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概念上書のEランク

第1話 第1話

第1話

第1話

掌の真ん中が、冷えていく。

実技教室の床、白いラインで囲まれた発火試験区画。直径三メートルの円の中央で、俺は右掌を天井に向けて、左の指で発火印(イグナイト)を結んでいる。三十秒、一分、二分。額の汗だけが、こめかみを伝って首筋に落ちた。火花は、一つも灯らない。

隣の試験区画では、神楽坂雷牙の掌からすでに紫電が走り、教室の蛍光灯を細かく揺らしている。Aランク序列七位、神楽坂財閥の長男。彼の右手の電圧は、人体を貫通するのに十分な値だ。担当教官の前で、雷牙はわざとらしく印を解き、紫電を空中に散らせて見せた。

「九条、また零か」

教官の声が、呆れと諦めを混ぜて落ちてくる。私立鳳凰学園・異能科二年A組。教室の三十人が振り返らなくても、視線の温度だけは肌でわかった。Eランク認定者は学年で四人、その筆頭が俺、九条悠真だ。霊力測定値〇・〇七、学園基準の最低ラインを五年前に書き換えさせた、たった一人の生徒。

「掃除当番、今日も後ろから掃いとけよ」

雷牙が肩越しに笑い、靴底で俺の試験区画の焦げ跡を踏みつけた。連れの二人が同じ角度で口角を上げる。換気扇の音すら、Eランクには遠慮しろと言っている気がする。掌の冷気は、たぶん指先の血流が悪いだけだ。霊力以前に、温度の問題だ——そう自分に言い聞かせて、俺は印を解いた。掌に残ったのは、白く湿った汗だけだった。

それでも俺は、左の薬指を、右の親指でそっと押さえた。指の付け根の、銀の指輪。父さんの形見の冷たい感触が、教室で唯一、俺の輪郭を保っていた。

***

鞄の底で、妹の弁当箱が小さく鳴った。アルミの蓋が、椅子の動きに合わせてかちかちと擦れている。

今朝、ひなたが「兄ちゃん、卵焼きちょっと焦げた」と申し訳なさそうに差し出した、四百二十円分のおかず。母さんがダブルワークから帰ってこられない金曜日、小学六年の妹が一人で握ったおにぎりが二つ。塩は、たぶん多めだ。あの子はいつも、塩を多めに入れる。茶色く焦げた卵焼きの匂いが、鞄の内布にまだ残っている。

今朝、ひなたは台所の踏み台の上で、フライパンの柄を両手で握っていた。ガスの火を使うのを母さんは禁じている、けれど母さんは深夜便のシフトから帰ってこられなかった。塩を多めに入れる癖は、母さんの味付けを真似ようとして、加減を覚える前に止まったままの癖だ。アルミの蓋ににじむ油の匂いは、嗅ぐたびに、昨日まで生きていた家の輪郭を俺に思い出させた。妹の前で味を確かめたとき、俺は焦げた卵を「うまい」と言った。ひなたの顔が、ほんの一瞬だけ崩れて、それから笑った。

俺は薬指の指輪を、机の下で一度だけ撫でた。父さんの形見の銀の指輪。出力ゼロ、霊力反応ゼロ、学園のセンサーには「ただの装身具」と記録されている。それでも、体温よりわずかに冷たい銀の感触だけが、この教室で唯一、俺を俺と確認させてくれる物だった。

父・九条慎吾は、俺が三歳のときに死んだ。母さんは父の話を一度もしない。学園の記録では、父は十五年前に現役を引退、三年後に病死。Eランクの息子に残ったのは、奨学金の申請書類と、サイズの合わない指輪が一つ。それだけだ。

父さんがどんな霊力を扱う異能者だったのか、母さんも、学園の名簿も、俺には教えてくれなかった。ただ、葬儀の写真の中で父さんが嵌めていた指輪と、いま俺の薬指にある指輪の銀の光だけが、同じ角度で同じ翳りを返していた。サイズが合わないのは、父さんが死ぬ前に指が痩せていたからだと、母さんは一度だけ呟いた。それから二度と、その話はしなかった。仏壇の写真立ての裏には、俺が見つけてはいけない手紙があるような気が、ずっとしている。

授業終了のチャイム。試験区画の白線を踏み越えたとき、雷牙の革靴が一歩、俺の鞄に被さった。アルミの蓋が、今度ははっきりと潰れる音を立てる。

「悪い、足が滑った」

悪びれずに通り過ぎていく背中を、俺は見送った。鞄から零れた卵焼きの黄色が、磨かれた床に押し付けられて伸びている。拳を握ったが、指輪のある左手だけは、なぜか動かなかった。

退学になれば、奨学金は打ち切られる。母さんのシフトはこれ以上増えない。ひなたの中学進学費用は、まだ何も用意できていない。それを思い出した瞬間、俺の右手は勝手に弁当箱を拾い上げ、潰れた蓋を指で押し戻していた。直らなかった。アルミの蓋には、雷牙の靴底の縫い目の形が、薄く陥没して残っていた。

教室を出る瞬間、雷牙が誰にともなく呟くのが聞こえた。「Eランクは、Eランクのまま、世の中の役に立てよ」。誰も笑わなかった。それが普通の事実だから、笑う必要がなかったのだ。

***

放課後、北棟三階の渡り廊下。通学鞄を抱え直して階段に向かったとき、ロッカー側で乾いた音がした。

バチン、と平手が頬を打つ音。続いて、上履きの底でリノリウムを擦る、複数の足音。

「もう一回言ってみろよ。誰のシマで動画撮ってんだ、って聞いてんだ」

声は知っている。Bランク、二年C組の取り巻きだ。覗き込むと、一年生の小柄な男子生徒が背中をロッカーに押し付けられ、スマホを掲げた手首を捻られていた。雷牙のフォロワーが、SNS用の煽り動画を撮っているらしい。後輩の制服のネクタイが、ねじれて喉に食い込んでいる。

後輩の頬には、もう赤い手形が腫れ始めていた。スマホの画面の中で、撮影中を示す赤い丸が、点滅を繰り返している。一年生の上履きの爪先は、誰かのつま先に踏みつけられたまま、白いゴム部分に黒い擦り傷が増え続けていた。胸ポケットの霊力タグは、Fランク。学園で最も低い、俺より下の唯一のランクだった。学年でただ一人のFランクが、二年生の取り巻き三人に囲まれて、抗議の声を出すことすら諦めている。

見て見ぬふりをすればよかった。Eランクが介入したところで、増えるのは俺の青痣だけだ。

それでも俺の足は、勝手に床を蹴っていた。父さんの葬儀の夜、母さんは仏間で一度だけ俺にこう言った。「悠真、見えてるものを、見えなかったことにしないで」。意地と呼ぶには細すぎる、けれどそれが俺の背骨の代わりだった。

「やめろよ」

声が裏返った。三人が振り返る。先頭の取り巻きが、口の端をゆっくり持ち上げる。

「お、Eランクの掃除当番が、お掃除に来たぜ」

笑い声が階段に反響した。後輩の男子生徒は、俺と目が合った瞬間、申し訳なさそうに首を横に振った。お願いだから来ないで、と顔に書いてあった。それでも俺は、彼の腕を掴んでいる取り巻きの手首を、自分の手で押さえた。

「離してやれ。動画は消せ」

「お前さあ、自分の格、わかってる?」

格、という言葉は、この学園で最も鋭い刃物になる。霊力の数値だけで、誰が誰を殴っていいかが決まり、誰が誰の名前を呼んでいいかも決まる。俺はそのルールの最下層にいて、それでも、後輩の手首から指を離すつもりはなかった。離した瞬間に、自分の中の何かが折れて、二度と立ち上がらなくなるのが、俺にはわかっていた。父さんの形見の指輪が、薬指の付け根で、いつもより重く感じた。

取り巻きの霊力が膨らんだ。空気が湿る。Bランク特有の水属性、おそらく水流刃(アクアエッジ)。俺の制服の袖口に、小さな水滴が一つ、ぶつかって弾けた。冷たい。耳の裏まで、冷たい。

「明日の昼休み、非常階段裏な。一人で来い。来なきゃ、こいつの妹の小学校、調べて行くから」

取り巻きは俺の鞄を蹴り上げ、後輩を解放した。三人は肩で笑いながら去っていく。後輩は俺に深く頭を下げ、震える指でスマホをポケットに押し込み、階段を駆け降りていった。残されたのは俺と、潰れた弁当箱と、ねじれた制服のまま乾いていく床の水滴だけだった。

水滴が、左手の薬指の指輪を、ほんの一瞬だけ濡らした。銀の指輪が、俺以外には聞こえない音で、静かに鳴った気がした。錯覚だ。錯覚であってほしかった。

***

帰りの電車の窓に、俺の顔が映る。痩せた頬、伸びかけの黒髪、Eランクの黄色いタグが胸ポケットの上で揺れている。

「兄ちゃん、おかえり」

玄関を開けると、ランドセルを背負ったままのひなたが俺を見上げた。

「弁当、潰れちゃった。ごめんな」

「えー、もったいない。明日も作るね」

俺は彼女の頭を一度撫で、自分の部屋に入って机に突っ伏した。左手の銀の指輪を、目の前にかざす。父さんが俺の指に嵌めた日のことは、なぜか今でも覚えている。

明日の昼休み、非常階段裏。指輪が、ほんの少しだけ、体温より冷たく脈を打った気がした。明日、何かが変わる。そう感じる根拠は、何一つなかった。

ただ、行かない、という選択肢だけが、最初から俺の中に無かった。

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