第3話
第3話
胸ポケットの金属が、制服の生地を焦がし始めた。 ブレザーの胸に、黒い輪が広がる。Eの焼き印がその中心で液状の赤に変わり、識別票の縁がシャツに食い込む。熱い。けれど痛みはない。痛覚まで、白の中に吸われていく気がした。 俺は、湊を抱え直す。 湊の呼吸は浅い。鎖骨の上のほくろが、白い肌の上で小さく上下している。息はある。血は止まっている。なのに湊は、俺の腕の中でますます軽くなっていく。重さが、抜ける。俺の掌の下で、湊という人間が輪郭を失いかけていた。 「——湊」 呼んだ声が、白の膜に吸われた。反響しない。輪郭にすら届かない。 それなのに、俺の胸の奥では、何かがまだ広がっていた。 半径十メートル、二十メートル、三十メートル——俺を中心に、白い輪が同心円状に押し広がっていく。商店街の看板が、シャッターの錆が、電柱の影が、届いた順に白へ塗り替えられる。赤い槍が溶け、青い光が散り、仮面の誰かの白は、より大きな白に呑まれて消えた。 「……退け」 コートの男が、掠れた声で言った。 指先に、もう色はない。赤い術式を育てる源泉が、蛇口を閉められたように涸れている。男は後ろへ一歩。二歩。踵が映画館のシャッターにぶつかり、金属音が鳴ったはずなのに、音はここまで届かなかった。 逃げるつもりか。 俺はそう思った、と思う。 ——思った、が、正しいかどうか、自信がなかった。
さっきまで俺は、湊のために泣きそうだった。 いや、泣いていた、のかもしれない。頬に塩気の痕が残っているから、たぶん泣いていた。なのに、その涙がどこから来たのか、今の俺にはもう思い出せない。 悲しい、という言葉の意味が、薄い。 悔しい、という言葉の輪郭が、溶けている。 湊を殺されそうになった怒りの温度だけが、なぜかぴったり絶対零度の位置まで下がっていて、感情の針がそこから動かない。 「——やばいって、これ」 仮面の誰かが、後退しながら呟いた。 「術式、喰われてる」 「声、出すな」 スーツの女が遮った。指先からも、青はもう出ない。出そうとしても、生成の瞬間に白へ吸われる。術式構築の芽が、芽生えた先から刈り取られる。女の顔が、初めて崩れた。電話口の自動応答の声が、今は人間の恐怖にねじれていた。 俺の右手が、湊の背中を離れ、空に向かって伸びた。 伸ばしたつもりはなかった。 でも、指先はゆっくり、三人のほうへ向けられていた。人差し指でも、握り拳でもない。ただ、掌を開いた形。差し出す、という動作に似ていた。 掌の中心から、白の密度が増した。 視界の端で、商店街のアーケードの屋根が、音もなく白へ溶けた。次に電柱が、シャッターが、八百屋の軒先が、順番に白の一層へ均されていく。物体が壊れるのではない。壊れる、ではなく、「在る」という事実ごと、白が舐め取っていく。 「奏」 腕の中で、湊が小さく呻いた。 意識は、まだある。名前を呼ばれて、俺は反射で視線を落とした。 落とした、はずだった。 湊の顔を見た瞬間、俺は、気づいた。 ——湊の、名前が、一瞬だけ、出てこなかった。 幼馴染。焼きそばパン。鎖骨の上のほくろ。特徴は全部、正しい順序で頭に並ぶ。でも、その全部に紐づいているはずの、三文字の呼び名が、白の中で靄に包まれていた。Mで始まったはずだ。M——M、なんだっけ。 Mから始まるはずの三文字が、頭蓋の内側で霧に溶けていく。口の中で音を組み立てようとするたびに、子音が白く反転して消える。焼きそばパンの紅生姜の赤は鮮明に浮かぶのに、それを噛みながら笑っていた横顔の、呼び名だけが削れていた。 背骨の裏側で、冷たいものが跳ねた。 それは、恐怖だった。 恐怖、だと気づけたことが、唯一の救いだった。恐怖の輪郭だけは、まだ白に喰われていなかった。 「——み、」 喉から、子音だけが出た。 「み、な、」 湊の目が、俺を見上げた。 湊の瞳が、俺を繋ぎ止めた。 黒目の奥が、薄い水の膜で濡れていた。その濡れた黒だけが、白の膜に呑まれずに残っている。瞳の底に、俺の顔が小さく映り込んでいた。湊は、俺だけを見ていた。 俺の腕の中で、湊が黙って俺の制服の襟を掴み直す。白くなりかけていた爪が、少しだけ色を取り戻している。湊は、何も言わなかった。ただ、俺の目を逸らさなかった。 「湊」 三音が、ようやく、全部の形で出た。 湊の名前が戻ってきた瞬間、掌の白が、ほんの少しだけ、淡くなった。
コートの男が、膝から崩れ落ちた。 倒れた、のではない。立っていられなくなった、という表現が近い。三人とも、術式を失った異能者は、ただの人間だった。男の額に汗の筋が走り、スーツの女の膝が震え、仮面の肩が下がる。 三人は、無傷だった。 俺が喰ったのは、三人の肉体でも、骨でも、血でもない。術式だけだった。世界に展開されていた、三種類の色付きの光。それと、俺自身の肌に絡みついていた、名前のついていない感情の層。両方を、俺の掌は同じ精度で剥がしていた。 その事実が、何より怖かった。 「俺は——」 呟いた声は、自分の声に聞こえない。 湊の重さを、腕の内側で確認する。鎖骨の上のほくろを、視線でなぞり直す。瞼の裏で、昼休みの焼きそばパンの匂いを、意識して再生する。マヨネーズ、紅生姜、購買の生地の硬さ。感情のほうが、輪郭を取り戻していく。湊、の三音を、舌の上で何度も形作った。 「……止まれ」 自分に向かって、言った。 掌を閉じる。握り込む。指の骨が軋んだ。握った瞬間、白い輪の拡大がぴたりと止まった。半径は、たぶん五十メートル。アーケードの向こう、交差点の一歩手前まで。商店街が半分、白の層に浸っていた。 止められたのか。止めたのか。 判別はつかない。止める、という動詞の主語が、俺なのか、俺の中の別のものなのか。 ——誰だ、これを動かしていたのは。 スーツの女が、両膝をアスファルトに落とした。舗装の色が、女の膝の周りだけ白の中から戻ってくる。白が、退いている。俺の掌が握られた瞬間から、世界が色を取り戻し始めていた。 赤い光は戻らない。青も、白の術式も戻らない。 戻ったのは、商店街の色だ。八百屋のトマトの赤、定食屋の暖簾の藍、金物屋のショーウィンドウに散らばった破片のきらめき。シャッターの錆の茶色。アスファルトの黒。全部が、順に戻ってくる。 湊の血の色が戻った瞬間に、俺は息を呑んだ。 アスファルトに広がった血溜まりは、小さく収まっていた。湊の背中の穴は、縁が赤い瘡蓋のような層に覆われて、まだ完全には閉じていない。でも、確実に血は止まっていた。湊の呼吸は、さっきより深い。 生きている。 その事実を、俺は改めて認識し直さなければならなかった。認識のほうが、出来事に追いついていなかった。 「……奏」 湊が、もう一度名前を呼んだ。 三文字。俺の名前も、三文字。 「……お前、何、した」 「わからない」 「わからないって、顔、してないよ」 湊の唇が、弱く笑った。 笑うと、鎖骨のほくろが、少しだけ隠れた。
コートの男が、這うように起き上がろうとしていた。 立てない。三人とも、立てない。術式を喰われた異能者が、肉体の力だけで俺に向き直そうとしている。その執念だけが、黒曜という二文字に恥じない熱量だった。 けれど、男の視線は、俺ではなく、商店街のアーケードの向こうに向けられていた。 通りの奥、アーケードの骨組みが戻った先から、黒いロングコートの影が一つ、こちらへ歩いてきていた。 足音は一定。急いでいない。 影の右手には、細い金属の筒が握られていた。ランクSの特殊監査官——その装備を、俺はニュース映像でしか見たことがなかった。 影は、一度足を止める。 俺と、俺の腕の中の湊と、俺の胸ポケットで熔けかけた識別票を、順に視線で撫でた。それから、低い声で、ただ一言。 「……第零位階、か」 俺は、湊を抱えたまま、その響きを頭の中で反芻した。 第——零——位階。 EとSの間にも、どこの欄にも書かれていないはずの言葉。 胸ポケットの中で、熔けかけた識別票が、最後にもう一度、肋骨を叩いた。