第2話
第2話
頁の縁から滲み出した青い雫は、岩の床に落ちた瞬間、確かな輪郭を持ち始めた。
掌ほどの透明な粒。カイがこれまで何百匹と見送ってきた、あの井戸端の青粘体だった。けれど、目の前で蠢く一匹は、どこかが違っていた。表面に走る波紋が、岩の冷気ではなく、カイの呼吸に同期して震えている。
吐けば、薄く膨らむ。吸えば、わずかに縮む。
「……俺の、なのか」
掠れた声に、青粘体は応えなかった。応えなかった、というより、応える術を知らぬようだった。けれど、ぬらりと持ち上がった粒の上端が、こちらへ向かって、ほんの少し傾いだ。視線を持たぬ透明体が、確かに、カイを「見て」いた。
岩棚の窪みの天井で、土埃が崩れ落ちる。
ベヒモスが、体重を掛けて踏み込んできたのだ。岩の鎧のような肩が岩棚の縁を擦り、火花にも似た石の粒が宙を舞った。腐肉と硫黄の混じった息が、より厚く、窪みの中まで流れ込んでくる。
息を吸った瞬間、喉の奥に鉄錆の味が広がった。三年前、初めてガルドが大型獣を狩る現場に立ち会わされたときと同じ味だ。あの時は嘔吐いて足を縺れさせ、ガルドの肩越しに引きずり戻された。今は、その味を呑み下した。呑み下せた、という事実が、自分でも信じられなかった。
カイは図鑑を抱え直した。革表紙の脈動が、肋骨の内側まで響く。指先に灯った熱は消えていない。むしろ、ベヒモスが近付くごとに、温度を増していた。革の繊維の一本一本が、小さな鼓動を持ったかのようで、掌の皮膚との境目が曖昧に溶けていく。図鑑の重さが、急に半分になったように感じた。
頁が、再び勝手に翻った。
最弱頁ではなかった。中ほどの、まだ書きかけの頁。重い羊皮の上に、墨色の文字列が、内側から押し上げられるように滲み浮かぶ。
『観測対象――黒鎧獣。蓄積三件。捕獲可能種:観測中』
「観測中、だと――」
その文字列の意味を考える時間は、与えられなかった。
ベヒモスが、岩棚の縁を蹄で叩き割った。岩塊が落下し、カイの肩を掠めて谷底へ消える。窪みの天井が、目に見えてたわんでいた。一突きで、この隠れ場所は崩れる。
逃げ場は、横手の岩の裂け目だけだった。
カイは図鑑を胸に抱き、青粘体を掬い上げた。掌に乗った重さは、水袋を半分注いだほどしかない。けれど、跳ねもしなければ零れもしない。指の間に絡む薄い膜が、確かにカイの皮膚に乗ろうとしている感触で、ぴたりと収まった。冷たくも温かくもなく、ただ、自分の体温と寸分違わぬ温度で馴染んでくる。掌の感覚が一段、鋭敏になったような錯覚さえあった。
裂け目に身体を捻じ込む。
岩の角が、肩の縫い目を引き裂いた。皮の下を石が削る痛みが、鎖骨から肘まで一直線に走る。背中の汗が、たちまち冷えていく。耳元で、ベヒモスの咆哮が再び岩窟を揺らした。喉の奥から押し出される低音が、内臓を直接揺すぶってきた。胃袋の底が、波を打つようにせり上がる。歯の根が合わず、舌先で奥歯を噛み締めて、ようやく顎の震えを抑えた。
裂け目の奥は、思いのほか深かった。
三歩進むと、足元が階段状の段差になっていた。誰も降りた形跡のない、湿った石の段。苔は薄く、岩の地肌が剥き出しになっている。第十二層の壁の裏側に、こんな下り口があるなど、地図にも口伝にも残されてはいなかった。
カイは段の中ほどで足を止めた。背後の裂け目から、ベヒモスの蹄が岩を蹴る音が近付いてくる。鼻孔が裂け目の入口に押し込まれ、白い息が背中まで届いていた。
「観測中、って何だ」
掌の青粘体に話しかけている自分に、半ば呆れた。けれど、応える者は他にいなかった。
頁が、また翻った。指の腹で押さえた表紙の下で、紙が独りでに捲れていく。最弱頁の隣、二つ目の頁が開いた。
『青粘体・観測者所属個体。基礎能力――可塑、緩衝、付着』
短い記述の下に、もう一行。
『現段階、上位種との戦闘は推奨されない』
「だろうな」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。三年間、ガルドの背中に隠れて、強敵の前で震え続けてきた喉が、今は妙に静かに音を出している。
奇妙だった。膝は確かに笑っている。指先は痺れて感覚が遠い。それなのに、声帯だけが、まるで別の生き物のように、平らな音だけを吐き出していた。恐怖が消えたのではない。恐怖の上に、もう一枚、薄い膜のような何かが張った――あの、青粘体の表皮に似た、透き通った膜が。膜の向こう側で、自分の心臓が遠く脈打っている。痛みも震えも、確かにそこに在るのに、誰か他人のものを覗き込むように、一拍だけ遅れて届いてくる。
ベヒモスの蹄が、裂け目の入口で岩を踏み砕く。白い息の温度が、首筋を撫でた。腐肉の匂いが、もう、自分の汗の匂いと混ざり始めている。
カイは、段差を後ろ向きに降りた。
掌の青粘体を、岩肌の窪みに置く。粘体は、置かれた場所から動かなかった。動かないというより、置いた指の形をなぞるように、自分から薄く広がって、岩の凹凸に張り付いていた。
「ここで、待て」
命令の言葉ではなかった。命令する権利が自分にあるとも思えなかった。けれど、青粘体の表面に走る波紋が、ぴくりと止まり、それから、ゆっくりと、肯くような上下動を一度だけ刻んだ。その一拍を見届けた瞬間、カイの胸の奥で、誰かに初めて頷き返された記憶が、不意に灯った。
裂け目の奥から、岩が崩れる轟音が来た。
ベヒモスが、ついに体当たりで裂け目を抉じ開けたのだ。岩の破片が雨のように降り、カイは段の壁に背を押し付けた。図鑑の表紙が、肋骨の前で熱を増している。
頁が、また勝手に翻る。
『観測対象――黒鎧獣。蓄積四件。観測継続中』
蓄積、と再び書かれた数字が、ひとつ増えていた。三件が、四件に。今、目の前で、生きたベヒモスを直視したことが、そのまま頁の裏側に積もったのだ。
「――そういう、ことか」
カイの口が、勝手に動いた。
見ること。それだけが、自分のスキルの根だった。三年間、ガルドの背中越しに見つめ続けた魔物たち、井戸の脇で見送った青粘体、孤児院の柱に止まっていた羽虫の翅の筋――そのすべてが、頁の裏に蓄積され、今、観測対象として、並べ替えられている。
胸の奥で、何かが熱く逆流した。あの日、教会の鑑定盤の前で、神官が眉根を寄せて「最弱」と言い渡した瞬間。ガルドが、口を引き結んで頷いた瞬間。孤児院の年下の子らが、目を逸らした瞬間。それらすべてが、見られていた自分の側ではなく、見ていた自分の側の記録として、今、革表紙の裏側に折り畳まれていることに、ようやく気付いた。最弱の烙印は、観測者の烙印だった。同じ言葉の、裏と表だった。喉の奥でひと粒、熱い塊が解けて、視界の縁が一瞬、にじんで揺れる。それでも、瞬きはしなかった。瞬きをした瞬間、目の前のベヒモスの輪郭が、頁から零れ落ちる気がしたからだ。
捕獲、という言葉。使役可能、という言葉。
その二つが、自分の中で、ようやく繋がりかけた。
ベヒモスが、岩の段の入口へ、巨体を捻じ込んできた。鼻先が、段の天井を擦り、岩屑が頭から降ってくる。瞳孔の縦割れが、燐光を帯びて、こちらを正面から捉えた。
カイは、岩肌に張り付いた青粘体を見た。
たった一匹の、最弱の透明な粒。
けれど、頁には書かれていた。可塑、緩衝、付着――三つの言葉が、カイの頭の中で、奇妙な戦術図に組み変わっていく。
可塑は、形を変える。緩衝は、衝撃を吸う。付着は、離れない。組み合わせれば――息の出口を、塞げる。
「青粘体」
呼びかけた。声に、震えはなかった。
「あの鼻先に、張り付け」
岩肌の青粘体が、ぬらりと身を起こした。
掌に収まっていたはずの体積が、岩の凹凸を伝って薄く広がり、そのまま、ベヒモスの突き出した鼻先めがけて、跳んだ。粒の小ささからは想像できない跳躍だった。湿った石を蹴る微かな水音が、岩の段に短く反響した。
ベヒモスの鼻孔の上に、青い膜が貼り付く。
最初、ベヒモスは何が起きたのか理解しなかった。蹄を一度、空踏みする。次の瞬間、白い息が、青粘体の膜に押し戻された。鼻孔を塞がれた呼吸が、内側から壁に当たって、巨体の胸の中で行き場を失う。
ベヒモスが咆哮を上げようとして、咆哮は出なかった。
代わりに、岩窟の空気が、ぐらりと歪んだ。
青粘体の透明な体内に、ベヒモスの白い息が吸い込まれていく。それだけではなかった。鼻先の毛、鱗の欠片、皮膚の表面――微かな粒子が、青粘体の膜の中へ、一つ、また一つと、引きずり込まれていく。
カイの掌の中で、図鑑の頁が、再び滲んだ。
『観測対象――黒鎧獣。蓄積、更新中』
数字の欄は、もう、文字に追いつかなくなっていた。