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観察眼EX、辺境から頂点を削る

第2話 第2話

第2話

第2話

街道に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

革手袋の掌が、ジェルパッドの下で汗をかいている。視界の端には、まだ《観察眼(EX)/熟練度1/∞》の薄紫の文字が、鼓動のリズムで呼吸していた。明滅のたびに、現実の心拍と同期する錯覚がある。指先の脈が、文字の輪郭を一緒に押している。

「……もう一人、視てみるか」

自分に言い聞かせるように呟いた。声が、喉の内側で一度詰まってから、ようやく舌の上に転がり出た。

街道の向こうから、軽装の弓使いが歩いてくる。緑のマントに、肩から斜めに背負った長弓。典型的なソロ狩り上がりの装備だ。俺は顔を伏せるふりをして、視線だけ上げた。フードの庇が、薄紫のレイヤーを半分遮るのが、妙に安心する。

《プレイヤー名:リリオ・ファレス/職業:射手/Lv.34》 《スキル構成:精密射撃(CT8秒)/風読み(パッシブ)/逃走(CT60秒)》 《隠しパラメータ:劣等感+22/虚栄心+9/承認欲求+15》

喉の奥が、こくりと鳴る。

劣等感+二十二。さっきのバルガスの傲慢+十七より、重い数字だった。歩く姿は、そうは見えないのに。胸を張って、肩で風を切って、金刺繍のマントを翻して——俺の隣を、一度もこちらを見ずに通り過ぎていく。マントの裾がかすかに俺の膝に触れて、また離れた。香の匂いが、一瞬だけ鼻を掠めた。安い香木の、甘い煙。

数字は、歩き方より正直だ。

短剣の柄を握り直す。木の節の凹みに、親指の腹がぴったり嵌まる。このひと月、この柄に何千回触れたか、指のほうが覚えている。柄巻きの革が、俺の手汗で色を濃くしている部分がある。そこだけ、木目が死んでいる。

気づけば、街道脇の岩に腰を下ろしていた。視界左下のログアウトボタンが、ただ光っている。押せばいい。押せば、明日のシフトに間に合う。蛍光灯の白、上司の怒鳴り声、ガムテープの切れ端、段ボールの角で切った指——そこへ戻ればいい。

でも俺は、押さなかった。

岩から立ち上がり、足音を殺して街道を逆走する。霧峰第二ゲート、大手ギルドの溜まり場。深夜帯でも、中堅以上が装備更新のために行き交う場所だ。松明の灯りが、石畳を蜂蜜色に塗っている。岩の影に身を屈め、俺は観察を始めた。膝の裏側の革が、冷たい石の肌を吸い込んで、じわりと体温を奪っていく。

「——聖盾のクールタイム、八秒だぞ」

槍使いの男が、後ろを歩く仲間二人に言う。鎧の紋章は《朧ノ団》、俺の勧誘DMを削除したばかりのギルドだ。髭に、配信のロゴマーカーが付いている。喋るたびに、その小さな光点が、犬の首輪の鈴のように揺れた。

《槍手リーダー・グレン/Lv.48/虚勢+31/嘘の数(直近24h)+14》

「……は」

息が漏れた。嘘の数、というパラメータの存在に、笑いそうになる。ご丁寧に、直近二十四時間の嘘の回数まで、数えてくれている。そのうちの一回が、たった今、仲間に告げた「聖盾八秒」だ。俺の視える本当の数字は、十二秒。

四秒の差で、明日、誰かが死ぬ。そういう嘘だった。

「——それ、違うだろ」

口の中だけで言う。声は岩の影に吸われた。舌の裏に、言えなかった言葉の苦さが残る。グレンは気づかない。気づくはずもない。彼の背中は、仲間の相槌を浴びて、一段と胸を張る方向へ反っていく。俺は、数字に触れているだけだ。

次に、白いローブの魔術師。裾に魔力回路の刺繍が走っていて、歩くたびに、足元に青白い粒子がこぼれ落ちる。金のかかった装備。課金額の匂いが、ローブの繊維から立ち昇ってくるようだった。

《魔術師ユリウス/Lv.52/最愛:赤髪剣士シエラ/裏切り予定+2/課金疲弊度:高》

裏切り予定、の二文字で、俺の息が止まった。

誰を、何を裏切る予定なのかは、視えない。ただ、その男の心に、あと二件、裏切りの約束が蹲っている。その数字だけが、俺の視界に静かに宿る。宿った、というより、食い込んだ、に近い。見たくなかった、という感情が、遅れて胸の奥で熱を持ち始める。

続けて、双剣の女。棍棒の野蛮戦士。呪術師の老人。視線を合わせるだけで、ステータスと隠しパラメータが、次々と街道の空気に透かし彫られていく。傲慢、短気、虚栄、嫉妬、依存、執着。数字は増える。文字列は重なる。視界の奥の岩肌が、霞んでいく。肌という肌に、他人の秘密の粉が降り積もっていくような錯覚。振り払おうとして手を伸ばしても、それは空気ですらない。

ヘッドセットの内側で、こめかみに鈍い痛みが走った。

VR酔いとは違う。現実の脳が、視えすぎた情報を処理しきれていない。冷たい汗が、首筋のジェルパッドの下を伝う。畳の上に転がる素足の踵が、じんと痺れる。奥歯が、知らないうちに噛み合わさって、顎の関節がきしんでいる。目の奥に、細い針を何本も刺されたような、鋭いのに遠い痛み。

「多い、な……」

岩の影で膝を抱えた。VRの膝じゃない。現実の、六畳のほうの膝だ。ジャージの生地が、汗で太腿に貼り付いている。

視界の右上に、新しいメッセージが浮かぶ。

《観察眼(EX)熟練度 1→2/視覚レイヤー拡張/『生涯最大の嘘』表示解禁》

「ちょ、待て」

声が裏返った。俺の意思とは関係なく、熟練度は勝手に上がっていた。観察した瞬間に経験値が入る、そういう仕様らしい。冗談じゃない。これ以上深く視えたら、俺は他人の人生の背骨まで読んでしまう。生涯最大の嘘、なんて、そんなものに触れる資格は、俺にはない。あるのは、段ボールを潰す握力と、シフト表を睨む目だけだ。

——押せ。ログアウトボタンを、押せ。

左下の四角い光。現実のコントローラーへ伸ばしかけた指が、止まる。止まった。指先が、プラスチックの縁に触れる直前で、空中に凍りついた。

脳裏に、さっきのグレンの「聖盾八秒」が蘇る。あの嘘を信じた仲間二人は、明日の攻略で死ぬかもしれない。俺の知ったことじゃない。知ったこと、じゃないはずだった。

だけど、俺は知ってしまった。

短剣の柄を握り直す。木の節が、掌の同じ場所に食い込む。いつもの感触のはずなのに、今夜だけは、それが指紋ごと持っていかれるくらい、はっきりしていた。指紋の渦の一本一本を、木の節が読み返してくるようだった。

ランキング一位、シノン・セレスタ。

あいつを、視たい。

その思考が、湧いて出た瞬間に、俺は自分で驚いた。驚いた、というより、怯えた、が近い。自分の中の、知らない部屋の扉が、音もなく開いた感じがした。二年間、俺は「どうせ届かない世界」としてランカーを眺めてきた。配信画面の向こう側の、光の当たる人種。俺とは違う生き物。そうやって諦めの順序を決めることで、自分を守ってきた。

今、その順序が、音を立てて崩れている。

視える。あいつらの手札が、全部、視える。

傲慢の数字、嘘の回数、裏切りの予定。ランカーたちが胸を張って振るう武器の下に、どんな震えが隠れているのか——その全部が、この薄紫のレイヤー一枚で、俺の前に剥き出しになるはずだ。剥き出しの数字を、俺はただ拾えばいい。拾って、並べて、読むだけでいい。

俺は岩の影から立ち上がった。膝が、少しだけ笑う。現実の脚のほうだ。

視界の右上に、時刻が浮かんだ。

《現実時刻/04:32》

窓の外で、東京の空が薄青に変わり始めているのが、気配で分かった。あと二時間半で、倉庫のタイムカード。

ログアウトボタンに、やっと指が届く。押した。視界が現実へ巻き戻され、六畳の天井のシミが目の前にある。ヘッドセットを外した俺の指は、まだ震えていた。耳元で、髪の毛が汗で束になっているのが分かる。額のゴム跡が、冷えた空気に晒されて、じわりと熱を持った。

壁の向こうから、隣人の目覚ましが鳴っている。

枕元のスマホを手に取り、公式wikiのブックマークと、大手ギルドの勧誘DMを、親指で一件ずつ消していく。残すのは、シノン・セレスタの動画フォルダだけだ。消す、消す、消す。画面の振動が、指の先に六回、七回、八回。

畳の上に倒れ込む。天井は、何の数字も表示しない。

——観ることが、狩ることになる夜が、来る。

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