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Eランクの《真理の目》

第2話 第2話

第2話

第2話

亀裂に触れた指先が、湿っていた。  苔でも水でもない。ただ冷たい、石よりも一段深い冷たさが、人差し指の腹にしみ込んでくる。エドは松明を岩棚に戻し、指先を目の前に掲げた。肌には何もついていない。けれど、冷たさだけが、皮膚の下へ、まだ沁みていく。  叩音は、いつの間にかやんでいた。  かわりに、別の音がある。花崗岩を通して、遠くで石の粒が石の面を転がるような、かすかな、けれど確かに届く音。斜面を、小さな礫が滑っていく音だ。それが、一粒ではなく、数を増やしていく。  心音のような叩きが、予兆だった。  そう理解したのは、理屈ではなかった。兄の手帳の七ページ目の走り書きが、胸ポケットから、皮一枚隔てて熱を持っているような錯覚があった。革の角が、肋骨の間に食い込む。エドは左手を胸に当て、呼吸を一度だけ、長く吐いた。吐ききった息の白さが、火影に溶ける。  右耳に、さきほどと違う重低音が届いた。床を通して腓腹筋まで伝わる、ごう、と空気を押す、岩壁そのものが喉を鳴らすような音。 「——嘘だろ」  声が、喉の奥に詰まって、半分しか出なかった。  松明を掴み、踵を返そうとする。けれど視界の端で、指一本分だったはずの亀裂が、今や手のひらが入るほど、縦に口を開いていくのが見えた。亀裂の奥の、黒よりもっと黒い深さが、ゆっくりと膨らみ、こちらへ押し出してくる。

 走ろうとした。そのつもりだった。  けれど足が、先に空を踏んでいた。  片足を引いた瞬間、踵の下の石畳が、砂糖菓子のように、しゃり、と崩れた。いや、正確には、石畳の側が崩れたのではない。その下の岩盤そのものの層が、上から支えを失ったように抜けた。エドの身体は、後ろへ半歩下がるつもりで、そのまま、後ろ下へ傾いだ。  松明が、手から離れた。火の玉は弧を描き、岩の角に当たって、一度、二度と跳ねながら、自分より先に闇へ落ちていく。火影が遠ざかるたび、天井の岩肌が、薄れていく火の色で、別の顔を見せた。ひび割れた古い文様のようなもの。ただの亀裂にも、誰かが刻んだ紋様にも見える線。まっすぐ見ようとしたが、それが確信に変わる前に、エドの視野そのものが、ぐらんと縦に回った。  背中から空気が抜けた。  落ちていた。  花崗岩のかたまりが、脇を、肩を、掠めて落ちていく。石の角が左の二の腕を擦り、上着の布が裂ける。皮膚が、ひりっと遅れて痛みを返す。両手が、掴むべき何かを探して宙を掻いたけれど、掌に触れるのは下降する空気の速度だけだ。耳の奥で、気圧が一度、ぎゅっと絞られた。鼓膜の内側が、低い音で鳴っている。  どれくらい、落ちたのか。  一秒だったかもしれない。あるいは、十秒。  背中が、何か柔らかいものに受け止められた。厚い苔の層だ、と気づいたのは、鼻腔に強烈な青草の匂いが押し寄せたからだった。地上の、雨上がりの森に似た青さ。しかしどこかに、嗅いだことのない甘ったるい香が、一筋、混ざっている。花でも、香でもない。強いて言うなら、古い本を開いた時の、紙の奥の匂い。それが、苔の青さの中に、細く、確かに存在する。  息ができない。  落下の衝撃で、肺の底の空気がひと息に押し出され、次の吸気がうまく入ってこない。胸骨の下が、内側から誰かに押されている。エドは口を開け、辛うじて短い息を二度、引き込んだ。涙が勝手に頬をこぼれた。それは痛みの涙ではなく、ただ呼吸を取り戻そうとする体が絞り出した、生理的な水だった。  背中を苔に埋めたまま、視線だけで上を仰ぐ。  落ちてきた穴は、もう、ほとんど見えなかった。  いや、あるにはある。けれど、自分が通ってきたはずの開口部は、はるか頭上に、井戸の底から夜空を見上げるような、歪な小さい輪郭になっている。落ちた時に跳ねた花崗岩が、今も時おり、岩棚の縁を擦りながら降ってきては、近くの苔の上で鈍い音を立てて止まった。  誰も、ここまでは来ていないはずだった。  兄の手帳にさえ、この深さの記述はなかった。  視界の端に、ちらりと、光が、よぎった。  気のせいだ、と思った。落下の衝撃で、目の奥の細い血管が破れたのかもしれない。けれどその光は、動いた。明滅しながら、苔の上を二尺ばかり、泳ぐようにして左へ移動し、岩の陰へ消えていく。細い糸のような、青白い、しかし松明の火よりは確かに冷たい色。 ——何だ、あれ。  エドの右手が、いつの間にか、認識票を握り込んでいた。Eの刻印が、掌の真ん中に押しつけられている。爪が四枚とも、指の付け根の皮膚まで、白く変色していた。  握っていると、安心できた。それが、滑稽なくらいに情けないと、頭のどこかで、まだ笑っている自分がいた。  光の軌跡は、岩陰の向こうで、消える寸前にもう一度だけ、瞬いた。

 意識が、一度、途切れた。  どのくらいの間、そうしていたのか。気づいたときには、右半身を下にして、苔の上に横たわっていた。胸の奥が、まだ、かすかに痛む。けれど呼吸は戻っている。空気には、青草と古い紙の匂いに加えて、もう一つ、鉄くさい匂いが、すぐ近くから、新しく混じっていた。  暗闇だと思っていた。違った。  松明はもう無いはずの空間に、薄青い燐光が、ぽつ、ぽつと、岩肌の窪みで蛍のように灯っている。壁面に埋まった硝子のような小粒の石が、自ら光を放っているらしい。天然の、魔石の露頭だ。それが何十、何百と、天井の方までまばらに散らばっていた。地上で流通している粗悪な照明石など、比較にもならない純度。  けれど、エドの喉を止めたのは、その光ではなかった。  五間ほど先の岩陰から、こちらへ向かって、のそり、と、輪郭が一つ、立ち上がった。  緑の肌。短く歪んだ四肢。頭が拳二つ分ほど、肩の上で左右非対称に傾いている。ゴブリン。それも、第一層で駆け出しが相手にする個体よりも、明らかに一回り、大きい。手には、石で打ち削いだ、不揃いな片刃の刃物。鉄くさい匂いの出どころは、その脇腹にこびりついた黒い血らしかった。以前、別の何かを殺した血だ。  見つかった、と思った時には、もう遅い。  ゴブリンの、黄色く濁った目が、燐光を反射して、こちらへ向く。  エドは息を止めた。腰の短剣に手をやる余裕もない。ただ、仰向けに近い体勢のまま、右手だけを、胸の内ポケットへ——兄の手帳の革表紙へ——無意識に伸ばしている自分に気づいた。戦う時ではなく、死ぬ時に触れようとしている自分に。  その瞬間だった。  ゴブリンの、歪んだ頭の真上、一尺ほど宙の、何もないはずの場所に。  細い文字列が、流れた。  白でも、青でもない。そのどちらでもない、見たことのない色。人の書き癖のある線ではなく、けれど、たしかに、読める形をしている。流れ星の尾のように、ゆっくりと、左から右へ、横書きで。 ——種族・穴棲ゴブリン、亜種。 ——個体推定年齢、九年。 ——直近の食事、子鹿の肢、三日前。 ——落とし得る物品、不明(条件、不足)。  エドの顎が、半開きのまま、止まった。  舌の先が、口蓋に張り付いている。冷たい汗が、こめかみから耳の裏へ、一本、長く下りた。  読める、ということよりも。  「読めている」のが、自分の目だ、ということよりも。 ——『観察』、じゃない。これは。  三年間、胸の奥で馴染ませてきた、あの、指先から糸を伸ばすような感触。それが、今、自分の両目の奥から、まっすぐ、このゴブリンの頭上へ、太い柱のように、刺さっている。引き抜こうとしても、戻ってこない。  ゴブリンが、吠えた。  空気を二度裂く、低く湿った唸り。爪先に力を入れて、苔を蹴る音。ほとんど同時に鳴った。

 エドの身体は、まだ動かない。  けれど、視界の中の文字列は、もう一段、流れた。 ——警告。この目で得た情報の、外部への開示には、代償が伴う。 ——既観測者、三。 ——現存、〇。  最後の一桁だけが、赤く、滲んだ。  ゴブリンの足音が、苔を噛んで、近い。  兄さん、と、声にならない声で、エドは呼んだ。  胸骨の真上で、手帳の革の角が、鼓動に合わせて、ごく小さく、一度だけ弾んだ気がした。  自分の指先は、いつの間にか、短剣の柄を握っていた。動かした覚えのないまま。  薄青い燐光の下、誰も知らない空洞の底で、Eランクの観察者の、ただの観察だったはずの目が、今、何かを、読み始めていた。

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