第2話
第2話
「初討伐、譲りますか? それとも、見てます?」
サクラの問いに、半歩下がった姿勢のまま、私は頷いた。
「見てる側で頼む」 「……了解です」
フードの陰で、彼女の口元がわずかに緩む。安堵か、納得か。あるいは、別の何か。
スライム平原は、初心者狩場の典型だった。なだらかな丘陵が三つ、視界の左右を区切るように波打っている。空は薄い黄昏色で固定されている──のか、たまたまそのフェーズなのかは判別できない。引退前のVRMMOなら、空のシェーダ更新で時間進行を読み取れた。今作は、雲の流れ方が異様に均一で、シェーダの呼吸が読めない。
「ミイ、先頭。レンとサクラで挟む。私はシズク先輩の隣で待機」 「了解!」 「あいよー」
ノアの指示が、淀みない。
(……コンテンツが、回ってる)
四人のロール分担に、迷いがない。タンクが釣り、レンジャーが射ち抜き、アタッカーが叩き、ヒーラーが整える。教科書の最初の一ページを、紙に印刷した順番のままなぞっている。私が三年前、配信のチュートリアル動画で説明した手順と、寸分違わない。
(私の解説、まだテキストで回し読みされてんのか、これ)
考えるのをやめる。たぶん、当たっている。
最初のスライムが、丘の影から這い出してくる。透き通った青いゼリー、内側で光が屈折して虹色のグラデーションを描く。引退前のスライムが「テクスチャの貼り付け」感の強い造形だったのと比べて、今作は明らかに一段階、リアル寄りに振れている。表面張力で持ち上がる弧の角度、底面が地面を舐めるときの粘性、そして核を包む膜の屈折率まで、別物の物理計算が走っているのが、見ているだけで伝わる。
ミイの大盾が地面を叩く。挑発スキル「シールドバッシュ」のエフェクトが、青白い光環で広がった。
「タゲ取った!」 「行きまーす」
レンの双剣が二段ヒット三段ヒットと刻む。サクラの矢が、スライムの核を正確に貫く。ノアの治癒術が、ミイの大盾に薄緑の膜を重ねる──ダメージなど通っていないのに、念のため。
スライム、討伐。所要時間、四秒。
「ナイス!」 「ナーイス!」
四人がぱちんと手を打ち合う。私はその背中を半歩後ろから眺めながら、(……俺の出番、ないな)と心の中で呟いた。
「シズク先輩、次の湧き、譲りますね!」
ミイが振り向いて、白い歯を見せる。
「ああ──」
ダガーの柄を、握り直した。
(演じる)
笑って、転んでみせる。錆びついた手つきで初撃を外し、二撃目で慌ててクリティカルを引き、最後にヒールを貰って礼を言う。たぶんそれが、彼女たちが見たい「シズク先輩」だ。
二匹目のスライムが湧く。私はあえて、構えを半拍遅らせた。アバターの利き手の角度を、わざと十度ずらす。腰を引いて、初心者特有の「ダガーで突く動作」を選択する。
ダガーの先端が、スライムの核を、寸分の狂いなく貫いた。
刃先に伝わる手応えは、ほとんどない。スライムは粒子に分解され、青い光の小片が一拍だけ宙に留まってから、空気に溶けていく。引退前の感触で言えば、「当たった瞬間、当たったとわかる」ものだ。三年のブランクで取り戻せる手応えではない。指先が、勝手に最短の角度を覚えていた──としか、説明がつかない。
「あ」 「えっ」 「……先輩?」
四秒。私のソロタイム、四秒。ミイたちと、同じ。
「いやー、まぐれまぐれ」
声を裏返らせる演技をしながら、頬の内側で舌を噛む。
(──くそ、抑え損ねた)
身体が勝手に、最短経路を選ぶ。狙うべき座標を、視界の隅で勝手にハイライトしている。スライムの核は、本体の右下〇.三度のオフセット。当たり判定の中心は、見た目より六ピクセル下。──そんな情報を、初期値ステータスの私が知っているはずがない。なのに、知ってしまっている。
「先輩、もしかして……感覚、戻ってます?」
ノアが、長杖の柄を抱え直しながら、一歩近づいてくる。瞳の奥に、期待と不安が等量で浮かぶ。彼女が見たいのは、復活する伝説か、それとも安全に守れる先輩か。たぶん本人にも、わかっていない。
「ブランクの分、雑になってるだけだよ」 「えー、四秒で核ピンしたじゃないですかぁ」 「はずれたつもりが、当たっただけ」
レンが疑わしげに目を細める。
「先輩、配信で言ってましたよね。『はずれたつもりは、当たったつもりより危ない』って」 「言った、かなあ」 「言ってましたよ。私、台本にメモしてました」
サクラが、ぼそりと挟む。彼女の声は、相変わらず半音低い。
(──台本)
引退ライブの最終回、視聴者向けに残した「現役プレイヤーへの十のアドバイス」のテキストだ。あれを、現役プレイヤーでもないこの子たちが、まだ読み返している。三年前の私の言葉が、四人の手元で、まだ生きている。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「サクラ、よく覚えてんな」 「……はい」
フードの奥で、彼女の睫毛が一拍だけ揺れる。
私は視線を逸らし、丘の稜線へ顔を向けた。
(──おい)
その瞬間、視界の右上端で、また「ずれ」が光った。
丘と空の境界線。シルエットの輪郭を描く線が、約一ピクセル、内側へ凹んでいる。たった一ピクセル。普通のプレイヤーには絶対に見えない。普通のプレイヤーは、そもそも丘の輪郭線を、ピクセル単位で見ない。
(また、出た)
門の梁、空の雲、店主の瞬き、そして今度は丘の稜線。広場から狩場まで、ずっと、視界のどこかで「整いすぎた整い方」が、薄く透ける。バグではない。ノイズの混入でもない。むしろ、ノイズが消えすぎている。本来あるべき誤差が、削られている。
引退前のVRMMOなら、開発の手抜きや乱数の偏りが必ずどこかに出た。技術が上がったから消えた──のとは、違う気がする。誰かが、丁寧に、隠している。乱数の偏りを「もう一段ぶんの乱数」で塗り潰している。完璧な偽装は、完璧すぎることで、むしろ気配を残す。私の脳は、その「完璧の縁」を、勝手に光らせている。
(運営、何を隠してる)
「先輩、次行きますよ!」
ミイが叫ぶ。私は反射で頷く。
三匹目、四匹目、五匹目。スライムの群れが、丘の向こうから次々と湧いてくる。ミイが釣り、レンが切り、サクラが射ち、ノアが整える。私は後ろで「ナイス」と声を投げながら、視界の右上で点滅する違和感を、誰にも気づかれないように追った。
──このまま、観測係に徹するか。
頭の片隅で、選択肢が芽吹く。攻略はしない。レベリングもしない。装備掘りもしない。後輩たちの背中を撃ち抜く矢の軌道を、地面の継ぎ目を、空の雲の偏りを、ただ眺める係。
(……贅沢な遊び方じゃないか、それ)
退職して、社会人になって、三年。私は数字と上司の機嫌しか見ていなかった。久しぶりに、見たいものを見ていい時間が、目の前にある。
「先輩! 最後の一匹、譲りますね!」
ミイが、ダガーで突きかけたスライムを、寸止めで残してくれた。完璧な気の遣い方。
私は半歩前に出て、ダガーを構える──ふりをして、視線をスライムの本体ではなく、その「足元」へ向けた。
スライムが湧いた地面。芝のテクスチャの継ぎ目。
(──そこだけ、繋ぎ方がちがう)
他の地面が、四角いテクスチャを互い違いに敷き詰める「市松式」なのに対して、スライムの湧き点を中心に半径数十センチだけ、放射状の継ぎ方になっている。湧きエフェクトを綺麗に見せるための処理──と言えば、それで通る。通るが、私の視界はその境界を、勝手に細い線で縁取って見せる。
目を細めるまでもなく、輪郭は浮かび上がる。継ぎ目の幅は、おそらく数ミリ。アバターの視点距離なら、本来は視認できる解像度ではない──はずなのに、はっきり読める。放射の本数は十二本。等間隔。中心からの距離が増えるごとに、わずかに角度がずれて、目の錯覚を逃すように設計されている。逃そうとしている、ということ自体が、隠したいものがある証拠だ。
「先輩?」
サクラの声が、近い。
私はダガーを振った。スライムは、四秒で消えた。
「お、お疲れさまでーす!」
レンの拳が、ぱちん、と私の拳に当たる。ノアが「先輩、明日も来てくださいね!」と笑う。ミイが「夕飯食べてから、また集まりません?」と提案する。
私は曖昧に頷きながら、湧き点の地面を、もう一度だけ盗み見た。
放射状のテクスチャ継ぎ目。その中心点で、灰色のなにかが、ごく短く、点滅した気がした。瞼を一度、深く閉じて、開き直す。残像は、残らない。けれど、視神経の奥に、灰色の点が一拍だけ尾を引いていた感覚だけが、消えずに残っていた。
(……気のせいだ、たぶん)
たぶん。
ダガーを腰に戻し、私は後輩たちの背中を追って歩き出す。
四人の足音と、自分の足音。リズムは、合っていない。合わないまま、夜の街へ、戻っていく。