Novelis
← 目次

反閇陰陽——見捨てられた退魔官のざまぁ日誌

第2話 第2話

第2話

第2話

闇だった。 底のない、湿った布を何枚も顔に被せられたような闇。その奥で、ぱき、と、乾いた小枝を折るような音がした。 意識の薄い膜を、外側から誰かの指で押されている。俺——黒鉄悠真は、自分の睫毛がまだ動くことに、他人事のように驚きながら目を開けた。 視界の真上。割れた蛍光灯の残骸が、ぶらん、と振り子のように揺れている。天井のコンクリートから細かい粉塵が降って、俺の瞼に積もった。右頬がひどく熱い。左頬は逆に、凍るように冷たい。頬骨の裏で、折れた奥歯の欠片が血溜まりを泳ぐ感触がある。 胸の上の、重み。 三本の黒い舌は、まだそこにあった。頸筋にかかったまま、しかし、動かなかった。まるで、時間の止まった標本のように。棘の一つひとつに、俺の皮膚の薄皮が、ほんの少しずつ絡みついている。吸いかけの呼吸が、鎖骨のあたりで凍りついていた。 ——なんで、舌が動かない。 何が起きたのか、最初は分からなかった。妖魔の気配は、消えていない。むしろ濃い。腐った沼の臭気は、相変わらず鼻腔の奥を灼いている。なのに、動かない。 視界の端で、藍地の浴衣の裾が、ふわり、と揺れた。白く染め抜かれた流水紋。老爺の痩せた足首。裸足に木の下駄。そこだけが廃ビルの四階ではなく、どこか夏の縁側の空気をまとっている。 下駄が、瓦礫の上を、からん、ころん、と二歩進んだ。 「見ておれ、坊」 しわがれた声。俺にかけられた声ではない、独り言のような、しかし俺の耳の底にだけはやけに澄んで届く声だった。 老爺は、浴衣の袖から、節くれだった指を、一本、立てた。 それ以外、何もしなかった。握り固めるでもなく、印を結ぶでもなく、呪符を取り出すでもない。ただ、縁側で舞い込んだ埃を払う——その程度の、気楽な動作だった。

指が、一寸、横に滑った。

風は吹かなかった。呪力の波動も、感じなかった。術式の輪郭も、展開式の気配も、何一つ立ち上がらない。 ただ、——ずれた。 空気が、紙の一枚分だけ、ずれた。 その紙一枚の裏側で、中級妖魔A級上位の、三つ蝶番で接ぎ合わされた下顎ごと、牛の頭蓋が、斜めに、落ちた。 音は、なかった。 骨の継ぎ目が、絹を裂くでもなく、断ち切られるでもなく、ただ、手順通りに外された。そういう落ち方だった。眼窩の奥の青白い鬼火が、二つとも、落下の途中で、ふっと消えた。蝋燭を親指で摘まんで揉み消したような、あっけなさ。 頸筋にかかっていた三本の舌が、力なく俺の胸の上を滑り、床に落ちる。どさり、とも、ぼたり、とも違う、濡れた布を落としたような音。腐肉の臭いだけが、遅れて空気に散った。 胴体が、ずっと遅れて、傾いだ。 コンクリートを割って立ち上がっていた、筋と骨と腐った内臓の塔が、重力に気づいた子供のように、ゆっくり、前のめりに崩れる。瓦礫が巻き上がって、粉塵が視界を白く染めた。コンクリートの床が、遅れて、どん、と震える。青白い鬼火の残滓が、床に落ちた三本の舌の上で、蛍のように一度瞬いて、それきり消えた。 俺は、息を、吸った。 吸えた、という事実に、数秒遅れて気づいた。折れた肋骨が軋んで、胸のうちで刃物を研ぐような痛みが走る。生きている、痛みがある。その二つが、同じ体の中で同時に起きていることを、俺の頭はまだ処理できなかった。 「……なん、だ、それ」 喉の奥から、血混じりの声がかすれる。 呪術ではない。少なくとも、庚申課の資料に載っているどの流派にも当てはまらない。退魔官としての三年、俺はこの組織のあらゆる術式のサンプルを雑用として清書してきた。印もない、符もない、詠もない、陣もない。指一本。それだけでA級上位の首が音もなく落ちる——そんな術式は、俺の知る限り、存在しない。 老爺は、指を下ろした。つまらなさそうに指先を、袖の内側で軽く払う。そこに妖魔の残滓がついていたかのような、几帳面な仕草だった。 「ふむ」 下駄が二歩、三歩、こちらに近づいてくる。からん、ころん、と、夏の縁台のような音色で。 老爺が、俺の脇にしゃがみこんだ。膝の関節が、ぱきぱきと小さく鳴る。皺だらけの手のひらが、俺の左肩口に、そっと当てられた。 熱くはなかった。冷たくもなかった。ただ、触れられた場所から、痺れきっていた指先に、ほんの少しずつ、血の巡りが戻ってきた。 「外れとる。戻すぞ。三つ数える。……一つ」 「ま、」 「三つ」 ぐん、と肩が鳴って、俺は声にならない叫びを上げた。視界が一瞬、白く焼ける。けれど、息は続いた。肺の奥までの通り道が、さっきまでより、確かに広がっていた。 「わしの流儀でな。手術も術も、手順は同じじゃ。外れたもんは、然るべき場所に、然るべき角度で、戻す」 老爺は皺だらけの口元で笑う。前歯が二本ほど、欠けている。 「おぬしの骨も、呪力の筋も、外れ方がよう似とった」 俺は、何か答えようとして、咳き込んだ。口の中に溜まっていた血と、歯のかけらが、一緒に吐き出されて、コンクリートの上で黒く固まった。

「……あんた、誰だ」 辛うじて、それだけ絞り出した。声は掠れて、他人のもののようだった。 老爺は、俺の問いには答えず、腰の帯の間から、古い煙管のようなものを抜き出した。いや、煙管ではない。柄の短い、黒檀のような木で彫られた、細い筆だ。その筆先で、俺の胸ポケットを、こつ、と軽く叩く。 辞令書の角が、はみ出していた。血で青く滲んだインクの文字。 老爺は、老眼の目を細めて、読み上げた。 「——退魔官補、黒鉄悠真、当面、雑務処理を継続する。か」 ぴしゃり、と、頬を叩かれた気がした。 俺は、辞令書を見られたことに反応したんじゃない。名前を、階級を、まるで既に知っていたものを確認するような、その抑揚に、背筋が凍ったのだ。 ふ、と、老爺は鼻で笑った。 「庚申課の、渋谷分室。三年目。血統なし。霊感のみ。一昨日、池袋でA級の前兆を感知して、単独調査命令が出た。今夜、無線越しに『訓練の一環』とぬかされて、見殺しにされかけとる」 ——筆の先が、とん、とん、と、辞令書の上で拍子を取る。 「合うとるか」 喉が、ひゅう、と鳴った。 合っている。全部、合っている。しかも、辞令書のどこにも書かれていないことまで、老爺は読み上げた。池袋の前兆感知の命令書は、俺の机の引き出しの、二重底の下にしまってあった。誰にも見せていない。葛城ですら、朱印の控えしか手元にはないはずだった。 「……なんで」 「なんで知っとるか、かの」 老爺は、しわだらけの目尻をさらに皺めて、笑った。目尻の奥の、夜の底のように冷たい光が、ほんの一瞬だけ、こちらの底まで射し込んだ。 「わしは、葛城の坊の仕込みを、かれこれ二十年、横目で見とるでな。あの家の者が、どの子を『いい穴』に選ぶか、書類の判子の押し方で当てがつく」 葛城。あの、無線越しの、濾過された声。「訓練の一環だから」と言い放ったあの男を、この老爺は「坊」と呼んだ。 「おぬし、今夜の報告書、事前に『単独対応不可』と朱で書いたじゃろう」 「……書いた」 「その朱の色が、わしの庭の池まで、ちゃあんと匂ってきた」 冗談なのか、本気なのか、判別がつかなかった。ただ、老爺の口元が動くたびに、体の奥に押し込めていた黒い油が、ぐるりと動く感じがした。——殺してやる、と思った、あの油だ。 老爺は、筆の尻で、俺の額をぽん、と軽く叩いた。 「おぬし、筋はええ」 その一言だけ、やけに軽くて、やけに重かった。 「霊感を、階級で腐らせるには、ちと惜しい。封縛符第四型でA級を止めようとしたじゃろう、さっき。ようやった。ようやって、爛れた。二つ目の符は、右手ではなく、左手で摘まんだ。折れた左腕を、あえて使うた。——なぜじゃ?」 俺は、答えられなかった。 正確な理由は、自分でも分からなかった。ただ、右手で構えていては、妖魔の目線が右に寄る、そう感じた。その感覚を、言葉にできる気がしなかった。 老爺は、答えを待たずに頷いた。 「それじゃ、それでええ」 「筋の通し方を知っとる子は、拾っておくに限る」

老爺は、ひょい、と軽く立ち上がった。関節の音がまた、ぱきりと鳴る。背後で、天井のコンクリートが、みし、と小さく軋んだ。 「さて、坊。あの天井の鉄骨、あと七秒で落ちるぞ」 「——え」 見上げた視界の端、砕けた梁の継ぎ目から、細い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっている。妖魔の胴が崩れた衝撃で、耐力が、もう抜けていた。 老爺は浴衣の袖から、一枚の白い紙片を取り出した。黄ばんだ和紙に、朱でもない、墨でもない、薄い緑がかった墨で、見たこともない形の字が一画だけ書かれている。庚申課のどの制式符とも、似ていなかった。 俺の、折れていない方の手のひらに、それを押しつける。 「握っとれ」 指が、反射で閉じる。 紙は、妙に、温かかった。人肌より少し高いくらいの、祖父の湯呑を握ったときのような温度。 ——ぎぃ、と、鉄骨が軋んだ。 「ああ、それとな、黒鉄の坊」 老爺は、下駄を鳴らしながら、瓦礫の向こうへ一歩、踏み出した。 「わしの名は、九條玄明。自称、野良の陰陽師じゃ」 からん、ころん。 「おぬしが雑用に塞がれとった本当の理由、——少しだけ、教えてやろうかの」

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第2話 - 反閇陰陽——見捨てられた退魔官のざまぁ日誌 | Novelis