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観測図鑑の追放者

第3話 第3話

第3話

第3話

岩窟の空気が、もう一段、歪んだ。

ベヒモスの鼻孔を塞いだ青い膜は、最初、ただ薄く張り付いていただけに見えた。けれど、息の通り道を断たれた巨体が、慌てて頭を振った瞬間、膜は剥がれなかった。剥がれないどころか、振り回された頭の遠心力に乗って、自分から鼻先に巻き付き、首の付け根まで滑り上がった。

岩の段の壁に背を押し付けたまま、カイは目を凝らした。

青粘体の透明な体内に、白い息が筋になって吸い込まれていく。一筋、二筋。やがて筋は束になり、束は渦になった。ベヒモスの鼻孔から、肺の底にあったはずの熱気が、抜き取られるように青い膜の中へ吸い上がっていく。膜の表面を走る波紋が、急に重く、鈍くなった。透明だった体色に、薄く乳色が混じり始める。

ベヒモスが、四肢を踏み鳴らした。岩の段の天井から、土塊と苔が崩れ落ちる。蹄が壁を蹴り、岩窟全体が一拍、横に揺れた。けれど、巨体の咆哮は、もう外へ出てこなかった。喉の奥で、硫黄の匂いの息が籠もり、内側から胸郭を膨らませている。膨らむだけで、行き場を失った熱気は、皮膚の下で水蒸気のように渦を巻き、肋骨の隙間から、じわりと、青い膜の方へ流れていった。

カイの口の中に、唾が湧いた。生臭い味だった。三年前、初めてガルドの背後から大型獣の解体を見たとき、口に湧いたのと同じ味だ。あの時は呑み下せず、岩陰で胃袋を空にした。今は、舌の根に押さえ込んでいられた。視線を、青粘体から逸らす気にはなれなかった。瞬きすれば、何かを取りこぼす気がした。網膜に焼き付けておかなければ、この光景はもう二度と、自分の側には返ってこない気がした。

ベヒモスの瞳の燐光が、揺らいだ。

縦に裂けた瞳孔が、一度、ぐっと広がる。それから、急速に細った。岩の鎧のような肩が、内側から軋む音を立てた。皮膚の表面を覆う鱗の一枚一枚が、青粘体の膜に引き寄せられるように、毛羽立っていく。鱗の根元から、糸を引くように、淡い青緑の燐がほどけ出す。その燐は、空気に触れた途端、白い息と同じ筋になって、青粘体の渦の中心へ吸い込まれていった。

「呑んで、いる――?」

声が、勝手に出た。喉に貼り付いた言葉は、自分の耳にすら、自分の声と思えなかった。

掌の中で、図鑑の革表紙が、肋骨の鼓動と歩調を合わせて熱を帯びていた。表紙の脈動は、もう、図鑑の脈動なのか、自分の心臓のそれなのか、判別がつかなくなっている。指の腹に、革の繊維が一本ずつ、皮膚を内側から押し返してくるような感触があった。

頁が、捲れた。

ベヒモスの巨体が、ゆっくりと膝を折った。岩の段の入口で、四脚が崩れる。鎧のような肩が地面に当たり、岩窟の床が一拍だけ振動した。それきり、巨体は動かなくなった。

動かなくなった、というより、輪郭を失い始めていた。

毛皮の縁から、淡い蒸気のような粒子が立ち上がる。粒子は、青粘体の膜に向かって流れた。鱗が剥がれ、皮膚が薄れ、その下の筋繊維が露わになる。露わになった筋肉が、岩の床に落ちる前に、もう一度ほどけて、青い膜の内側へ吸い込まれていった。骨だけが、最後に、白い影を残した。その影も、ひと呼吸の間に、輪郭を保てなくなり、灰のように崩れて、青い膜の底へ降り積もっていく。

カイは、息を止めていた。

ベヒモスの体は、十数秒の間に、半分の体積を失っていた。岩の段の床に残るのは、ぐずぐずと崩れていく毛皮の輪郭と、岩の床に染み込む湿った跡だけだった。腐肉と硫黄の匂いは、もう薄い。代わりに、湿った苔と、微かに金気を帯びた、嗅いだことのない匂いが、青い膜の周囲に滞留し始めている。鼻の奥に、薄荷のような冷たさと、火打石を擦った後のような、乾いた香りが、交互に届いた。

青粘体は、もう掌に乗る大きさではなかった。

ベヒモスの首回りに巻き付いていた膜が、ずるりと滑り落ち、岩の床の上で、ひとつの塊に集まり直す。透明だった粒は、犬ほどの大きさに膨らんでいた。表面の波紋は、以前よりも遅く、けれど深く、ゆっくりと上下に脈打っている。

体色は、もう純粋な青ではなかった。

中心に、ベヒモスの鱗の灰がかった色が、薄く混じっている。表皮の一部が、わずかに硬質な光を帯びていた。岩の鎧の質感が、ほんの僅か、青粘体の膜の表面に転写されている。指でなぞれば、つるりとした粘膜の下に、砂利を敷いたような微細な凹凸が、確かに沈んでいるはずだった。

カイは、岩の段の中ほどで、膝を突いた。

立っていられなかった、というより、立っている理由が、急に分からなくなった。三年間、ガルドの背後で、何百匹と見送ってきた青粘体。誰の脅威にもならず、誰にも狩られなかった、地に這う透明な粒。それが、第十六層以降にしか湧かないはずの上位種を、たった今、呑み込んだ。

掌の中で、図鑑の頁が、ゆっくりと翻った。

最弱頁ではなかった。新しい頁だった。羊皮の繊維が、内側から押し上げられて、じわりと盛り上がる。墨色の文字列が、ひと文字ずつ、皮膚に文字を彫るような遅さで浮かび上がってきた。文字が現れる度に、指先に、針の先で皮膚を撫でられたような、細い痺れが走った。

『観測者所属個体・第一進化体。基礎能力――可塑、緩衝、付着、捕食同化』

その一行の下に、もう数行。

『観測対象を捕食した場合、観測蓄積に応じて当該対象の特性を獲得する。蓄積数の上限なし。観測者の視線が、本個体の成長上限を規定する』

カイは、文字列を二度、読み直した。三度目には、文字の輪郭が、滲んで見えた。涙ではなかった。瞳孔が、自分の意思を待たずに、揺れていた。

二度目に、頁の余白に、新しい一文が滲んだ。

『観測した魔物ほど、強くなる』

岩の段の段差に、カイは座り込んだ。図鑑を膝の上に開いたまま、岩の床に落ちたベヒモスの毛皮の残骸を見た。それから、その傍らで脈打つ、灰青の塊を見た。

三年。

頁の数字を、頭の中で勘定し直す。蓄積七百二十三件。最初の頁に書かれていた、青粘体の観測数。それは、孤児院の井戸端で、年下の子らが水を汲むのを見守っていた間、自分が何気なく目で追っていた魔物の数の、肌感覚と一致していた。

七百二十三件の青粘体を、自分は、ただ「見て」いた。

ガルドの背後で、戦闘の前線に立たぬまま、何百匹のゴブリンを、何十匹のオークを、何匹かのオーガを、自分は「見て」いた。それらは全て、頁の裏に、観測対象として積もっていた。

そして、観測した魔物ほど、強くなる。

カイの喉の奥から、笑いとも嗚咽ともつかぬ、短い音が漏れた。乾いた、砂利を擦り合わせるような音だった。その音を、自分の耳が拾った瞬間、肩の付け根から、背中にかけて、震えが上がった。寒さでは、なかった。

ガルドが、形見にスライムの頁だけ残した。それは、慈悲ではなかった。血と魔素で上位種を呼び寄せ、置き去りの自分にぶつけるための、嫌がらせだった。けれど、その嫌がらせの結果、ベヒモスがここに来た。ベヒモスを、青粘体が呑んだ。呑むためには、青粘体が「観測者所属個体」である必要があった。観測者所属個体になるためには、誰かが七百二十三件、青粘体を「見て」いる必要があった。

すべての伏線が、ガルドの意図しないところで、繋がっていた。

灰青の塊が、岩の床の上で、こちらを向いた。視線は、相変わらず無い。けれど、表面の波紋の中心が、確かにカイの方へ傾いている。膝の上の図鑑に、新たな頁が、ぱらりと自動で開いた。

『次の観測対象を提示せよ』

カイは、岩の段の壁に頭を預けた。湿った石の冷たさが、後頭部にじわりと伝わる。眼を閉じれば、瞼の裏に、これまで見送ってきた魔物たちの輪郭が、整然と並んで現れた。中層の毒蜥蜴。深層付近の岩鴉。第十二層の苔虫。

どれもこれも、貢献度ゼロの欄に折り畳まれていた、自分の七年だった。

「――上に、戻る」

呟くと、灰青の塊が、ぬらりと身を起こした。

岩の段の入口は、ベヒモスの残骸で半ば塞がれていた。けれど、第十二層の上方からは、もう松明の光は差さない。ガルドたちは、自分が死んだものと信じて、上層の階段を登りきっただろう。

カイは、図鑑を抱えて、立ち上がった。膝の震えは、まだ残っていた。手首の縄痕も、肩の擦り傷も、痛みを引き戻している。けれど、岩の段の段差を一段ずつ踏み締めていく足の裏に、不思議と、迷いはなかった。

灰青の塊が、岩の床を伝って、カイの足元についてくる。湿った石を滑る音は、来た時より、わずかに重い。

第十二層の本道へ戻る裂け目の手前で、カイは一度、足を止めた。

頁の余白に、また一文が滲んでいた。

『観測対象――次層への階段、未踏。蓄積、これより』

裂け目の向こうから、岩窟の深いところで、何かが目を覚ます気配が、湿った風に乗って届いた。

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