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Eランクの《真理の目》

第1話 第1話

第1話

第1話

松明の油が、指の付け根でじりじりと皮を焼いていた。  エドは火傷の熱を噛み潰し、湿った石壁に左の耳を押し当てる。苔の粘つきが頬にへばりつき、鼻の奥にだけ、古い水の匂いが届く。第三層、東の端。地図には「袋小路」とだけ書かれた岩壁の前で、彼は息を殺していた。  認識票が鎖骨の窪みで揺れる。焼きで刻まれた「E」の一字を指先で撫でる癖は、いつから身についたのだろう。冷えた金属の縁が爪に引っかかるたび、ああ、自分はまだEランクだった、と確認してしまう。忘れられるなら、忘れたかった。刻印の凹凸はもうほとんど磨り減って、指紋の谷に馴染んでしまっている。三年間、毎夜。擦り続けた時間だけが、この文字を柔らかくしていた。  本日付、午後八時。ギルド酒場では、同期六名のうち五名がCランク昇格祝いの杯を重ねている頃合いだ。一人だけ、席がなかった。正確には、席はあった。ただ呼ばれなかった。 「——エド、お前まで誘うと、さ」  昨日、かつての仲間の一人がそう言い淀んだ時、扉の陰で、別の誰かが小声で付け足しているのを聞いてしまった。『観察』しかできない奴を連れて飯を食うのは気まずいだろ、と。  聞いたあと、耳の後ろがじん、と熱くなって、その熱は夜になっても引かなかった。その情報を、エドはまだ誰にも渡していない。胸の奥で、石炭の燻りのような熱が、夜になるたび起き直る。怒りでも悲しみでもない、名前のつかない鈍い温度。吐き出せば軽くなるのだろうが、吐き出す相手がいない。飲み込むたび、喉の奥に小さな砂粒が積もっていくような気がする。  壁は答えない。苔が滴を落とし、靴の甲で小さく弾ける。松明がぱちり、と芯を裂いた。火影が、岩肌の凹凸を心拍のように揺らした。

 二時間前、ギルド受付の木枠越しに、彼は依頼書へ判を押されていた。 「第三層、東区画、薬草採取。報酬、銀貨七枚」  受付嬢のリディアが、羊皮紙の端を指で揃えながら読み上げる。インクの乾ききらない判子の朱が、紙の繊維にゆっくり滲んでいくのを、エドはただ見ていた。差し出された紙を受け取る寸前、彼女の藍色の瞳が一瞬だけエドの顔をさまよい、すぐに手元へ戻った。同情とも違う、困惑にも足りない、それでも確かに何かが混ざっている目。——憐れみ、と彼はその色に名前をつけている。 「……お一人で、大丈夫ですか」 「もう三年になる」 「そうでした。失礼しました」  言い終える前に、リディアの指先が羊皮紙の角を一度、無意味に折り直した。癖なのか、気遣いなのか、わからない。彼女が頭を下げた刹那、酒場側の扉が開いた。麦酒と脂の焼ける匂いが、埃っぽい受付の空気に一瞬だけ混ざり込む。誰かの笑い声が、厚い木戸に切り取られて半端な高さで途切れた。元パーティリーダーのガスが、赤ら顔で笑いながら出てくる。Cランクの銅の認識票が、胸の前で誇らしげに揺れていた。一瞬、目が合う。ガスは何も言わなかった。口を開きかけて、開かずに閉じた。そのまま視線を別の窓口に流し、新しい依頼を取りに移っていく。分厚い背中が、昔は隣にあった背中が、通り過ぎていく。  エドの胸で、鎖が重くなった気がした。 ——ダンジョンには必ず意味がある。  戦場で死んだ兄、ルカが遺した最後の手紙にあった一文を、彼はもう何百回と口の中で転がしている。十二歳の年に届いた、戦地からの短い書状。墨が滲み、端が血で固まっていた部分は、母が鋏で切り落としてしまった。残ったのは本文七行と、末尾のその一文だけ。  兄は冒険者だった。討伐隊に徴用されて戦線に送られ、そのまま帰らなかった。戻ってきたのは遺髪と、認識票と、泥の染みた革表紙の手帳だけだ。手帳には、ダンジョンの構造についての走り書きが残っていた。第三層東側、壁音の周期、月齢との相関——意味の取れない数式が並ぶページを、十九歳のエドは胸ポケットに畳んで持ち歩いている。革の角がもう擦り切れて、糸の毛羽が指に移る。兄の筆跡は細くて、字の終わりが少し跳ねる癖があった。その跳ねの形だけは、七年経っても覚えている。顔はもう、上手く思い出せないのに。  だから今夜も、エドは潜っている。他の誰も来ない場所へ。  酒場の扉が閉まる音を背中で聞きながら、彼はギルドを出て、北門へ歩いた。門番は顔も上げなかった。Eランクの単独潜行など、どうせ誰も気にしない。事故があっても、翌朝、掲示板の隅に小さな張り紙が出るだけだ。名前の綴りすら、間違えられるかもしれない。  一時間で第一層を抜け、薬草を七束。  三十分で第二層。小鬼の巣を遠回りし、岩清水で泥を洗う。冷たさが指の骨まで届き、吐く息が白く凝った。  そうして今、第三層の袋小路にいる。  兄の手帳の、七ページ目。 『東壁、子の刻、心音に似た音あり。回数は揺れる』  何を言っているのか、三年間わからなかった。ただ、兄がそう書いたなら、何かがそこにあるのだと、思いたかった。それだけだ。

 松明を岩棚に立てかけ、エドは耳を押し当てた姿勢のまま、ゆっくり目を閉じた。  石壁は冷たい。左耳の軟骨が、じき感覚を失っていく。遠くで水が滴る音、自分自身の鼓動、松明の芯がはぜる微かな破裂——それだけ。  いつも、それだけだった。今夜もそうなるはずだった。 ——と、ん。  え、とエドは口だけで動かす。瞼の裏が急に明るくなった気がして、すぐ暗闇に戻る。 ——とん。とん、とん。  それは、壁の向こうで、何かが叩いている音だった。  一定ではない。三つ、間を置いて、二つ。また沈黙。それから四つ。子どもが遊びで小石を岩に打ち付けているような、軽い、乾いた音。けれど第三層のこの深さに、人間はいない。小鬼はこんな叩き方をしない。岩の自然崩落でもない。落石なら、間隔がこうも揃わない。  鼓動が、耳の内側で倍の速さに跳ね上がった。喉が、急にからからに乾く。唾を飲もうとしても、舌の裏に張り付いてうまく動かない。背中の肩甲骨の間を、冷たいものが一滴、ゆっくりと滑り落ちていった。  エドの右手が、認識票の縁を強く握った。Eの角が、指の腹に食い込む。皮膚の薄いところに、一瞬だけ赤い線が浮く。  ふと、『観察』スキルの発動感覚が、胸の奥で微かに疼いた。対象の形状・材質・概算重量を読むだけの、地味な能力。戦闘には向かず、商売にしか使えないとさんざん笑われたあれが、今、壁に向かって——勝手に——伸びていこうとしている。意識で押さえようとしても、指先から糸が引き出されていくような感覚が止まらない。みぞおちの奥で、小さな火花が連続して散るような、痛みの手前の疼きが繰り返される。  こんな反応、知らない。 「——何だ、これは」  声が、自分で思ったより乾いて出た。  叩音はやまない。とん。とん、とん、とん。  周期が、揃いはじめていた。三、二、四、三、二、四。数式のように。あるいは、呼びかけのように。  兄の手帳の言葉が、ほとんど自動的に唇の内側で再生される。 心音に似た音あり。回数は揺れる。  揺れていたのだ。ずっと。今夜、偶然ではなく。  エドは壁から耳を離し、喉の奥で息を呑んだ。『観察』が何かを読もうとして、弾かれ、また伸びようとする。舌の根に、嗅いだことのない古い鉱物の味が、鉄錆に混じってせり上がってくる。奥歯の裏に冷たいものが触れて、つうっと首筋まで降りていった。指先の感覚が、一度遠のいて、また戻ってくる。遠のくたび、松明の炎の輪郭が、ほんの少しだけ滲んで見える気がした。  兄は、ここまで来ていた。少なくとも、ここまでは。

 松明を引き抜き、火影を岩肌にかざす。つるりとした花崗岩のはずの表面に、指一本分だけ、縦に細い亀裂が走っているのが、ようやく見えた。光の角度を変えると、亀裂の奥に影ではない何か——黒よりもっと黒い、吸い込むような深さが、一瞬だけ覗く。  そんな亀裂は、昨夜までなかった。  膝の裏の布が苔でぐっしょりと濡れている。立ち上がると、鎖骨の窪みで認識票が揺れ、胸骨を一度だけ叩いた。まるで、向こう側の音に返事をするみたいに。  エドは認識票を服の内側へ押し込み、もう一度、壁に耳を寄せた。今度は、内側から押し返してくる微かな振動が、耳殻の軟骨にまで届いてくる。叩音の合間に、低く長い一音が、確かに混ざった。  エドの右足が、半歩、前に出た。

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