第3話
第3話
鉄骨が、軋んだ。
真上、四階の天井を支えていた梁の継ぎ目から、砂粒がぱらぱらと俺の額に降りかかる。蜘蛛の巣状の亀裂が、一本の筋に収斂していくのが、折れた肋骨越しの視界にも見えた。老爺——九條玄明と名乗った浴衣の老人は、すでに瓦礫の向こうへ下駄を二つ三つ鳴らしながら、のんびりと背を向けかけている。
ぎぃ、と、鉄骨が最後の抵抗を諦める音。
俺の手のひらの中で、白い紙片が、温かい。祖父の湯呑を握ったときのような、人肌より少しだけ高い温度。和紙の繊維が、血で滑った指先にしっとりと吸いついてくる。墨でも朱でもない、薄い緑がかった墨で、一画だけ書かれた、見たこともない字。
握れ、と言われた。だから、握った。折れていない方の右手の、まだ爪が残っている指で。
その瞬間、——音が、消えた。
粉塵の落ちる音も、崩れる鉄骨の軋みも、自分の歯が震える音も、全部、綿に吸われていくように遠のいて。視界だけが、妙に鮮明だった。
鉄骨が、落ちてきた。
長さ四メートルはあろうかという、錆びた腹部の太い梁。折れたコンクリートの塊を三つぶら下げて、まっすぐに俺の顔面を目指して。
——落ちなかった。
俺の鼻先、あと、一尺。
宙で、止まった。
何に支えられているわけでもない。下に何かが生えているわけでもない。ただ、空気の方が固体になったように、鉄骨と、その先の無数のコンクリート片が、きれいに静止していた。錆のかけらが、ひとつだけ、ぽとり、と俺の頬に落ちてくる。それだけが、律儀に重力に従っていた。
「……は」
空気が、漏れた。胸の中の折れた肋骨の隙間から、笑いとも悲鳴ともつかないものが押し出される。
俺の手のひらの紙片は、もう温かくない。指の付け根が、じんわりと痺れている。紙の表面を、薄い緑の文字の一画が、じわり、と走って、手のひらの皮膚の内側に潜り込んだ。刺青のように浮かんで、滲んで、消えた。
「七秒、きっちりじゃな」
からん、と下駄が戻ってくる。老爺は、鉄骨の鼻先を、子供のおもちゃでも覗き込むように眺めて、ひとつ頷いた。節くれだった指で、宙に静止した鉄骨の側面を、こつ、と軽く叩く。音は、ごく普通の鉄を叩く音がした。
「反閇《へんばい》、の符じゃ。歩の力を紙に一画だけ写して、握り手の呪力の筋を触媒に発動する——走り書きよ」
「……へん、ばい」
「歩き方の術よ、坊」
老爺は、鉄骨の下をくぐって、俺の横にしゃがみ直した。膝が、ぱき、と鳴る。浴衣の裾から、白い脛が、ちらと覗いた。歳の割に、妙に逞しい、土踏まずのよく張った足だった。俺は、その足の運びを、どこかで見た気がした。——炉の前で、祖父が、鉄を打つ前に踏んでいた、三歩半。子供の頃、意味も分からず真似をして、叱られた。あの歩法。
「北辰を踏む歩。禹歩《うほ》とも言うがの、庚申課の本には、そう書いてないじゃろう」
書いていない。三年間、雑用で、あの組織のあらゆる古文書を目録清書してきた俺が知らないなら、それは、ない。禹歩の章は、索引にすら載っていなかった。目録の欠番は、三箇所。そのうちの一箇所が、確か——寛政年間の、名前を伏せられた流派の項だった。
「ないんじゃない。消したんじゃ」
老爺は、浴衣の袖で、俺の口元の血を指先で拭ってくれた。血のついた指を、自分の袖にそのまま擦りつけて。
「百年前にの。庚申課の前身が、反閇陰陽術を使うた流派を一つ、まるごと闇に葬った。家名も、巻物も、弟子筋も。——表向きは『制御不能の術式を封じるため』じゃったが」
節くれだった指が、宙に浮いた鉄骨を、とん、とひと撫でする。鉄骨は、びくとも動かない。
「本音は、庚申課の血統連中が、自分らの制式符を売るための、商売敵の処分よ。反閇は、印も符も要らん。歩くだけじゃ。——そんなもん、刷って売れんじゃろう」
鉄の錆と、腐肉の臭いに混じって、ふと、古い線香の匂いが鼻先をかすめた。気のせいかもしれない。老爺の浴衣の袖からだったかもしれない。それとも、記憶の、ずっと底の方に沈んでいた、祖父の仏壇の線香の残り香が、いまこの瞬間、勝手に引きずり出されたのかもしれなかった。
俺は、鉄骨の陰で、血に濡れた左手を、じっと見た。折れた左腕の指先が、なぜか、かすかに震えている。寒さではない。妖魔と対峙したときの恐怖でもない。何か別の——胸の底で、ずっと重く沈んでいた黒い油が、ゆっくりと温度を持ち始めている。
「……あんた、俺を」
掠れた声が、自分でも知らない熱を持っていた。
「俺を、知って、ここに来たのか」
老爺は、答えなかった。代わりに、筆の尻で、俺の胸元を、とん、と叩く。筆の柄は、思いのほか冷たく、肋骨の奥の痛みを、一瞬だけ別の方向へ逸らした。
「黒鉄、という姓はの、鍛冶屋の末裔じゃと、おぬし、馬鹿にされてきたじゃろう」
「……ああ」
「鍛冶屋の家系は、鉄を打つときに、反閇を踏むんじゃよ」
息が、止まった。
「炉の前で、三歩半。火の神を呼ぶ歩じゃ。百年前に葬られた流派のうち、一番末の末流が、鍛冶屋の日常仕事に混じって、細々と生き延びた。家名は削られ、術式は失伝し、残ったのは——体の中の、呪力の通り方だけじゃ」
老爺の指が、俺の左の肩口に、また当てられた。さっき関節を戻してくれた、その同じ場所に。指先が、皮膚越しに、何か細い筋のようなものを、ゆっくりと辿っていく。骨でも筋でも神経でもない、俺が知らない道筋を。
「おぬしの霊感は、並の下級退魔官のそれじゃない。反閇を踏む足が、まだ体に残っとる。葛城の家が、おぬしを『見殺しにできる程度の無能』の位置に塞ぎ込んだ理由は、それよ」
……なんだ、それ。
声には、ならなかった。出した途端に、叫びになりそうだった。
三年間、俺は「血統のない雑巾」として扱われてきた。天宮のような名家の同僚が手柄を掠めていくたび、受付の女性が目を合わせないたび、雑居ビルの女子高生の礼を報告書で消されるたび、俺は自分の「霊感だけの」才能を、呪ってきた。霊感があるから、こんな組織に拾われた。霊感がなかったら、とっくに逃げられていた。——そう、思ってきた。
違う。
最初から、組織は俺の「本当の筋」を、知っていたのだ。
知っていて、雑巾に塞いだ。
鉄を打つ家系の、消された歩法。葛城の家は、百年前に自分たちの祖先が葬った術式が、末端の退魔官補の体の中で、まだ呼吸していることに気づいていた。気づいた上で、低級怨霊の徹夜対応に回し、前兆感知の単独調査に出し、今夜のA級に「いい穴」として放り込んだ。帳簿の端で、数字が一つ、ひっそりと消えれば済む——そういう穴に。
——俺は、殺されるだけのために拾われたんじゃない。
俺の体ごと、葬り直されるはずだったのだ。
胸の奥の黒い油が、ぐらり、と音を立てて沸いた。折れた肋骨の痛みが、どこかへ押しのけられていく。喉の奥が、鉄の味で焼ける。
老爺が、にい、と笑った。前歯の欠けた口元で。
「ええ顔になってきたの、坊」
「……あんた、なんで」
「なんで教えた、か」
「いや」
俺は、喉の奥で、唾と血を一緒に飲み下した。
「なんで、助けた」
老爺は、ちょっと困ったように頭を掻いて、宙に浮いたままの鉄骨を、ぽん、と掌の腹で押した。鉄骨は、ようやく重力を思い出したように、ゆっくり、ゆっくり、瓦礫の山の上に、軋む音を立てて降りていった。
「筋の通し方を知っとる子が、筋を曲げたまま死ぬのが、気色悪くての」
それだけだった。
老爺は、よっこら、と立ち上がって、浴衣の埃を払った。下駄の音が、二歩、三歩、瓦礫の向こうへ遠ざかっていく。
「坊。明日の朝、いつも通りに、庚申課に出ろ」
からん、ころん。
「昨日の手柄は、天宮の坊が、嬉しそうに持っていくじゃろう。おぬしは、無表情で頭を下げろ。顔に、今の熱を、絶対に出すな」
振り返らない。浴衣の背中が、崩れかけた非常階段の踊り場で、ふわりと白く揺れた。
「退勤後、九段下に来い。古民家じゃ。看板はない。迷うたら、野良猫に訊け。——白黒の、耳の欠けとるやつじゃ」
下駄の音が、瓦礫の最後の一段を踏んで、消えた。
俺は、血で濡れたコンクリートの上で、折れていない方の右手を、ゆっくりと握り直した。さっき紙片を握った手のひらの、皮膚の奥。薄い緑の文字の一画が、もう見えない場所で、ひっそりと脈を打っている気がした。
三年間。
雑用の机。目を合わせない受付。天宮の笑い声。葛城の、濾過された声。
俺は、ゆっくりと、瓦礫の上で、立ち上がった。
折れた肋骨が、軋んだ。
——構わなかった。