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南風軍師録 銭で天下を獲る男

第3話 第3話

第3話

第3話

天延七年師走廿八日、瑩崗城・玄虎(げんこ)の間。

香の煙が二尺ばかり立ち上り、梁の上で薄く層をなして横へ流れていく。沈香に、わずかに丁子(ちょうじ)の甘さが混じっていた。北辺の砦の獣脂の煙とは、空気の重さからして違う。煙は天井へ急がず、ただ横へ広がる。それを許す広さの梁であった。

凍傑(リャオ・ジエ)は、末席に与えられた虎皮の褥(しとね)に腰を据え、運ばれた漆器の杯を、両の掌で温めるように包んだ。杯の縁は薄く、指の腹に冷たく食い込む。盃は朱漆の上に金で雲の文様が走らせてあり、北辺で擦り切れた手袋の縫い目とは、同じ『金』と呼ばれてよいものとは思えなかった。

注がれたのは、米から起こした透き通る酒であった。鼻先で一度、湯気が立ち、丁子の香りに梅の酸が薄く重なる。傭兵が日銭で煽ってきた粟酒のごとき濁りはなく、舌の上で、一度ほどけて、奥歯の継ぎ目に薄く塩の名残を残して降りていく。

——一杯で帰る。

凍傑は腹の底でもう一度、自分に縄をかけた。

正面、上座の段の上には、まだ盟主・蒼霜姫(ソウ・ソウキ)の姿はない。代わりに、薄青の几帳(きちょう)が一架、垂直に下ろされている。几帳の裏で、衣擦れが二度、三度。盟主は既に座についており、几帳の影から、この座を見ているらしかった。

耿(ゲン)は凍傑の右後ろ、半身分下がった位置で膝を立てている。鉄兜は脱がず、緒だけを緩めていた。城内では非礼にあたるが、番衛は咎めぬ。咎めぬ、というのは、こちらをそれだけの格としか見ていないということでもある。凍傑は、それが今夜は有り難かった。格が低ければ、口を開かずに済む。

座には、六人の将が座を組んでいた。

正面に厳鉄(ゲン・テツ)。六将筆頭、北方蘇門(ソモン)の郡を抑える老将である。鉄の籠手を膝の上に置き、その上に両の拳を重ね、目を半ば閉じて微動だにしない。座しているだけで、座の音が一段、低く沈む種の男であった。

その左に、藺暁(リン・ギョウ)。中肉痩身、文官のごとき細い指で、卓上の絹地図の縁を撫でている。指先は時折、地図の特定の一点で止まり、止まるたびに目だけが動いて他の将の表情を測る。

右に衛猛(エイ・モウ)。三十路前の若い将である。鎧の胸板を朱で塗らせ、髭を太く立てていた。膝の上の杯は、すでに二度、三度、空けたらしい。残る三将は、東辺の伯、河沿いの侯、山地の譜代衆。それぞれの郡を背負って、座の中ほどに、三者三様の沈黙で並んでいる。

口火を切ったのは、衛猛であった。

「攻むるは黄澤(コウタク)、これを置いて他にござらぬ。城は浅く、守は薄い。三日で落ちる」

杯を置く音が、卓を一度、軽く打った。

藺暁が、地図の縁を撫でる指を止めた。

「黄澤を取りて、何の益にござろうか。郭の北は湿地、南は塩田。兵を入れても、養う田がござらぬ」

「益、とな。武は益で測るものではござらぬ」

「武は測らずとも、兵糧は測らねばなりますまい」

二人の言葉が、卓の上で軽く跳ねた。藺暁の爪の先は、地図の上の塩田の地点で、押し当てられたまま、わずかに白くなっていた。東辺の伯が、咳を一つして、低く割って入る。

「我らが攻むるべきは永淵(エイエン)。中央に近く、ここを取れば朝廷の喉元を抑えることになり申す」

「永淵の城壁は四丈にござる。三日では落ちぬ」

「三月かければ落ちる」

「三月の間、北の砦は」

座の言葉は、卓の地図の上で、ばらばらの方角に飛び散った。誰も同じ城の名を続けて二度は言わぬ。一人が黄澤と言えば、次が永淵と返し、その次が鈴丘(レイキュウ)と被せる。城の名が三つ、四つ、五つと並び、それぞれの将が、それぞれの城の利害と縁を、地図のある一点に指を立てて主張した。

卓の絹地図は、五つの指の腹で、ところどころ皺になり、皺の谷に火鉢の灯が薄く溜まった。河沿いの侯が南東の渡しの名を呼べば、山地の譜代衆が、その指を払うように自らの郡の名を被せる。衛猛の朱の鎧の胸板が、息を吐くたびに、革の継ぎ目が、ぎぃ、と低く鳴った。藺暁の薄い唇は、開かぬあいだも、声を出す前の形に薄く動いていた。誰の語尾も、相手の語頭に踏まれて、語の尻が宙で千切れる。千切れた語の端が、香の煙のように、卓の上で横へ流れていった。

筆頭の厳鉄は、目を閉じたまま、指の関節を一度だけ、低く鳴らした。

「正面は、永淵にござる」

低い、しかし芯の通った声であった。座の言葉が、その一言で半歩、永淵の方へ寄った。

凍傑は、杯の酒を、舌の上に転がしていた。

——盤面を、見ておらぬ。

口の中だけで、ふと、そう呟いた。声には出していない、はずであった。少なくとも、自分では、そのつもりであった。

杯を持つ手の力が、わずかに緩んでいた。北辺から五日、街道で五日、城門で千歩、緊張の縄が、丁子と梅の酒に解かれて、指先から先に解れていた。

二杯目を干し、三杯目に手が伸びかけ、止めた。止めたつもりが、手は止まったが、口が止まらなかった。

「貴公らは——盤面を、見ておらぬ」

声は、自分でも驚くほど低く、しかし、座の隅々まで届いた。香の煙が、一瞬、横へ流れるのを止めた。火鉢の炭が、ぱちりと一度、爆ぜた。

衛猛が、まず振り返った。朱の鎧の胸が、ぐん、と一寸、こちらへ迫り出る。

「なんと申された、傭兵風情が」

声は若く、酒で底の緩んだ声であった。だが緩みのあるぶん、語尾の刃は、未熟ゆえにかえって鋭く跳ねる。髭の根に、唾の白が薄く泡立った。

藺暁の指が、地図の縁から離れた。東辺の伯が、咳を止めた。厳鉄は、目を開かぬ。だが膝の上の鉄の籠手が、わずかに、ひとつ持ち上がる構えに入った。

凍傑は、杯を卓に置いた。漆器の底が、卓に当たる音は、思ったよりも乾いて響いた。置いた手の指が、自分の意思とは別の場所で、わずかに震えている。三十年、敵陣に矢を放つ前にも震えなかった指が、今夜、酒の入った杯を置いただけで、震えていた。これは、震える種類の場所であった。卓の周りで、誰の袖も鳴らぬ。火鉢の炭の上を、香の煙だけが、誰の言葉も乗せずに、ただ横へ流れていく。

「黄澤も、永淵も、鈴丘も——いずれも、東の指先にござる」

地図の上を、凍傑は卓越しに目だけで撫でた。絹の地図は、北の蘇門から南の南陵まで、河と山と関所が、赤と黒と藍の三色で描き分けてある。色は丁寧であった。だが、丁寧な色のうえで、誰一人として、西の縁を見ていなかった。

「西の縁、ここに、赤蝎(セキカツ)の紅旗が三十、立っておる」

凍傑は卓に身を乗り出さなかった。声だけを、地図の西の縁へ運んだ。

「三十は、千を率いる将の旗にござる。三十が並べば、三万。同盟軍の三倍——その三倍が、いま、河の手前で蹄を冷やしておる。貴公らが東の城壁の高さを測っておる間に、西の蹄は、河を越えるか越えぬかの計を立てておる」

座の音が、消えた。

火鉢の炭の爆ぜる音すら、しばし、間を置いた。

衛猛の朱の胸板が、ぐん、ともう一寸、迫り出かけて——止まった。藺暁の細い指が、卓の上で、ゆっくりと、西の縁の方へ滑っていった。指の腹が、絹の上に、薄く汗の跡を残した。

厳鉄が、目を開いた。

開いた瞬間の、老将の視線の重さは、北辺の凍えた風よりも、なお冷たかった。だがその視線は、凍傑にではなく、几帳の方へ向かった。几帳の薄青が、ふっと、内側からひと息、押された。

衣擦れが、一度。

——続けよ。

声は、几帳の裏から、薄く透き通って届いた。若い、しかし、透き通った芯のある声であった。墨を急いで乾かす爪の、あの紅の指紋を持つ手の声であった。

凍傑は、息を呑んだ。

呑んだ息が、奥歯の継ぎ目で、塩漬けの梅の鉄の味と混じる。

——一杯で帰る、はずであった。

懐の銀の海月が、布越しに、胸の骨を一度、こつりと突いた。突かれた場所に、姉の南陵までの十一日の道が、細い針となって走った。

几帳の薄青は、もう動かなかった。けれど、几帳の裏の視線だけが、凍傑の額の中央に、まっすぐ突き立っていた。座の六将も、誰一人、口を開かぬ。座の温度は、人の沈黙の数で決まる。今、卓の上には、沈黙が八つ、並んでいた。

凍傑は、卓の地図の西の縁に、空いた指を一本、ゆっくりと立てた。

立てた指の影が、絹の上に、細く落ちた。

その影が、河の流れに沿って、東へ——同盟軍の腹の方へ、ゆるりと、伸びていた。

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