちゃん、今日のは焦げてないよ」と踏み台の上で胸を張った。卵焼きの匂いが、内布に染みている。塩は、たぶんまた多めだ。妹は、塩の分量だけは、まだ覚えきれていない。それでも毎朝、五時半に起きてフライパンを握っている。母さんが入院してから、もう三年になる。

非常階段は、北棟の一番奥、第二体育館へ抜ける渡り廊下の死角にある。霊力センサーの設置範囲外。教師の巡回ルートからも外れている。校舎の白い廊下を歩きながら、俺は薬指の指輪を、靴の音に合わせてもう一度撫でた。父さんの形見は、今日も体温より冷たいまま、ただ俺の指にあった。

***

最初に鼻についたのは、陽の差さないコンクリートの湿った匂いだった。錆びかけた缶コーヒーが、隅で転がったまま、誰にも拾われずにいる。天井の蛍光灯は片方が切れていて、もう片方が、不規則な間隔で瞬いていた。瞬くたびに、壁の落書きが、見えたり消えたりした。

三人。

桐生は、いなかった。代わりに立っていたのは、上履きの真ん中に金線が一本入った、Aランクの三人だった。

「やあ、悠真くん。来てくれたんだね」

中央の男が、革靴に履き替えた爪先で、コンクリートを軽く叩いた。神楽坂雷牙。Aランク序列七位、紫電の使い手。昨日、俺の弁当箱を踏んだ革靴と、同じ縫い目の靴だった。両脇には、見覚えのない二人。一人は背の高い坊主刈りで、霊力タグはAランク・赤。たぶん炎使い。もう一人は眼鏡の細身で、こちらもAランク・銀。重力か、空気の圧縮か、その辺りの厄介な属性だ。

「桐生は」

「ああ、桐生? あいつはBランクだ。Bランクが、Eランクをわざわざ呼び出して制裁する? 格が下がるだろう」

雷牙が笑った。両脇の二人も、同じ角度で口角を上げた。揃えて練習でもしたかのような、寸分の狂いもない笑い方だった。

「動画は、もう消したよ。代わりに、こっちで撮り直す」

雷牙が顎をしゃくると、坊主刈りの男が、自分のスマホを掲げて録画を始めた。撮影中を示す赤い丸が、俺の制服の胸ポケットの黄色いタグを画面に収めた。

「Eランク、九条悠真。後輩を救ったヒーロー、撮影開始」

雷牙の声は穏やかだった。穏やかだから、余計に冷たかった。穏やかさを、武器として使い慣れている人間の声だ。

「俺に、何の用ですか」

俺の声は、自分でも驚くほど震えなかった。震えなかったのではない、震える余裕が、たぶんもう残っていなかった。

「教育、かな。Eランクが、Bランクの取り巻きに口を出した。これを放っておくと、学園の格付けが緩む。俺は、緩むのが嫌いなんだ」

雷牙の右手の指先で、紫の電光が、ぱちんと小さく弾けた。Aランクの霊力収束音は、Bランクのそれとは、空気の質感が違う。耳の奥の鼓膜の、その奥の骨まで、音が直接届く。歯の根が、勝手に噛み合わないほど震えた。

「鞄、降ろせよ」

眼鏡の男が言った。俺は、降ろさなかった。

降ろさなかった、というよりは、降ろし方を忘れた。

眼鏡の男が、俺の鞄の肩紐を、自分の指で軽く弾いた。それだけで、肩紐がぷつん、と切れた。空気の圧縮、か。鞄が、コンクリートの床に叩きつけられた瞬間、留め具が外れて、中身が散らばった。教科書、シャープペン、ひなたが昨夜貸してくれた絵本のしおり——白い犬の絵が描かれた、お気に入りのやつ——が、灰色の床の上に、ばらばらと並んだ。

アルミの弁当箱が、蓋を半分外したまま、雷牙の革靴の真ん前に転がった。

「ああ」

雷牙の革靴が、ゆっくりと、持ち上がった。

「待——」

俺の口が、言葉を最後まで言い切る前に、雷牙の革靴の底が、弁当箱を踏みつけた。

ぐしゃ、という、乾いた音。

おにぎりの海苔が、潰れた米の塊にめり込んで、コンクリートの上で広がった。茶色く焦げた卵焼きの破片が、雷牙の革靴の縫い目に押し込まれた。塩の匂いが、湿ったコンクリートに混ざって、鼻の奥まで届いた。今朝、踏み台の上で両手でフライパンの柄を握っていた、ひなたの小さな影。火傷しないようにと、長すぎるエプロンの裾を引きずりながら、それでも背筋を伸ばしていたあの後ろ姿。

俺の右の掌の中で、爪が、皮膚に食い込んでいた。痛みは、不思議と、感じなかった。

***

「あー、悪い悪い。足、滑った」

雷牙は、昨日とまったく同じ台詞を、まったく同じ抑揚で言った。Aランクが、Eランクに使う、定型句のひとつだ。何度も使われすぎて、もう謝罪の意味さえ持っていない。

「弁当、自分で握ったの? Eランクは、家でも掃除当番か」

坊主刈りの男のスマホが、俺の顔と、潰れた弁当箱を、同じフレームで撮影し続けている。レンズの黒い円が、こちらの瞳の奥まで覗き込もうとしていた。

「動画、消せ」

俺の声は、震えていた。それでも、震えたまま、最後まで言い切った。

「ん? なんて?」

「動画、消せ。それと、その靴、あとで弁償しろ」

その台詞を口にした俺自身が、一番驚いていた。Eランクが、Aランクに弁償を求めた。学園の歴史の中で、たぶん前例のない発言だった。発した俺の喉の奥で、まだその言葉が、こだましていた。

雷牙の眉が、初めて、ほんの一ミリだけ動いた。両脇の二人の笑顔が、同じ角度で凍りついた。

「弁償、ねえ」

雷牙の右手が、ゆっくり、握り拳を作った。

指の関節の隙間から、紫の電光が漏れた。Bランクのそれとは、密度が違う。Aランクの収束雷、直撃すれば、Eランクの肋骨は何本か折れる。心臓は、たぶん止まらない。たぶん。

「悠真くん。俺たちは、君に格を教えに来ただけだ。君が黙って、地面に跪いて、靴を舐めて謝れば、それで終わりだった。でも、君は弁償しろと言った。だから、これは、俺の責任じゃない」

雷牙の革靴が、半歩、前に出た。革底とコンクリートが擦れる音が、耳の奥で、やけに大きく響いた。

「君の弁当箱と、同じだ。足が、滑っただけだ」

雷牙の右拳が、紫電を纏ったまま、振り上がった。狙いは、俺の鳩尾。

俺の左手の薬指で、銀の指輪が、脈を打った。

体温よりわずかに冷たかったはずの銀が、一瞬で、心臓と同じ温度になった。それから、心臓より熱くなった。父さんが、十五年前に俺の指に嵌めた指輪が、初めて、俺の心拍に合わせて鼓動を打った。指の付け根から肘へ、肘から肩へ、知らない種類の熱が、血管を逆流するように駆け上がった。

雷牙の右拳の紫電が、俺の制服のシャツを掠めた。鳩尾の、十センチ手前まで——

***

世界の色彩が、抜けた。

非常階段裏の灰色のコンクリートが、雷牙の革靴の艶が、坊主刈りの男のスマホ画面の青白い光が、眼鏡の男の細い瞳孔が、雷牙の右拳の紫電が、すべて、黒に塗り潰されていく。

色が消えるんじゃない。色が、上から書き換えられている。

俺の視界の中で、黒は色ではなかった。それは、世界の表面に貼られた薄い膜だった。その膜の上に、何かが、文字を書こうとしていた。見たことのない筆跡で、聞いたことのない言語で、それでも意味だけが、皮膚の裏側から直接俺の中へと流れ込んでくる。

書き換える、という言葉が、初めて、俺の頭の中で意味を持った。

左手の薬指、銀の指輪が、心臓よりも熱く、それでいて、俺の血よりも静かに、鼓動を打っていた。父さんの指輪が、十五年ぶりに、俺の指の上で目を覚ましていた。指輪の銀の縁から、文字とも紋様ともつかないものが、皮膚の上をゆっくりと這い上がってくる。痛みはない。ただ、自分の体が、自分のものではなくなっていく感覚だけがあった。

雷牙の右拳の紫電が、止まったまま、ゆっくりと、形を変え始めていた。

紫が、何か、別のものに、書き換わろうとしていた。

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