第1話
第1話
線香の煙が、麻の喪服の袖口に冷たく染みついていた。
雍州城本殿の奥の院。凌霄は、父の位牌を置いた祭壇のひとつ下の段に膝を折り、敷石の底冷えを膝頭で受け止めていた。十七の春、父・凌明将軍が北の蛮族との戦で首を打たれてから、ちょうど一年。朝の空気にはまだ霜が残り、吐く息は位牌の金の縁を白くかすめて消える。
三兄・凌虎の立てる脚甲の擦過音、長兄・凌鶴の衣擦れひとつ立てぬ焼香、次兄・凌雁の薄い咳。兄三人の気配が凌霄の背中で重なり、末席の末弟には誰ひとり目を向けない。十二の歳に、父から「お前は、見ていなさい」と言われた。その言葉どおり、凌霄は十七になるまで、三人の兄の肩越しに雍州の興亡を見てきた。
祭壇の脇、板の上に並べられた父の遺品を、凌霄は目の端でひとつひとつ確かめた。折れ癖のついた軍配。柄が黒ずむまで血を吸わせた短刀。革袋に収められた北方図。そして最後列、黒い布で覆われた細長い筒が一本。遺品庫の最奥から、この朝だけのために運び出された、西域伝来の「雷槌」である。
焼香の順が兄たちに回り終えるより早く、廊下を駆ける蹄の音が石を打った。兄三人の肩が同時に上がる。次に廊下へ転げ込んだのは、北辺の伝令だった。兜の紐を結ぶ指が震え、喉の奥で息が鳴っている。
「北辺三郡、蛮族再び来襲。煙柱、十二条を数える。黒峡を越え、すでに三日の行程にございますッ」
供物の皿がひとつ、音を立てて敷石に落ちた。
凌霄は、膝頭の底冷えが背骨を這い上がり、うなじで止まるのを感じた。父の一周忌の朝に、父を殺した者たちが、再び南を向いている。
軍議は、一刻も置かずに大広間で開かれた。
卓上に広げられた雍州全図の、北辺三郡を示す木札の横に、伝令の告げた煙柱の数だけ赤い紙片が重ねられていく。墨の匂いはまだ新しい。蝋燭の脂が一筋、卓の縁を流れて落ちた。上座は空のままだった。雍州侯であった父の喪が明けても、家督はいまだ正式に定まっていない。
三兄・凌虎が、椅子を蹴って立ち上がった。二十四歳、肩幅が広く、腰に佩いた直刀の柄に手を置いたまま、地図の上へ身を乗り出す。
「父上の一周忌に蛮族が降りてくるとは、天の嘲りでなくして何でござろうか。某、三千騎を借り受け、明日未明に出陣つかまつる。中央街道を西へ駆け、平原で正面より叩き伏せ、蛮族王の首級を父の墓前に供え奉る」
長兄・凌鶴は三十二。肩の薄い、書翰を折り畳む手つきで応じた。
「三兄上、落ち着かれよ。昨冬父上を喪うた折、雍州の兵は半数も戻ってはおらぬ。三千を野へ出せば、城は裸となる。某は、城門を閉じ、倉の麦を数え、冬の訪れを待つが上策と心得申す。蛮族は麦の熟れぬ地に長く留まれぬ」
「一年も籠もっておれば、民は飢え死ぬる」
「野へ出て兵が死ぬるよりはましにござる」
次兄・凌雁は二十九。やせた頰を一度だけ指でなぞり、声を細くして加わった。
「──降伏の書状を、急ぎ蛮族王へ送られたい。銀千斤、馬二百頭をもって北辺三郡を買い戻す。前例もあり、十年の平穏がその値で買える」
「兄上、父上を殺した相手に頭を垂れると仰せか」
「頭を垂れぬ者から先に、首が飛ぶのでござる」
三兄の手が直刀の柄を握り直した。長兄が卓の縁を平手で打ち、三兄の腕を制した。次兄は目を伏せ、袖の中で数珠を数えている。三人の声は重なり、砕け、墨の匂いを濃く掻き混ぜていく。蝋燭がまた一筋、脂を流した。
凌霄は、末席で地図の縁に指を置いていた。
誰も彼の沈黙に気づかない。十二の頃から、兄たちの前で口を開くのは末席の務めではなかった。父もまた、口数の少ない末弟に口を開くことを求めなかった。代わりに、書庫の鍵を与えた。
「見ていなさい。見る者が、一人、要る」
父の低い声が、耳の奥で蝋燭の脂とともに垂れた。
凌霄の指は、北辺から雍州城へと通じる三筋の経路を、紙の上で静かに辿った。西は騎馬の展開しうる平原。中央は街道。東は、山塊に挟まれた細い谷――黒峡。父が生前、この谷の名を口にするたび、眉の間に薄い皺を寄せた場所。子供の膝の上で、凌霄は二度その声を聞いた。
「この谷は、入るには狭すぎ、出るには深すぎる」
指先が、黒峡の喉元にあたる屈曲で止まった。
兄たちの議論は、すでに中央街道と城門の是非に及んでいる。三兄は出陣を、長兄は籠城を、次兄は降伏を、それぞれ譲らぬ。誰一人として、東の谷に指を置いていなかった。
凌霄は、指先から顔を上げずに呼吸を整えた。喪服の麻が、鎖骨のあたりで微かに擦れた。
書庫の記憶が、墨の匂いに引かれて立ち上がった。
去年の冬から、凌霄はほとんど書庫で暮らしてきた。父の書棚の奥、虫食いの帙に収められた古兵法書『孫陽十三篇』。墨の擦れた第五篇に、こうあった。「勢を以て虚を撃つ。大軍を恐れず、その通り道の細さを恐れよ」。五千の兵も、谷底を一列に伸びれば、兵力は一騎の幅にまで痩せる。そこへ雷の如き一撃を落とせば、大軍は瞬く間に己の尾を踏んで崩れる――。
そして、祭壇の脇に今朝だけ運び出された、黒い布の筒。
父が一度だけ試射させたその筒は、馬を狂わせ、兵の耳から血を噴かせた。以後、父は雷槌を遺品庫の最奥へ封じ、誰にも触れさせなかった。だが図面は書庫の書架に残されていた。凌霄は冬の間に、その図を三度書き写した。鉄の重さ、火薬の配分、照尺の角度。数字の列を見ているうちに、夜が明けることが三度あった。
舌の先が乾いていた。鉄の味が、かすかに広がる。
十門、と凌霄は胸のうちで数えた。遺品庫にある筒は十門。それを黒峡の両岸、四十歩ごとに伏せれば、谷底を進む蛮族五千は、一列に伸びた腹を横から貫かれる。三百の私兵があれば、火縄を落とす人数は足りる。
「──決した」
三兄が卓を叩いた。「三千騎を借り受け、中央街道を西へ。平原にて蛮族を正面より叩く」
「三兄上」
小さな声だった。それが自分の声だと、凌霄は一拍遅れて気づいた。兄たちの目が一斉に末席へ向く。三兄の眉が、末弟という異物を測るように持ち上がった。
「なんだ、末弟」
凌霄は、指先を黒峡の一点から離さなかった。
「中央街道は……お避けくださりませ。蛮族は、平原を望んでおりまする。平原にて当たれば、五千の蛮騎に三千は、すり潰されまする」
「で、どうせよと」
長兄の声に、初めて諮問の色が混じった。三兄は鼻で笑い、次兄は袖の数珠を止めた。
凌霄の喉が詰まった。答えを口にするには、父が封じた遺品庫の鍵を、兄三人の前に差し出さねばならない。封を解けば、戦場の作法が一夜で書き換わる。古兵法と西域の黒い筒を組み合わせるという、誰も許さぬ決断。その重さを、末席の十七歳が兄三人を見渡して言い切る術を、まだ持たなかった。
凌霄は、指を黒峡に残したまま、黙した。
三兄がまた笑った。「末弟の地図読みか。書庫で独楽のように遊んでおれ」
長兄が小さく咳をし、議題を戻した。軍議は閉じた。三兄は出陣を決し、長�兄は城の守りを固めることに合意し、次兄は降伏の使者を内々に支度し始めた。兄三人がそれぞれ違う方角へ歩き出したとき、凌霄はまだ地図の前に残っていた。
袖の内側、指先に墨がついていた。黒峡の位置に置き続けた皮膚の油が、紙の縁に黒い染みを残している。凌霄は、その染みを一度だけ凝視し、袖で拭わなかった。
大広間を出ると、廊下は西と東に分かれる。
西は三兄の武具蔵、東は父の遺品庫に通じる。凌霄は東へ折れた。喪服の麻が膝裏で擦れ、袖口の線香の匂いがまだ立ち上る。遺品庫の扉には、父の名を彫った小さな木札が下がっていた。
鍵は、懐にあった。焼香の折、家令が無造作に末弟へ差し出したもの――誰も気に留めなかった鍵である。父が、この朝だけ、末席の末弟に渡せと家令に命じていたのかもしれなかった。
扉を押した。
乾いた木の軋みが、誰もいない廊下に長く伸びた。遺品庫の奥、積み上げられた書物の山の手前に、黒い布で覆われた筒が横たわっている。布を持ち上げる前に、凌霄はもう一度、舌の先で鉄の味を確かめた。
三兄が明日未明に出陣する。彼が中央街道の平原で蛮族に噛み砕かれるまでに、末席の末弟が持つ時間は、ちょうど一夜であった。