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観察眼EX、辺境から頂点を削る

第3話 第3話

第3話

第3話

倉庫の蛍光灯の下で、段ボール箱の角に小指をぶつけた。皮膚が薄く裂けて、じわりと血が滲む。現実の痛みは、ちゃんと現実のものだった。VRのほうに、この痛みはない。七割までしか再現されない世界のほうが、今の俺には息がしやすい。

「黒田ぁ、棚番、7Bの11だっつってんだろ!」

主任の怒鳴り声が、天井の鉄骨に反響する。俺は「すいません」と頭を下げ、台車の向きを変えた。脳裏で、昨夜の薄紫のレイヤーが瞬く。今この主任を観たら、何が視えるだろう。虚勢プラスいくつ、嘘の数、いくつ——。

考えてから、首を振った。視なくていい。視たくない。現実で数字を読み始めたら、俺は明日からこの倉庫でも呼吸できなくなる。

午後六時、タイムカードを切る。電車に押し込まれて三十分、コンビニでおにぎりを二つ買って、六畳間のドアを開ける。畳に黒いシミ。窓の桟に埃。枕元のスマホに、十六件の未読通知。《銀月の盟約》《朧ノ団》《白夜騎士団》——ギルド勧誘DM。お前の勝ち筋を増やすよと、誰かが言っている。

俺は机の上の安物ノートPCを開いた。冷却ファンが、埃を吸い込んで咳をするみたいに鳴く。ブラウザを立ち上げる。

ブックマークバーの左から二番目に、《アルテラ攻略神殿Wiki》の青いアイコンが並んでいる。俺が二年間、毎晩のように通ってきた神殿だ。敵のHP、ドロップテーブル、推奨PT編成、最適解スキル回し。そこに書かれた数字を信じて、俺は短剣を振ってきた。

右クリック、削除。

青いアイコンが、音もなく消えた。ファンの音が、一拍だけ静かになった気がした。鼓動の方が、はっきりと耳の奥で鳴っている。指先が、マウスホイールの上で、微かに痺れていた。

「……」

次の列。《射手の書》《短剣ビルド掲示板》《PvPレート解析室》《ドロップ期待値計算機》。俺が毎週、更新日に張り付いて読み込んでいた攻略サイトたち。誰かの解析した数字が、俺の短剣の軌道を決めていた。どこで踏み込むか、何秒でCTが戻るか、どのレベル帯で装備を乗り換えるか——全部、誰かに習って、誰かの答えを写してきた。

右クリック、削除。右クリック、削除。右クリック、削除。

カーソルが震える。指先の汗が、マウスのプラスチックに湿った輪を作っていく。二年分のブックマークが、列を崩して消えていく。消すたびに、胃の底が冷える。昨夜、自分で狼を三百匹刺した時と、同じ種類の冷たさだ。喉が渇いた。枕元のペットボトルに手を伸ばしかけて、やめた。今この手を止めたら、もう一度同じ勇気は湧かない気がした。

最後の一つ、攻略神殿の最終更新ページを、タブ一枚だけ開き直した。シノン・セレスタの連携ビルド解析、投稿者1.2万人の評価、コメント欄に並ぶ「神」「感謝」「テンプレ確定」の文字列。俺はその中の、名もない一人の閲覧者として、二年いた。更新日を待って、ダウンロードして、短剣の振り方を、そこから拾ってきた。

タブを閉じた。ブックマークバーが、真っ白になった。

白、というより、無だった。ブラウザの上端に、余白だけが間延びしている。そこに何も並んでいないことが、二年ぶりに怖くなった。俺の夜の形が、そこにあった。形を自分で消したのだから、次の形は、自分で組むしかない。

次にスマホを手に取り、ゲーム内メッセンジャーのアプリを開く。勧誘DMが、受信トレイに積み上がっている。《銀月の盟約:レイド枠空きあります、週三固定可》《朧ノ団:PvP部門で短剣手募集、勝率報酬あり》《白夜騎士団:初心者歓迎、教育係在籍》。そのうちの一通に、グレンの名前があった。昨夜、仲間に「聖盾CT八秒」と嘘を吹いた、あの槍使いの男だ。

「お前に教わるものは、何もない」

声に出して言った。狭い部屋に、自分の声が、思ったより低く響く。親指で選択、全選択、削除。確認のポップアップ。《16件のメッセージを削除します。よろしいですか?》

よろしい。よろしいに決まってる。

消えた。通知バッジが、ゼロに落ちる。

枕元に、家賃の振込用紙が転がっている。その横で、スマホの画面が暗くなった。

ヘッドセットに手を伸ばす。ジェルパッドは、まだ俺の汗を覚えていた。指先の体温に、パッドの樹脂がじわりと馴染んでくる。

——ログイン。

視界が切り替わる。霧峰第二ゲートの松明の灯り、石畳の蜂蜜色。俺は街道を外れて、人気のない森の奥へ足を向けた。足音を殺す癖が、もう抜けないくらい染みついている。松の葉を踏む、乾いた音。湿った土の匂いが、ヘッドセットの嗅覚再現越しに、鼻の奥をくすぐる。風が、樹冠の上を滑っていく音。その下で、俺の息だけが、はっきりと聞こえていた。

古い切り株の上に、短剣を一度だけ突き立てた。柄を地面に見立てて、その前に膝を折る。儀式にもならないが、俺には儀式が要った。誰にも誓えない俺が、自分にだけ、誓う場所。

視界の右下に、自分のステータスが出ている。

《黒田蓮/職業:短剣手/Lv.32》 《観察眼(EX)/熟練度2/視覚レイヤー:ステータス+隠しパラメータ+生涯最大の嘘》

生涯最大の嘘、の一行は、まだ俺には早すぎる。視えてしまったら、俺は誰かを真正面から見られなくなる。だから、この熟練度は、ゆっくり上げる。焦らない。

切り株の短剣を、もう一度握った。木の節の感触。柄巻きの革の、手汗で濃くなった部分。この一本が、俺の全財産だ。刃の腹に、松明の光が細く走って、俺の頬のあたりで揺れる。握り直すたびに、柄の革が、指紋の溝に応えるように沈む。二年間、この一本だけは、誰にも譲らず、誰にも強化を任せず、自分の手だけで砥いできた。

「——誰にも、師事しない」

声に出した。森の樹冠が、その言葉を吸い込んで、一拍分の静寂を返した。

ランキング一位、シノン・セレスタに習わない。攻略神殿に習わない。大手ギルドに習わない。フレンドも、ギルドも、師匠も、いらない。誰にも、俺の短剣の軌道を決めさせない。

代わりに、俺は視る。あいつら全員の手札を視る。傲慢、短気、虚栄、嘘の数、裏切りの予定。CTの秒数、詠唱の硬直、金策依存の数値。全部、視て、数えて、並べる。そして、その数字の隙間に、この短剣を差し込む。

二年間、俺は「どうせ届かない世界」と諦めることで、自分を守ってきた。諦めは、優しい毛布だった。寒くはなかった。代わりに、何も動かなかった。倉庫で怒鳴られて、六畳に帰って、狼を三百匹刺して、寝る。そのサイクルの外側に、俺は一度も手を伸ばさなかった。

今夜、その毛布を剥がす。

剥がした先は、きっと寒い。昨夜、初めて自分の頭で間合いを測った時、手のひらに浮いた汗の冷たさを、俺はもう知っている。それでも、寒さは痛みに似ていて、少なくとも現実の側にある。七割の世界ではなく、十割の、俺自身の輪郭の側にある。

切り株から短剣を引き抜いた。刃が、松明の遠い灯りを、ちらりと拾った。

頂点まで、この一本で登る。俺に必要なのは、誰かの答えじゃない。視える数字と、それを拾う指先と、狼三百匹分の腕だ。

視界の端で、通知が光った。《シノン・セレスタが配信を開始しました——世界樹層第七階梯攻略、同時視聴2.8万人》。普段の俺なら、即座にタップして、画面の端に垂れ流していた。あの銀髪の一挙手一投足を、信者みたいに目で追っていた。

今夜は、違う。

通知を、視界から振り払う。シノンの配信は、今夜は観ない。今夜俺が観るのは、配信者ではなく、被観察者だ。

俺はフレンド欄を開き、唯一残っていた元同僚の名前を、指先で一度だけ撫でた。半年前にログインが止まったまま、灰色の文字で眠っている。俺はそれに心の中で「おやすみ」とだけ呟いて、リストを閉じた。

代わりに開いたのは、ランキング画面。一位から百位まで、上位の名前が縦一列に表示されるリストだ。シノン・セレスタ、バルガス、リリオ・ファレス、グレン、ユリウス——昨夜、視た名前がいくつも並んでいる。知らない名前の方が、まだ圧倒的に多い。

指先で、ゆっくりスクロールする。百人。全員分の、直近一週間の戦闘動画が、このゲームの公式アーカイブに残っている。観る時間は、俺の夜にだけ、いくらでもある。

「——観るか」

膝の上で、短剣を握り直した。木の節が、掌の同じ場所に、静かに食い込んだ。

上位百人のノートを、これから、一週間で作る。

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