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Eランクの《真理の目》

第3話 第3話

第3話

第3話

短剣が鞘から抜けた音を、エド自身が聞いた覚えはなかった。  苔の上を蹴った踵が、半ば滑った。湿った胞子の匂いが跳ね上がり、鼻の奥を強く刺す。ゴブリンの片刃が、上方から、斜めに振り下ろされる。石を削った刃の断面が、薄青い燐光を一度だけ吸って、黒く光った。  避けた、のではない。転んだ、に近い。  エドの上体が、右へ傾いだ瞬間、頬の先を、刃が擦った。耳たぶの上の産毛が、ちり、と焦げるように削げ落ちる。熱くはない。ただ、風が、異様に遅く頬を撫でた気がした。脳の中で、時間の回し車が一段、抜けた。  視界の右上に、文字列が流れ続けている。

——穴棲ゴブリン、亜種。脇腹の刺傷、化膿。右後肢、腱の癒着。 ——直近一刻の呼吸、二十九。通常個体比、一・四倍。疲労、蓄積。 ——有効打、左肩甲下部、皮膚の薄い継ぎ目。

 読めていた。戦闘の最中に、こんなものを。  エドの指が、情報に従って動いたのが先か、自分の意志で動いたのが先か、もう区別がつかなかった。短剣の切先が、ゴブリンの腋の下、ちょうど文字列の指す一点へ、下から上へ突き上がった。手応えは、濡れた藁束を刺し抜いたような、ぬめりと筋の混ざった、妙に静かなものだった。刃の先が、何かの袋を、内側から裂いた。  ゴブリンの喉が、短く鳴った。  緑色の肢体が、一瞬、空中で硬直し、それから重力を思い出したように、エドの足元の苔の上へ、どさりと沈んだ。倒れる間際、黄色く濁った瞳が、エドの顔を、ちらりと見た。怒りでも、憎しみでもない、ただ疲れた老人のような、短い視線だった。

 しばらく、動けなかった。  短剣の切先から、黒い血が、ひと雫、苔の上へ落ちた。音はしない。ただ、落ちた位置の燐光が、一瞬だけ翳って、すぐ戻った。  エドの掌は、細かく震えていた。柄を握る力が抜けていく。自分の呼吸が、喉の狭い場所で、ぜいぜいと鳴っているのがわかる。吐く息の白さが、燐光の青と混ざって、青緑色に滲んだ。  足元のゴブリンから、視線が離せない。正確には、ゴブリンの頭上に、残り続けている文字列から。  死体の上、一尺ほどの宙に、新しい行が、ゆっくりと書き足されていく。

——個体記憶、第一項。生後三月、巣の最奥、湿った苔の感触。 ——個体記憶、第七項。先月、別個体との縄張り争い、右脇腹の刺傷。 ——個体記憶、最終項。頭上の暗い穴から、細い二足歩行体が落ちてくるのを、見上げた。

 エドの膝が、苔の上へ、かくりと落ちた。  魔物の、生涯の記憶の節を、第七項まで読まされて、最後に、自分自身がこの穴の底へ落ちてくる光景を、ゴブリン側の視点で見せられている。吐き気が、胃の底から喉元までせり上がり、奥歯の裏で辛うじて止まった。舌の根に、鉄錆と、金属を嘗めた時に似た苦味がにじむ。三年間、『観察』で拾っていたのは、せいぜい「鉄製の刃、重さ〇・四斤」程度の皮一枚の情報だった。それが今は、皮を剥ぎ、骨を開け、中身の髄まで覗き込まされている。  息を整えるのに、ずいぶん時間がかかった。膝の下の苔が、冷気を服越しに尻の皮膚まで届けてくる。寒くて震えているのか、まだ体が怖がっているのか、自分では、もう、わからない。  文字列は、消えなかった。

——対象、落とし得る物品、再算定。 ——通常ドロップ、脂〇・〇九二、石刃〇・一一三、牙〇・〇〇四。 ——条件ドロップ、検出。

 条件ドロップ、の一語が、他より、わずかに遅れて浮かんだ。  聞いたこともない単語だった。ギルドの壁に貼られた魔物資料にも、兄の手帳にも、ない。けれど、ない、と断言はできなかった。兄の走り書きの中に、「落ちる物は揺れる」という、意味の取れない一行があった。揺れる、ということは、振れ幅の先に、本来の確率表には載らない欄が、別に一枚、あるということだ。

——条件充足率、計測中。 ——感情、測定。戸惑い〇・七、恐怖〇・五、悲しみ〇・三。 ——状況、測定。単独、該当。第三層より下、該当。月齢、子の刻、該当。 ——該当項、七。下限、一。 ——ドロップ、確定。

 ゴブリンの脇腹、ちょうど短剣を突き入れた刺し傷の口から、何か、硬い音を立ててこぼれ落ちた。  苔の上を、ころりと、転がる。  エドは、ほとんど反射で、それを両手で受け止めた。  掌の中で、ずしりと重かった。鉄でもなく、銅でもない、もっと古い、緻密な金属の重さ。形は鍵だった。それも、ギルドの貸倉庫や街中の錠前に使うような、柄に丸い輪のついた現代の鍵ではない。柄のところが、二頭の獣が向かい合って一つの円を形作るような、精緻な鋳造の輪になっている。歯の方は、ごくわずかに、螺旋を描いていた。  苔の水分が歯の溝に触れた瞬間、溝の奥で、細い一筋の光が、内側から、ほんの一度だけ、燈った。  エドの目の、さらに奥で、文字列が書き換わった。

——鑑定、古代の鍵。 ——出典推定、現存する地表の言語体系のいずれとも一致せず。 ——用途、未照合。

 古代の、鍵。  手帳の中で、兄が何度も丸で囲んでいた、最後のほうの走り書きが、指の骨から背骨へ、一気に登ってきた。「最奥、鍵穴。鍵は、揺らすものから」。三年間、意味が取れないと飛ばしていた一行だった。兄は、揺らす、と書いていたのだ。感情を、状況を、時を。  鍵を握る掌の、皮膚の温度が、少しずつ、鍵の側に吸われていく。冷たいのではない。ただ、金属が、こちらの熱を覚えようとしている、そういう、静かな吸い方だった。  視界の文字列が、もう一行、流れた。  今度は、赤かった。

——注意。本スキルで得た情報の、外部への開示には、代償が伴う。 ——既観測者、三。現存、〇。

 前にも、同じ行を見た。ゴブリンと対峙した、あの瞬間に。  違うのは、今度は、文字列の下に、もう一段、小さな行が追加されていたことだ。

——既観測者一。名、不明。中央ギルド第二書記、回収済。 ——既観測者二。名、ルカ・エルヴィン。第五層東側にて消息不明。回収、不可能。 ——既観測者三。名、不明。北街辺境、証言者なし。

 視界が、ぐらり、と揺れた。  ルカ・エルヴィン。兄の、名前だった。  エドの掌から、鍵が、危うく滑り落ちそうになり、慌てて、両手で握り直した。金属の角が、指の関節に食い込む。痛い、と感じる手前で、痛みに縋っている、という自覚のほうが先に来た。  息を吸うのにも、一度、胸の筋肉を意識しなければならなかった。  兄は、これを、見ていたのか。見た、うえで、第五層で、帰って来なかったのか。

 苔の上で、ゴブリンの死体の輪郭が、ゆっくりと、淡い粒になって崩れ始めた。ダンジョンが討伐された魔物を内側へ引き戻していく、例のあの光景だ。けれど、いつもより、粒の消え方が、静かだった。音がしない、ということに、エドは遅れて気づいた。  ゴブリンが居た場所に、何も残らなかった。ただ、掌の中の、一本の鍵、だけが。  エドは、鍵を、胸元の内ポケット、兄の手帳の、すぐ横に収めた。革の表紙と、金属の歯が、布越しに、こつんと、一度だけ触れた。その軽い接触の音を、エドは、たしかに聞いた。

 赤い文字列が、視界の端で、最後にもう一度、強く点滅した。

——本スキルの存在を、他者へ口外した場合、ダンジョンの干渉対象となる。 ——優先度、最上位。

 点滅が、ゆっくりと薄れて消える。  エドは、膝の下の苔に、両手をついた。指の間から、湿った青い匂いが、息の代わりに昇ってくる。頭上を見上げる。落ちてきた穴は、まだ、はるか遠い。燐光の届かない真っ黒な空洞の、ずっと上だった。  戻らねばならなかった。戻って、何食わぬ顔で、Eランクの依頼書を、また一枚、受付のリディアから受け取らねばならない。昨日までの自分の顔のまま。誰にも、口外せず。  エドは、胸の内ポケットへ、もう一度、右手を当てた。革と金属の、二つの硬さが、掌の下で、確かに、重なっていた。認識票が、鎖骨の窪みで、一度、静かに鳴った。  立ち上がる。苔の水が、膝から足首へ、ひと筋、垂れて落ちた。  燐光の一番強い、岩陰の奥のほうへ、エドは、半歩、足を踏み出した。

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