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第零位階の落ちこぼれ

第2話 第2話

第2話

第2話

俺の右手が、勝手に前へ伸びていた。 赤い光が、空気を紐のように裂いて飛んでくる。線香花火のような拡散ではない。重みを持った一本の槍が、まっすぐ俺の顎下を狙っていた。 コートの男の視線が、俺に止まっている。なぜ俺なんだ——考える時間はなかった。 「——奏!」 肩を、強く突き飛ばされた。 突き飛ばされたのではない。湊が、俺と赤い光の間に割り込んだのだ。制服のブレザーが、視界いっぱいを塞ぐ。ベビーカーの赤子の泣き声が、水底から遠ざかった。 湊の背中に、赤い槍が触れた。 音はしなかった。 「え、」 俺の口が、空気を吐いた。 湊の体が、俺の胸にぶつかってくる。倒れ込んだのではない。押し出されるように飛び込んできた。赤い光は湊の背から胸を貫通して、俺の制服の胸ポケットの横、識別票の金属をじっと掠めた。空気が熱を抱えたまま残っている。 湊の重みが、俺の両腕にのしかかった。 「湊」 自分の声が、他人の声に聞こえた。 湊の顎が、俺の肩にもたれる。ブレザーの襟に、湿った赤が滲み始めた。滲むのではない。湧き出すように、布地を内側から真っ赤に変えていく。鉄錆の匂いが、一瞬で鼻の奥に膨らんだ。舌の付け根が、勝手に塩気を拾い上げる。靴の先で、さっき落とした焼きそばパンの袋が、まだマヨネーズと紅生姜の匂いを吐いている。その匂いが、赤の匂いに押し流されていく。昼休みに二人で笑っていた匂いが、たった数秒で、別の匂いに置き換えられていく。 「……奏、」 湊の声が、呼気と一緒に耳に触れた。 「……逃げてよ」 返事ができなかった。喉の奥が震えて、俺は湊の背中を強く抱きしめた。掌に、温かい液体が広がった。指の股を通り抜けて、手首の内側を伝い、制服の袖口へと染みていく。温度だけが、湊がまだ生きていることを教えてくれた。

通りから、人が消えていた。 逆流していた人波は、いつの間にか散っている。赤子の泣き声も、主婦の悲鳴も、どこか遠い路地の奥に吸い込まれていた。商店街の半分だけが俺の視界に残り、残り半分には、三人の影しか映らなかった。 「——外したか」 コートの男が、呟いた。 声は、存外若かった。二十代後半くらい。その男の指先で、二発目の赤が生成され始めている。今度はもっと太い。俺たち二人を、まとめて貫くサイズだ。 「待って」 スーツの女が、男の腕を軽く押さえた。青い光を指先に抱えたまま、女は俺のほうへ首だけ傾ける。 「学生、だよね」 「……」 「Eの識別票、見えてる。あなた、無害。興味ない」 口調に温度がなかった。電話の自動応答に似た、機械的な優しさ。その優しさが、俺を一層動けなくする。 「学友は、運が悪かった。邪魔しないなら、見逃す」 ——見逃す? 言葉の形だけが、意味を結ばずに耳の中で転がった。邪魔。見逃す。運が悪い。湊の背中から俺の腕へ、血液が移動している速度と、女の声が進む速度が、同じものに感じられた。 湊のブレザーの胸に、今度は血が内側から滲み出してきた。背中から胸へ、赤が布地を渡っていく。湊の指先が、俺の制服の襟を弱々しく掴んだ。爪が、白い。ネイルの下地のように白かった。普段なら教室で俺の背中を叩いてくる、その指だ。 「……奏、」 「喋るな、湊」 「……焼きそばパン、まだ、食ってない」 「後で。後で食う」 「……買い直し、おごりで」 「……割り勘だろ」 「……言葉の、あや」 湊が嗤おうとした。唇が震えただけで、嗤いにはならなかった。 仮面の誰かが、俺の肩越しにそれを見ていた。 「ねえ。今の『黙れ』——あ、言ってないか。次は言うよね?」 「……」 「私? 相方? それとも、死にかけの友達?」 仮面の口元は見えない。それでも、嗤っている。声の抑揚が、そう告げていた。 仮面の誰かが、右手を上げる。 白い光が、掌で丸く膨らんだ。先の二人とは桁違いの密度。白は眼球の裏側を刺す光で、見ているだけで涙腺が痛む。 「やめな」 スーツの女が、今度は仮面の腕を押さえた。 「黒曜の名前で、学生殺しはもう懲りたでしょ」 「懲りたのは、アンタ」 「……はあ」 女が息を吐いた。諦めに似ていた。その間にも、コートの男は赤い光を育て続けている。仮面は白を、女は青を、それぞれ指先に抱えたまま、三色の術式が俺たちの頭上で浮遊していた。 湊の呼吸が、不規則に浅くなる。 胸ポケットの中で、識別票が震えていた。冷たいままなのに、何度も、何度も、肋骨を叩いてくる。お前は落ちこぼれだ。お前は何もできない。お前は、この子を助けられない——金属が、俺の体の奥に向かって、ずっとそう告げていた。 「……ごめん」 俺の口から零れたのは、謝罪だった。 湊にか、自分にか、わからない。湊の肩に顔を埋めて、俺は膝をさらに深く折った。湊の血が、アスファルトの継ぎ目に流れ込み、浅い水路を作っていく。 赤い光の槍が、コートの男の手を離れた。 二発目。俺たち二人、まとめて貫く太さで。

視界の端で、赤の膨張が見えた。 コンマ何秒の話だ。避けられない。湊を抱えている腕を離せば、俺だけは転がって避けられるかもしれなかった。でも、俺は湊の背中からもう腕を離せなかった。頭の中のどこかが、「ここで離したら一生呼吸できなくなる」と、予言の口調で告げていた。 俺は、目を閉じた。 閉じて、それからゆっくり開いた。 世界が、白く反転していた。 雪景色じゃない。画用紙の白でもない。光が裏返ったような、奥行きのない白。商店街のシャッターも、アスファルトの継ぎ目も、赤い槍も、同じ明度の白に塗り潰されている。看板の文字も、電柱の影も、信号の色も、何もかもが白の一層に畳まれて、距離という概念がどこかへ抜け落ちていた。 俺の両腕の中で、湊の重さだけが、まだ重さのまま残っていた。 「……なんだ、これ」 呟いた声だけが、普通の音量で帰ってきた。反響しない。吸い込まれもしない。ただ、俺の声だけが白の中で浮いていた。 目の前、一メートル先で、コートの男の赤い槍が静止している。静止というより、白い世界に縫い留められている。先端は、俺の顎下から三十センチの位置で、動きを止めていた。 男の指先から、光の尾が伸びている。尾もまた、宙で凍っていた。スーツの女の青も、仮面の白も、それぞれ宙で止まっている。三人の顔は、白の中で薄く霞み、表情を読み取れない。 ——俺の中で、何かが動いた。 胸の奥で、心臓ではないものが、一回だけ脈打った。心臓はもっと早くに止まりそうなほど小さく震えている。でもそれとは別の、もっと深い場所——背骨の裏側か、胃の底か、わからない——で、何かが呼吸を始めていた。今まで一度も使ったことのない筋肉が、突然、動き方を思い出したみたいに。 識別票が、熱い。 胸ポケットの金属が、皮膚を焼く勢いで発熱している。Eの焼き印が、ブレザー越しに俺の胸を赤く灼いていた。引き抜こうとして、指が動かない。指どころか、瞬き一つできない。 俺は、湊を見下ろした。 湊の背中から、赤い槍が突き出したまま止まっている。白い世界の中で、湊の血だけが、赤のままだった。鎖骨の上に、小さなほくろが見えた。笑うたびに俺を救ってくれた眉の下ではなく、鎖骨の上にもう一つあるのを、俺はこの瞬間に初めて知った。 知らないまま湊が死んだら。 最後までそれを知らなかったことを、俺は生涯許さないだろう。 「——奏」 湊の声が、白い世界の中で、やけに近くで聞こえた。 「……目、開けて」 開いている、と言おうとして、声が出なかった。 代わりに、胸の奥で脈打ったものが、二回目の鼓動を刻んだ。 世界が、鳴った。

音は、耳で聞く種類ではなかった。 骨が、直接聞いた。 白い世界の輪郭が、俺を中心に広がり始める。半径五メートル、十メートル、二十メートル——広がるたびに、コートの男の赤が、スーツの女の青が、仮面の白が、空気に溶けるように薄れていく。術式の尾も、光の粒も、例外なく。 静止していた槍の先端が、湊の背中から、ゆっくり引き抜かれた。引き抜いたのは俺じゃない。白い世界が、勝手にやった。 赤い槍は、抜かれた瞬間に霧になり、白の中に溶けた。 「——これ、は」 コートの男の声が、初めて震えた。声も、薄まっていく。男の赤が、指先からも、掌からも、前腕からも、色を失いながら蒸発していく。 スーツの女が、一歩下がる。仮面が、一歩下がる。男が、動けない。 俺は、湊を腕の中で抱き直した。 湊のブレザーの背に、穴はまだ空いていた。でも、血は、もう流れていなかった。 胸ポケットの識別票が、皮膚を灼き続けている。 Eの焼き印が、赤く、熔け始めていた。

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