Novelis
← 目次

観測者は攻略しない

第3話 第3話

第3話

第3話

ログアウト直前、ミイたちが「明日、平日でも九時集合いいですか?」と詰めてきた。社会人の私の生活圏を、見事に把握した時間設定だ。断る理由が思いつかず、私は曖昧に頷いた。

ヘッドセットを外すと、現実の天井が、薄汚れたクリーム色で目に飛び込んでくる。八畳ワンルーム、買い替え忘れた蛍光灯。三年ぶりに六時間連続でログインした首と肩は、加齢の正直さで悲鳴を上げている。

冷蔵庫から缶を一本取り出し、ベッドの縁に腰掛ける。指先に、まだあのスライムの感触が残っている──気がする。それより、灰色の点だ。湧き点の中心。瞼を閉じた今でも、視神経の奥で薄く尾を引いている。

(……気のせいだ、たぶん)

たぶん、で済ませられるならそうしている。けれど、机の上のスマホには、いつのまにか箇条書きが二十項目並んでいた。「テクスチャの継ぎ目」「雲の生成シード」「店主の瞬き」「丘の輪郭線」「湧き点の灰色」──通勤電車の中で勝手に指が動いていた。会議の議事録より、よほど集中している。三年寝かせたぶん、観察癖が腐る代わりに発酵していたらしい。我ながら、気持ち悪い。

午後九時。ヘッドセットを被り直す。ログイン待機の暗転中、私は深く息を吸った。今夜は、見る側に回る。決めたわけではない。ただ、決めなくても、たぶん身体がそう動く。

チュートリアル広場の噴水の前に、四人はすでに揃っていた。

「先輩! 今日も来た!」 「ミイ、声でかい」 「だって嬉しくて」

レンが双剣の柄頭で、ミイの大盾を軽く小突く。ノアが長杖を地面に立て、私のステ画面に勝手にバフを乗せようとしてくる。承諾なしのバフは弾かれるはずなのに、なぜか通る。フレンドリンク経由の権限が、初日から開放されている──これも、引退前にはなかった仕様だ。

「今日もスライム平原っすよね?」 「ノース街道、まだ早い?」 「先輩、レベル整ってからのほうが」

四人の会話が、私の上を流れていく。私は半歩後ろで頷きながら、視界の上半分に勝手に走査をかけさせる。看板の文字、街灯の影、雲の流速。今日も、整いすぎた整い方。

スライム平原。昨日と同じ丘陵、昨日と同じ黄昏色の空。空気の匂いまで、昨日と同じ──と言いたいところだが、嗅覚はゲーム内では再現されない。それでも、頬を撫でる風の温度設定だけは、昨日より半度だけ低い気がする。気のせいだ。気のせいに違いない。けれど、その「気のせい」を一つ一つ拾い集めるのが、今夜の私の仕事だった。

「ミイ、釣ってー」 「あいよっ」

ミイのシールドバッシュ。レンの双剣、サクラの矢、ノアの治癒。流れ作業のようにスライムが分解されていく。私は半歩下がって、湧き点の地面だけを、ずっと見ていた。三匹目、四匹目。放射状の継ぎ目、薄青の粒子、寸分違わない処理。

そして、五匹目。

湧きエフェクトの中心が、一拍だけ、灰色に振れた。

「あ──」

声を出しかけて、噛み殺す。喉の奥で潰した母音が、耳の内側で小さく反響する。心拍が、ヘッドセットの内側で、こめかみの血流ごと一段速くなる。私は呼吸の音量を意識的に落とし、瞬きの回数を半分に減らした。瞬く一瞬の暗転で、見落としたくない。

ミイのシールドバッシュ、サクラの矢、所要時間四秒。いつも通り。スライムの粒子が空気に溶けたあと、湧き点の地面に、小さな何かが残っていた。

ドロップアイテム──じゃない、たぶん。

普通、スライムのドロップは青い核片で、それは確かにミイのインベントリに加算されている。パーティ共有のログ画面で、私は確認した。

けれど、地面には、もう一つ、ある。

灰色の、欠片。親指の爪ほど。屈折率はなく、影も落ちない。光を反射しない、けれど光を吸いもしない。ただ、そこに、置いてある。輪郭線にエイリアシングがない。アンチエイリアスの処理ですらない、最初から「線」という概念のないものが、ただ視界に貼り付いている。芝の3Dテクスチャの上に乗っているのに、芝の繊維の隙間にめり込まず、一ミリだけ浮いて見える。物理演算の外側にいる物体──たとえるなら、そういう感触だった。

「……ミイ、それ、全部拾った?」 「ん? 核片一個だけでしたよー」 「他には、何も?」 「んー、何も」

(──え)

私はもう一度、地面を見る。間違いない。湧き点から、数センチ右にずれた位置。芝のテクスチャの上に、灰色の破片が乗っている。

「ノア、ちょっと、こっち来てくれる」 「はい?」

ノアが私の隣にしゃがみ込む。私は、欠片を指差した。

「これ、見える?」 「これって……あの、芝、ですか?」 「いや、芝の上の」 「……上の?」

ノアの瞳孔が、欠片の真上を素通りする。フォーカスが合わない。彼女の視界には、芝しか映っていない。瞳孔がわずかに開閉する。何かを探そうとして、けれど探す対象を脳が捕まえられない、迷子の眼球の動き方だった。私は、ぞっとした。彼女の視覚処理系には、最初から、この欠片を描画する命令が届いていない。

「レン、サクラ。ちょっと」

私は声のトーンを意識的に下げた。「先輩が面白いもの見つけた」スイッチを入れたくない。あくまで雑談。あくまで世間話。

「どしましたー?」

レンが双剣を腰に戻しながら駆け寄る。サクラはすでに、足音を立てずに、私のすぐ後ろまで来ていた。

「ここに、灰色の破片、見えない?」 「灰色のぉ?」

レンが屈み込み、地面に顔を近づける。一秒、二秒、三秒。鼻先が芝に触れそうな距離まで頭を下げ、双剣使い特有の動体視力で、ピクセル単位を舐めるように走査しているのが分かる。それでも、彼の眉は不思議そうに寄ったまま、すぐに緩んだ。

「えーと、芝、っすね」 「うん、芝の上」 「……何もないっす、私の目には」

サクラの番だった。彼女はしゃがまず、立ったまま、首だけを傾けた。フードの奥で、瞳孔が一段、絞られる。狙撃手の集中。距離と角度を変えて、対象を浮かび上がらせようとする視線の動き。彼女のその所作は、引退前から知っている。何かを見落としたとき、サクラは必ず角度を変える。──そのサクラが、角度を二度変えて、なお首を戻さなかった。

沈黙が、長い。

「サクラ?」 「先輩。もう一回、指差してもらえますか」

私は欠片の真上に、まっすぐ指を落とす。サクラの視線が、私の指先を追う。指先、指先、指先──そのまま、地面まで。

「……何もないです」

(──そうか)

「ですよね。表示バグかなあ、すいません、変なこと言って」

軽口で覆う。レンが「先輩、目疲れてません? 連勤明けでしょ?」と笑う。ノアが「ヒール撃ちます?」と冗談を返す。ミイが「先輩、ちゃんと寝てますか!」と母親みたいなことを言う。

四人の輪が私を取り囲んで、笑う。私も笑う。──笑いながら、私は欠片に、人差し指の先を、そっと近づけた。

ピンと鳴るシステム音はない。アイテム取得通知も出ない。鑑定スキルは持っていないから、鑑定UIが開かないのは当然として──ステ画面のカーソルが、欠片の真上を通っても、ラベルポップアップすら浮かばない。普通、未鑑定アイテムでも「???」の四文字くらいは出る。それすら、出ない。完全な、無記名。

(……システムが、こいつを知らないのか)

別の可能性もある。システムは知っているが、表示する権限のないUIで、私は今、それを見ている。──だとしたら、なぜ、私にだけ見えている。

ダガーを抜く。刃先で、欠片を軽く、突く。

刃が、貫通した。

手応えはない。コントローラの触覚フィードバックも、ヘッドセットの骨伝導フィードバックも、ぴくりとも動かない。けれど、貫通した瞬間、欠片の輪郭が、ほんの一瞬だけ、灰色から白に近い淡い光に、明滅した。半秒。私以外、誰も気づかなかった。

「先輩、何やってんすか?」 「いや、芝の手触り、確かめてた」 「変なとこ気にするなあ、シズク先輩」

レンが笑う。私もダガーを鞘に戻し、笑い返す。

「先輩、次の湧き、行きますよ!」 「ああ」

半歩、後輩たちのほうへ戻る。けれど踵を返す直前、もう一度だけ、地面の欠片を盗み見た。

灰色のまま。動かない。光らない。誰の視界にも映らない。

──表示バグ、ね。

たぶん、違う。バグなら、ログを巻き戻せば消える。けれど、こいつは、私のいる位置を中心にして、ずっと、そこに「在る」。私が見ている限り、消えない。私が見ない限り、誰の世界にも存在しない。

(……持って帰るか)

ふと、そう思った。掴めない、拾えない、インベントリに入らない。普通のやり方では。

ステ画面を、もう一度、こっそり開く。装備欄、空欄、空欄、空欄。指輪枠が二つ、アクセサリ枠が一つ、サブウェポン枠が一つ。

「先輩、早く!」

ミイの声が、遠い。

私はダガーの刃先を、欠片の真上に、静かに重ねた。「拾う」のではなく、「装備する」。普通は、できない処理だ。

刃と欠片が、重なる。

視界の右上隅、ステ画面のサブウェポン枠が、ほんの一拍だけ──灰色に明滅した。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!