第1話
第1話
──ログイン完了。
頬を撫でる風の温度が、三年前と一ミリも違わない。新作VRMMO『アルカディア・オンライン』、サービス開始三日目の午後九時十二分。視界の上端で、自分のキャラクター名が薄青く灯る。「シズク」。
社会人五年目、二十七歳。最後にこの感覚を味わったのは、退職前の旧作で全鯖一位の冠を返上した夜だった。本当に、戻ってきてしまったらしい。
息を一度、深く吸う。VR内の空気には味がない。それは知っている。それでも肺の奥で、何か甘ったるい錯覚が膨らむのは、たぶん条件反射だ。引退前、ヘッドセットを被ったまま六十時間連続でログインしていた頃の、あの胃の浮く感覚。机の脚にぶら下げた点滴用の水筒。終わらないクエストキューの残響。
「あ、来た! シズク先輩、こっちでーす!」
聞き覚えのない声が、耳の後ろから飛んでくる。チュートリアル広場の噴水脇、白い大盾を担いだ女騎士アバターが、ぶんぶん手を振っている。隣に、長杖を抱えたフード姿のヒーラー、双剣を腰で鳴らすアタッカー、弓を背負った小柄なレンジャー。四人。全員、見たことがない。
「えっと──」
(誰だ、こいつら)
口に出す前に、左から小走りで割り込んできた騎士の女が、私のメニューを勝手に覗き込む。承諾なしで他人のステ画面に触れる権限はないはずだが、フレンド申請を受けた覚えもないまま、なぜかパーティ枠に四人ぶんの名前が並んでいた。
「装備、こっちで揃えますから! 旅人ローブとブロンズダガー、サイズ合わせときましたから!」 「先輩、無理しないでくださいね。三年もブランクあったら感覚錆びてますって」 「え、ちょっと待って──」
待って、と言ったのに、誰も待たない。
「ヒール枠は私が回しますね。シズク先輩は、後ろで見ててもらえれば」 「攻撃ロールはこっちで回します。先輩、引退してから一度もVR触ってないって、サブアカで愚痴ってましたよね」 「そんな愚痴、誰にも──」
(漏らした覚えがあるな……)
旧友のタケが「面白いの見つけた」と勝手に作ってくれたアカウント名は、引退前のハンドルそのままだった。あいつ、絶対に意図的に登録しやがった。たぶん「シズク復帰」のひと言で、当時のリスナー網に火がついたのだろう。深夜帯に集まれる古参なんて、もうこの四人しか残っていなかったのかもしれない。
なんとか自己紹介を要求すると、騎士はミイ、ヒーラーはノア、アタッカーはレン、レンジャーはサクラと名乗った。全員、私が現役だった頃の配信を、当時中学生か高校生だった頃に視聴していたという。
「ミイは『シズク先輩のレイド受け方講座で覚醒した組』です!」 「ノアは『先輩のヒール論で実況動画書いた組』」 「レンは『DPS講座のループ動画で寝落ちしてた組』」 「私は……ずっとリスナーでした」
サクラだけ、声のトーンが半音低い。フードの陰に隠れた目元は、こちらを観察している──そんな気配だけがある。他の三人がはしゃぐ声の上に、彼女の沈黙だけ別レイヤーで重なっている。耳のいいプレイヤー特有の、音の置き方だ。
──こいつら、本気で私を保護対象だと思っている。
二十七歳の社会人を、ガラス細工みたいに扱う。ミイがブロンズダガーを私の腰に勝手に装備させ、ノアが「念のため」と低レベル用の回復薬を三十本押し付け、レンが「初狩場までエスコートしますね!」と言って先導しはじめる。サクラは、黙って後ろから私の背中を見ている。
押し付けられた回復薬の重量が、インベントリの隅でわずかに視界を歪ませる。三十本。明らかに過剰だ。スライム平原のレベル帯なら五本で足りる。彼女たちは、私が「無傷で帰ること」を最優先にしている。勝つことではなく、傷つかないこと。──保護とは、そういう設計のことを言う。
(──錆びついた、ね)
腰に下がるダガーの重みが、現実の腕に返ってくる。フィードバック遅延、体感〇.〇三秒。三年前の機材より精度が上がっている。靴底に伝わる石畳の凹凸、噴水から飛んでくる微細な水滴の冷たさ、隣を歩く後輩たちの装備が立てる金属音の方位──全部、こちらの許可を取らずに勝手に処理が走る。
ミイの大盾が腰のベルトと擦れる音は右斜め前、四十度。ノアの杖の石突きが石畳を叩く間隔は、彼女の歩幅より気持ち遅い。利き足を庇っている──たぶん現実の癖がアバターに出ている。レンの双剣の鞘鳴りは左後方、ステップごとに半拍ずれる。サクラの足音だけが、ほぼ無音。レンジャーのスキルではなく、本人の歩き方だ。
(まだ、覚えてんのか俺は)
引退してから三年、職場では会議の議事録と上司の機嫌しか観察していなかったのに、身体は何ひとつ忘れていない。
「シズク先輩、最初の狩場、門の外のスライム平原っす!」
レンが指差した先、街の門を抜けたところで、私は半歩、足を止めた。
(──なんだ、これ)
門の梁、石壁との接合部。右上の角だけ、テクスチャの継ぎ目が、わずかにずれている。〇.五ピクセルあるかないか。ノーマルマップの貼り方の癖。普通のプレイヤーには絶対に見えない。見えてはいけない。なぜなら私の今のステータスは、ただの初期キャラ──。
視覚補正スキルもなし。索敵バフもなし。にもかかわらず、視界の右上隅で「ずれ」が勝手に光って見える。脳が、勝手にハイライトをかけている。引退前、深夜のレイドで覚えた「敵の出現フレームを一拍前に検知する」あの感覚と、まったく同じ回路だ。
「先輩? どうしました?」
ミイが振り返る。私はあえて視線を外して、首を振った。
「いや、何でもない。久しぶりだから、街並み眺めてた」 「あー、わかる! 解像度エグいですよね!」
(エグいのは、解像度じゃない)
街全体を、もう一度ぐるりと見回す。視覚情報の密度が、明らかに前世代のVRMMOより一段濃い。NPC露店の店主の瞬きの間隔、噴水の水流に走る乱数の偏り、空に浮かぶ雲の生成タイミング──全部、整っているのに、整いすぎていて、逆に「整え方の癖」がうっすら透ける。
露店の店主は三秒に一度瞬きする。隣の店主は二秒八。微妙にずらしてある。手作業ではなく、明らかにアルゴリズムで散らした数値だ。雲は西から東へ流れているが、そのうち一片だけ、生成シードの初期化タイミングが一拍遅れている。普通なら気づかない。普通の人間は、そもそも雲を数えない。
(運営、何か仕込んでるな、これ)
廃人時代の感覚が、勝手に首をもたげる。情報量の異常を、脳が捨ててくれない。錆びついた、なんてとんでもない。三年寝かせたぶん、むしろノイズに敏感になっている。
「先輩、行きますよ! 装備の慣らし、しなきゃ!」 「あ、ああ」
ノアが私の袖を引く。私は前を向き直し、後輩たちの輪の真ん中に押し戻される。背中の四人ぶんの視線、足元の石畳の継ぎ目、門の梁の歪み。全部を同時に処理しながら、私はあえて気の抜けた声で笑った。
「引退組には眩しすぎる世界だな、ここ」 「でしょ! でしょ!」
──保護されながら、観測する。
頭の片隅で、皮肉が転がる。社会人になって三年、私は会議室の白い壁と数字しか見ていなかった。なのに、こうして再ログインした夜、視界の隅で何かが、はっきりと「ずれて」いる。後輩たちは、それに気づかない。気づく必要も、たぶんない。
彼女たちが守ろうとしているのは、配信画面の向こうで楽しそうにダガーを振っていた、あの頃の「シズク先輩」だ。錆びついた感覚を取り戻し、笑って初狩場で転んでみせる、そういう物語の登場人物。──私は、その役を演じることもできる。たぶん、演じたほうが、皆が幸せだ。
「シズク先輩、初討伐、譲りますか? それとも、見てます?」
スライム平原の入口で、サクラが、はじめてまっすぐこちらを見た。
フードの奥で、瞳孔のフォーカスが一段絞られる。観察者の目だ。たぶん、彼女もこちらを「測って」いる。
「……見てる側で頼む」
笑って、半歩、後ろに下がる。四人が嬉しそうに前へ駆け出す。その背中の向こう、平原の地面、丘の輪郭、空の色──全部に、ごくわずかな違和感が、薄く張り付いていた。
私の手元には、まだ何もない。スキルもアイテムも、初期値だけ。
それなのに、見えてしまっている。
(──まずいな、これは)
ダガーの柄に、私はそっと指をかけた。