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南風軍師録 銭で天下を獲る男

第2話 第2話

第2話

第2話

天延七年師走二十一日、燕墻砦より南へ五日の路。

馬の鬣(たてがみ)に張りついた氷の粒が、凍傑(リャオ・ジエ)の右の頬を細く打つ。左の頬は風下にあるはずなのに、こちらの方が痛んだ。風よりも先に、凍えが内側から回る年である。彼は手綱を握り直し、白い息を一度、黒鹿毛の首筋に長く吐きかけた。馬は耳を絞り、応えるように湯気を返した。男の白さと馬の白さが、ふたつの細い柱となって、雪原の朝に立ち上る。

「隊長、まだ追うてきておりまする」

馬を並べた耿(ゲン)が、振り返らずに低く言った。

凍傑も振り向かなかった。砦を出てから三度、夜営の煙の北に黒い影が一つ、いつも同じ間合いで停まっていた。三度目に至っては、影の側もこちらが気づいたと知ったらしく、わざと焚火の灯りに鞍の縁を照らさせている。漆黒の旗の縁に、銀の縫い取りが一筋見えた。中央朝廷が物見に使う旗である。盟主の薄青の文使いから半日と置かず、もう一騎が燕墻砦を覗きに来ていたわけだ。それが、こうして南下する灰狼の背を、五日のあいだ細く編むように追ってきている。

「殺さば足取りが立つ。生かさば、瑩崗まで案内せねばならぬ」

凍傑は革袋から塩漬けの梅を一粒ふくんだ。鉄の味、酸味、薄く割れる塩の粒が、奥歯の継ぎ目で軋んだ。冬旅の梅は、舌のためでも腹のためでもない。口元の感覚が消えれば、表情を読まれぬ。それだけのための一粒であった。

「南陵までは、まだ十八日でござる」

「うむ」

「瑩崗を、過ぎねばなりませぬ」

「うむ」

二度の「うむ」の間で、凍傑は唇の内側を噛んだ。

夕刻、二人は街道脇の半ば崩れた驛(うまや)に馬を寄せた。屋根は半分落ち、奥には誰かが捨てた薪が黒く濡れて積まれている。耿が手早く乾いた薪を選り分け、凍傑は懐の銅銭をひと握り取り出して数えた。

七十三文。

それが灰狼の主だった蓄えの、いまの全てである。残りの隊士へ最後の銭を分け、簪一本と料紙一枚を握って砦を出てから、五日でこの数まで擦り切った。馬の飼葉だけで一日六文、屋根を借りて八文、そこに梅と粟と、たまの干肉を加えれば、二十文は飛ぶ。算盤を弾くまでもない。軍議の席を蹴って南陵まで馬を走らせれば、最後の七文も、街道の犬すら追ってこぬ宿で消える。

「隊長」

耿が火打石を二つ三つ打ったあと、ふと手を止めた。火花だけが、欠けた屋根の闇に小さく散った。

「商売の畳み方を、誤っておられまする」

「ほう」

「銭がなければ、断ることもできませぬ。蹴ることも、走ることも」

凍傑は火を待ちながら、掌で頬を擦った。頬の皮が乾いて、薄い砂を撫でるような音を立てた。北辺で剥がれかけた死人の頬の感触は、五日経ってもまだ指の腹に残っている。

「断る銭、走る銭。耿よ、傭兵は三十年、ずっとそれを稼ぎ続けて、いま七十三文だ」

「左様」

「銭で買えるはずだった『辞す』が、銭の方から逃げ出して、いまは『出よ』しか残っておらぬ」

耿は黙って、ようやく着いた火を覗き込んだ。火に照らされた鉄兜の縁から、彼の額の古傷が一筋、赤く浮かび上がる。十年前、東伯討ちの夜に矢を弾いた跡である。その夜、矢を弾いた者は耿だけで、弾けなかった者は四十二人いた。それを凍傑は、いまも一人ずつ顔を覚えている。

「逃げ場の銭は、瑩崗で稼ぐより無いということで」

「軍議に出れば、座金の一枚や二枚は出る。書状を運ばせた使者の馬は、薄青の縫い取りであった。盟主の家から出たものだ。蒼家は、座金を吝(おし)む家ではない」

「では」

「飲んで帰る。一回きりだ。一席の酒で、南陵までの飼葉と宿が買える。それだけの算盤よ」

凍傑は薪の火に手をかざし、皮の手袋を裏返して乾かした。手袋の内側には、雪の中で凍りついた死人の頬の皮が、まだ二片、こびりついていた。彼はそれを火に近づけず、わずかに脇へ向け、内側だけを温めた。死者は燃やさぬ。傭兵は、それくらいの礼節を、最後の一枚として残しておく。

風が屋根の隙間から横へ抜けた。火が一度、大きく揺れた。揺れた火の影で、街道の方角に、黒い旗の影もまた、わずかに動いたのを、凍傑は見ぬふりをした。

七日目、瑩崗の城が見えた。

雪明かりの低い日に、灰白の城壁が、地平の縁から少しずつ立ち上がってきた。北辺の砦のごとき荒石ではない。整えた切石を七段に積み、その上に黒漆の楼閣が三重に重なっている。城門は鉄帯を二筋に巻いた厚樫(あつかし)で、門前の広場には、薄青の旗が三十、四十と並び、風に薄く膨らんでは萎んでいた。

旗の影が、雪を斑(まだら)に染めて揺れている。城壁の頂(いただき)では、黒い鴉が三羽、四羽、列を崩しながら旋回し、楼閣の鬼瓦の縁に、申し合わせたように一羽ずつ下りていった。鴉は、戦の前の城を識別する獣である。死人の出る匂いを、人より先に嗅ぐからだ。風が変わるたび、城下の方角から、馬の嘶きと鉄を打つ音が、遠く小さく、雪に吸われては届いた。鍛冶の音である。軍議に呼ばれた将のいずれかが、出立の前に蹄鉄を打ち直させているのだろう。

凍傑は馬を止めた。

砦と城は違う。砦は、死ぬための場所であった。城は、死なせるための場所である。城壁の高さは、その差であった。

砦の壁は、外から来る矢を止めるために積まれている。城の壁は、内に集めた者を逃がさぬためにも積まれている——同じ石でも、向きが違う。三十年の戦場で、凍傑はそれを幾度か、自分が出る側ではなく、出られぬ側として、内側から見たことがあった。出られぬ者の眼に、城壁の高さは、外から見たそれより、ちょうど三倍に見える。

「隊長」

耿が、馬の蹄を雪に深く埋めたまま、低く言った。声に、わずかな張りが戻っていた。

「あの旗の数、軍議に呼ばれた将は、六。その一人ひとりが千を率いて来ておりまする」

「うむ」

「我ら二騎で、六千の只中に入る」

「うむ」

凍傑は鞍の上で、ゆっくりと息を吐いた。今度の白い柱は、馬の首筋までは届かず、彼の口元で散った。寒さよりも、息の方が先に細っていた。

雪に埋もれぬ街道の真ん中で、彼は一度だけ、懐に手を当てた。料紙の冷たさと、銀の海月の硬さが、五日前と同じ位置で並んでいる。だが、五日前より、銀の方が冷えていた。布越しに、簪の先の海月の触手の彫りが、指の腹にはっきりと立つ。簪は、姉の家の冷えを、こちらに移してきていた。

——南陵まで、十一日。

——瑩崗の城門まで、千歩。

千歩のうちに、灰狼の旗を立て直すか、立てぬか、決めねばならぬ。立てれば、旗の下に名乗りが集い、名乗りの下に約定が結ばれる。約定は、銭よりも縄よりも、深く人を縛る。だが旗を立てて軍議の席に出れば、出た瞬間に、断ることも走ることもできなくなる。城は、人を入れる門と人を出さぬ門と、二つの門で出来ている。同じ厚樫の扉を、入る時と出る時とで、別の名で呼ぶ。それが城というものの、骨格である。

そして骨格を歩く者は、骨格に応じて歩幅を変えねばならぬ。城の歩幅は、傭兵の歩幅とは別である。凍傑はそれを、馬の上で、腹の底に一度沈めた。沈めたものは、すぐには浮き上がってこない。それでよかった。沈んだまま、門までの千歩を歩けばよいのである。

凍傑は、馬の腹を軽く蹴った。黒鹿毛が、雪を割って一歩を出した。

「耿」

「は」

「酒だけだ。一杯飲んで、座金を貰って、辞すと言うて出る」

「左様で」

「軍議の盤面には、近づかぬ。盟主の御前では、目を伏せておれ。地図の前では、口を開かぬ」

「肝に銘じまする」

声に出して、凍傑は自身の決め事を、耿の耳ごしにもう一度、自分に聞かせた。声というものは、一度外に出すと、出した本人を縛る縄になる。三十年の傭兵稼業で、それだけは確かに学んだ。だから今度も、その縄に頼った。

——一回だけだ。酒だけ飲んで、帰る。

噛み殺すように口の端で呟いた声に、塩漬けの梅の鉄の味が、奥歯の継ぎ目から薄く滲み出てきた。

城門の前で、薄青の鎧の番衛が、二人の馬の手綱を取った。

「灰狼隊長・凍傑どの、お待ち申し上げておりました」

声は若く、整っていた。文使いの少年と同じ家中の声である。番衛の腰には、出立に与えられたばかりらしい、鞘の塗りも新しい刀が下がっていた。鞘の漆は、雪の照り返しを跳ね返すほどに艶やかで、刃を抜いたことのない者の刀だけが持つ、ひやりとした若さがあった。乱世三十年の傭兵が、いま、生まれてから一度も戦場を見ぬ若者の刀の脇を、馬を引かれて通る。

門が、奥から軋んで開いた。厚樫の扉の継ぎ目から、香の匂いが流れ出てきた。沈香である。北辺の砦には、五年に一度も流れぬ匂いだ。匂いは、雪の冷えを潜って、まっすぐ凍傑の鼻の奥に届いた。鼻の奥で、それは血や汗や馬の匂いより一段、上の階に座る匂いであった。座るべき者が座る匂い、ともいう。傭兵の鼻が、長らく嗅がずにきた階の匂いである。

凍傑は鞍を降りた。降り際、懐の簪が胸の骨に一度、こつりと当たった。南へ帰る一歩のはずが、北へ縛る一歩であった——その呟きが声にならぬうちに、彼の足は、城門の闇に踏み込んでいた。

背後の街道では、漆黒の旗の早馬が、ようやく雪を蹴る足を緩めていた。

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