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雷槌の軍師――末弟の黒峡

第2話 第2話

第2話

第2話

扉を閉じた音は、小さかった。

遺品庫の内側は、廊下に残る線香の匂いから切り離され、代わりに古い紙と膠、鉄錆が混ざった独特の匂いが鼻を打った。窓は北向きに一つ、格子に厚い埃が積もり、朝の光が斜めに床へ落ちている。光の筋の中で、埃が音もなく浮いては沈んだ。

凌霄は、扉を背にしたまま十を数えた。兄たちの足音が西の武具蔵へ消えるのを待ったのだった。十を数え終えてから、初めて奥へ踏み出した。床板が乾いた軋みを返す。父が最後にこの部屋の敷板を踏んだのは、昨冬、北辺へ出陣する前夜であった。あのとき父は、扉の前で振り返り、末弟だけを呼び止めて、「見ていなさい」とだけ言ったのだった。声は低く、命令にも譲渡にも聞こえぬ、ただ一度限りの託しの響きであった。

黒い布で覆われた筒は、書物の山の手前、低い台の上に横たわっていた。布に指を掛けると、冷たかった。絹ではなく粗い麻で、手のひらに繊維がかすかに食い込む。ひと息に捲った。布は床へ滑り落ち、麻の擦れる音が、思いのほか大きく壁に跳ね返った。凌霄は反射的に息を止め、廊下の気配を窺った。誰もいない。

筒身は、磨かれた黒鉄であった。長さ四尺余、外径は成人の拳二つ分。砲口の縁には磨き残した削り跡が波紋のように走り、その一条一条に薄く油が染み込んでいる。銃尾には火門が穿たれ、木製の台座に銅の環で固定されていた。台座の裏には、西域の文字らしい刻印が三文字。父の筆跡で、その下に漢字の読みが添えられていた――「雷槌」。

指の腹で文字をなぞると、墨はまだ新しく、紙ではなく木に直接書かれた線が、冬の乾きの中でかすかに浮き上がっていた。父が死の直前、この三文字をどんな顔で書いたのか――凌霄には、目を閉じれば見える気がした。

凌霄は台の向こうへ回った。書架の最下段、虫食いの帙が五冊ほど並んでいる。一番右の、表紙の糸が解けかかった帙を抜き出した。『孫陽十三篇』。父が末席の末弟にだけ鍵を渡した、書庫の外へは出さぬ一冊である。去年の冬、三度写したのはこれであった。

帙を板の上で開く。第五篇「勢を以て虚を撃つ」。父が墨で線を引いた箇所を、指の腹で辿った。

──大軍を恐れず、その通り道の細さを恐れよ。細きを打つ器は、細くして強きものに限る。

指先が、筒身の方へ戻った。四尺の黒鉄が、「細くして強き器」でなくて何であろう。凌霄は懐から一枚の紙を引き出した。図面の写しである。冬の間、三度書き改めたもので、鉄の厚み、火薬の配分、照尺の角度まで、父の筆写よりも細かく数値が添えられている。それを板の上に広げ、本物の筒と見比べた。

砲身の内径、写しの記述と寸分違わぬ。照尺の穴、図面どおり、筒の後ろ寄り六分の位置に穿たれている。火薬の詰量は、父の字で「十匁半」と書き添えられていた。写しを書いたとき、凌霄はこの数字の意味を測りかねた。いま、砲口から覗き込むと、薬室の広さが十匁半をちょうど収める深さにあるのが見えた。

鉄の匂いが、舌の先に上がる。生き物の血に似た匂いだった。喉の奥で唾を呑み込むと、その匂いは胸の底へ落ちて、心の臓のあたりで一度、重く脈打った。冬のあいだ、写しを三度書いた指先が、いまになって筒の冷たさを「知っている」と告げていた。父は写させただけではなかった。触れる前から、触れたあとを準備させていたのだった。

凌霄は、板の上に雍州全図の縮写を重ねた。袖の中から取り出した、もう一枚の紙である。黒峡の屈曲点に、冬のうちに打っておいた墨の点が三つ並んでいる。谷底の幅、最狭部で四十歩。両岸は傾斜四分の険しさで立ち上がる岩壁。頂には灌木が密生し、人を隠すに足りる。

指を点から点へ移した。三つの墨点は、冬の朝、凍えた指で打ったものだった。あのとき凌霄は、なぜ自分が雍州全図にこの三点を打っているのか、自分でも明瞭に答えられなかった。父はまだ生きていた。蛮族五千の南下も、まだ風聞でしかなかった。それなのに、指が勝手にこの三点を選んだのだ。いま、その三点が、鉄の筒と紙の上で交差した。

十門、と胸のうちで数え直す。両岸に五門ずつ。点と点の間は、ちょうど四十歩。谷底を一列に伸びた蛮族五千の、腹を横から斬る長さがそれであった。一門が五十歩の射程を覆うなら、十門で谷底の四百歩を間断なく塗り潰せる。火縄を落とす手は一門に三人。合図を伝える伝令に二十人。予備に三十人。計――三百五十。

私兵三百――父が凌霄に遺した、母方の族から徴した私兵の数と、ちょうど符合した。

凌霄は、板の上で指を一度強く押した。爪が掌に食い込んだ。痛みが、肩から指先まで一本の糸のように張り詰める。符合は偶然ではない。父は、この日のために、年単位で数を合わせていたのだ。

廊下の向こうで、馬の嘶きが上がった。三兄の馬である。厩から本殿前の庭へ引き出されたらしい。蹄が敷石を打つ音が、遺品庫の壁を通して骨に届く。続いて、人の怒鳴り声。武具を点検する雑人たちの応答。三兄・凌虎は、明日未明ではなく、今日のうちに動き出す気でいるのだった。

凌霄は、板の上の二枚の紙を、一度だけ順序を入れ替えた。図面を下に、地図を上に。照尺の数値が、谷の屈曲点の真下に重なるように。

兄たちに見せれば、どうなるかは既に分かっていた。

長兄・凌鶴は、禁制と言うであろう。西域の火器を用いれば、中央王朝の勅使が動く。雍州は籠城する前に、洛陽の罪人となる。三兄・凌虎は、奪うであろう。奪い、中央街道の平原へ担ぎ出し、正面から五千の蛮騎へ撃ち込み、そして――谷に伏せれば十門で済むものが、平原では百門あっても足りぬ。次兄・凌雁は、売るであろう。銀千斤の上積みとして蛮族王へ献上し、十年の平穏の値に加える。

三人とも、父が「見ていなさい」と末弟に命じた理由を、まだ理解してはいない。

凌霄は唇を噛んだ。麻の喪服の袖口が、鎖骨で一度擦れた。末席の末弟が兄三人の盤を書き換える権利は、どこにも発行されていない。ただ、父が遺品庫の鍵をこの朝、家令の手を介して渡した事実のみが、胸の奥で熱く残っていた。

鍵は、まだ右の袂に入っている。鉄でできた粗末な鍵だが、握ると冬の朝のように冷たく、すぐに掌の熱を奪う。父はこの鍵を、長兄でも次兄でも三兄でもなく、末弟に渡した。それは沈黙の指名であった。誰の耳にも聞こえぬ、しかし末弟の骨にだけ届く声で、父は告げていたのだ――「お前が、書き換えよ」と。

扉の外で、家令の老いた声がした。

「三兄上が、馬揃えを命じられました。正午には出立すると」

凌霄は、筒身に手を置いた。冷たかった黒鉄が、掌の熱で薄く湿り始めている。十を数えずに、答えた。

「私兵三百に伝えよ。日暮れに、東の城門の裏手、古い干し草の納屋へ集まれと。武具は軽装。炊き出しの握り飯を、各自三食分。馬は鞍のみ、鎧は着せるな」

家令の息が、一瞬止まった。末弟の声が、十七年で初めて命令の形を取ったのだった。

「……承知つかまつる」

足音が遠ざかった。凌霄は、板の上の図面と地図を重ねたまま巻き、懐に収めた。『孫陽十三篇』の帙を、もとの書架へ戻さずに、もう一方の袖へ差した。第五篇だけが、父の墨の線で濡れるように光っている気がした。

雷槌一門の重さ、二貫半――父の字で、そう書かれていた。十門で二十五貫。荷駄四頭に分ければ、鞍の下に隠せる重さであった。火薬は、遺品庫の壁際、鉛の箱に封じられている。箱の封印は、父の死後、誰も解いていない。

凌霄は、黒い布を床に落とした。筒を台から抱え上げた。肩に掛ける革紐が台座に通してある。紐を肩にかけると、筒身は背の丸みに沿って冷たく落ち着いた。革紐は新しく、父の指で結ばれたばかりの結び目が、肩甲骨のあいだに固く食い込む。父は、この紐を末弟の背の幅に合わせて結んでいたのだった。

扉を開けた。

廊下に、朝の光が流れ込んできた。西の方角から、三兄の馬揃えの号令が、石壁を伝って届く。長い一列の蹄の音と、鎧の札が擦れ合う乾いた音。三兄は、中央街道を西へ向かうつもりでいる。明日未明ではなく、正午。末弟の見込みより、半日早かった。

凌霄は、背の雷槌を一度だけ揺すり上げ、廊下を北へ歩き出した。遺品庫の扉は、開けたままにした。閉じる必要は、もうなかった。

東の干し草の納屋まで、半里。途中、父の墓を通る。線香を一本、そこで焚かねばならぬと思った。墓前で告げる言葉は、まだ持たなかった。ただ、背の雷槌の冷たさが、言葉の代わりになる気がした。

袖の中で、『孫陽十三篇』の第五篇の、乾いた紙の端が、手首を一度、かすめた。

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