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観測図鑑の追放者

第1話 第1話

第1話

第1話

第十二層の縁に膝を突かされたとき、カイの掌に最初に伝わったのは、苔の表面に滲んだ冷たい水気だった。

罠の縄が手首に食い込み、皮が薄く裂けている。鉄錆びた血の味を奥歯で噛み締めながら、カイは顔を上げた。仲間だった四人が、松明の光を背に立っている。

「貢献度ゼロ。三年仕えて、お前が稼いだ魔石はゼロだ」

銀翼のリーダー、ガルドが口の端だけで笑っていた。腰には、昨日カイが磨いた長剣がぶら下がっている。

「荷物持ちは、最後にちゃんと荷物を運んでくれよ」

ガルドが顎をしゃくる。後ろの女魔導師が、カイの背嚢から黒革の本を引きずり出した。表紙の角が擦り切れた、ありふれた造本。けれど、カイにとって唯一の財産だった。

『モンスター図鑑』。

スキルとして発現したのが十二歳。それから七年、魔物を見るたびに、頁が勝手に一枚ずつ増えてきた本である。鑑定スキルの劣化品。誰もがそう信じ、カイ自身も信じてきた。

「形見にスライムの頁だけ残してやる」

ガルドが本を捲り、最初の数頁を乱暴に引き千切った。残った分厚い束を、彼は背後の谷へ放った。

紙の擦れる音、頁の翻る乾いた響き、それから、闇の底へ落ちて消える微かな衝突音。カイは喉の奥で何かを呑み込んだ。叫び声か、嗚咽か、自分でも判別できなかった。

「達者でな、荷物持ち」

四人の松明が階段を上がっていく。光は二十秒ほどで消え、第十二層の岩窟には湿った闇だけが残された。

カイは膝を立てた。手首の縄を歯で解き、振り返る。背後には、三歩進めば足下が消える断崖。下り階段の刻まれていない、地図上では「未踏」と記された谷だった。

谷から這い上がる風が、首筋の汗を撫でる。鼻の奥に、土と古い水の匂い。耳を澄ますと、ずっと下の方で、滴がどこかの石に落ちる音が、不規則な拍で続いていた。

「……死ぬのか、俺」

声に出してみると、声帯が思ったより掠れていた。三日前に水筒を取り上げられて以来、ろくに水を飲んでいない。

三年。荷物持ちとして銀翼に拾われてから三年だ。最初の年、ガルドはカイの肩を叩き、お前は俺たちの目になれ、と言った。十六歳だった自分は本気でそれを信じた。だから、見た魔物の特徴を全て覚えた。鱗の色、鳴き声、巣の構造、糞の匂い、毛並みの撥水、瞳孔の縦割れの幅――見えるものは何でも、図鑑に書き留めた。

書き留めた、というより、見つめるだけで頁は勝手に増えた。それがスキルだった。けれど、その情報を仲間に渡したことは、結局ほとんどなかった。

「鑑定屋なら街にいくらでもいる」

ガルドはそう言って、戦闘の前線にカイを立たせなかった。背嚢を運び、湯を沸かし、屍を漁り、夜は見張りに立つ。それが三年。気付けば剣を抜く機会は失われ、貢献度の欄には、ゼロの判子だけが捺され続けていた。

カイは断崖の縁を覗き込んだ。垂直に近い岩肌が、十数メートル下まで続いて、その先は闇に呑まれている。よく見ると、岩肌の中ほどに、細い棚のような出っ張りが横へ伸びていた。

そこに、図鑑が引っ掛かっている。

ぼろぼろの黒革の表紙が、苔生した岩の縁で、辛うじて頁を広げて止まっていた。風が吹けば、もう一押しで谷底へ落ちる。

体は動いていた。

擦り傷の疼く手首を岩の角に押し当て、足の裏で岩の節を探りながら、カイは岩肌に身体を貼り付けた。落ちれば死ぬ。それは分かっている。けれど、図鑑のない上層へ戻ったところで、何が残るのかも分からなかった。

苔は意外に滑らない。岩は冷たい。指の腹が、湿った石の凹凸を一つずつ確かめていく。岩屑が一粒、頬を擦って下へ消えた。

音は、聞こえなかった。落ちた石が底に届く前に、闇が音そのものを呑んだのだ。膝が震えた。腿の筋が、つま先で岩の節を支えるたびに、細かく痙攣する。手首の縄痕に、今頃になって熱を持った痛みが戻ってきていた。息を吐くと、自分の吐息が岩の壁に跳ね返って、すぐ目の前で湿った膜のように残る。吸えば、苔と、鉄錆と、自分の脂汗の匂い。落ちるな、と心の中で繰り返した。落ちるな。落ちるな。けれど、その内側のどこかで、もう半分諦めている自分の声も聞こえた。三年。たった一冊の本のために、三年分の命を、今、岩肌に賭けている。

棚に手が届いた。

爪の中まで土が食い込んでいた。カイは、震える指で図鑑を引き寄せた。

掌に乗せた瞬間、紙の重みに、わずかな脈動が混じった。

最初は錯覚だと思った。けれど、表紙を開いた指先に、確かに熱が灯った。低い熱だ。風邪を引きかけた皮膚の、表面だけが妙に熱い、あの感覚に近い。

頁の文字が、滲んだ。

カイの目の前で、手書きとも印字ともつかぬ細かい文字列が、墨を吸い直すように濃く浮き上がってくる。最初の頁、最弱種「青粘体」の項。十年前、孤児院の井戸の脇で初めて見たスライムの頁だ。

そこに、見覚えのない一行が、新たに書き加えられていく。

『観測対象――蓄積七百二十三件。捕獲可能種:観測中』

「捕獲――?」

声が掠れた。

七百二十三、という数字に、心臓が一度大きく跳ねた。それは、カイがこの三年間で、何気なく目にしてきた魔物の総数と、肌感覚として一致しすぎていた。記録した自覚すらない、毛皮の繊維の角度や、爪の磨耗の癖まで――そういう細部が、全て頁の裏に積もっているのだとしたら。

カイは息を止めた。貢献度ゼロと判を捺され続けたあの欄。誰にも顧みられなかった七年分の視線が、今、自分の掌の中で、確かな重さに変わろうとしている。指先に灯った熱は、骨の芯まで静かに沁み込んでいった。それは、誇りでも、復讐でもなく、ただ、見ていたことを誰かに認められたような、奇妙に静かな安堵だった。

そのとき、頭上で岩が崩れた。

土塊と、もっと大きなものの体重で岩棚が震える。カイは咄嗟に図鑑を抱え込み、棚の下の窪みへ身を捻じ込んだ。岩の割れ目から、上方を見上げる。

第十二層の天井に、のしりと、巨大な影が現れていた。

牛のような頭、岩の鎧のような肩。四本の脚それぞれが、カイの胴ほどある。鼻孔から噴き出した白い息が、松明もなく仄暗い空間に薄く滞留した。

ベヒモス。

第十六層以降にしか湧かないはずの、上位種だった。

ガルドの言葉が、唐突に蘇る。形見にスライムの頁だけ残してやる――。それは、形見でも、慈悲でもなかった。図鑑の頁を引き千切って撒いたのは、血の匂いと魔素の残滓で上位種を呼び寄せ、置き去りの自分にぶつけるためだったのだ。

ベヒモスの瞳が、岩棚の窪みを覗き込んだ。

瞳孔は縦に裂け、燐光のような淡い緑を帯びていた。鼻先から漂う息は、腐肉と硫黄の混じった、嗅いだことのない厚みの匂いで、岩窟の湿気をどろりと押し退けてきた。三年間、ガルドの背に隠れて遠くから眺めていた魔物たちとは、まるで違う。図鑑の頁の中に押し込めていた死の重さが、今、初めて、自分の体ごと呑み込もうとしていた。

カイの背中が氷を呑んだように冷えた。逃げ場はない。

掌の中で、図鑑の頁が、勝手に翻った。

風はない。鼓動と同期したような、ゆるい一拍ごとに、頁が一枚ずつ捲れていく。最初の頁、青粘体。あの幼い日に井戸の脇で見た、ただの一匹のスライム。その頁の上に、新しい文字列が、薄く脈打って浮かび上がる。

『使役可能。観測者の声に応じる。』

ベヒモスの咆哮が、岩窟全体を震わせた。

カイは、自分の口が勝手に動くのを感じた。三年間、誰にも届かなかった声を、今、誰に向けて発するのかも分からないまま、彼は喉を引き絞った。

「――出てこい」

頁の表面が、内側から押し上げられた。

紙の繊維が、ぬらり、と湿る。古い羊皮が、生まれて初めて呼吸を覚えたように、表紙の上で淡く膨れた。指の隙間から、青く透明な雫が一滴、岩の床へ落ちる。

雫は、止まらなかった。

二滴、三滴。やがて流れになり、頁の縁から這い出してきたものは、もう紙ではなかった。井戸端の、あの最弱の魔物。誰の脅威にもならず、誰にも狩られなかった、地に這う透明な粒が、図鑑の頁から、確かに、滲み出していた。

ベヒモスが、四肢を岩棚へ向けて踏み出した。

カイの掌の上で、青い雫が静かに集まり始める。谷底の闇は、まだ何も語っていなかった。

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