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観測者の眼 ―廃人VRMMOerの辺境攻略録―

第1話 第1話

第1話

第1話

──ログイン完了。

視界が一瞬白く弾けて、安物のVRゴーグルが額を圧す感触だけが残る。汗で蒸れたヘッドバンド、首筋に張りつく髪、エアコンの効きすぎた六畳間の冷気。三徹目の眼球は塩を撒かれたように痛むのに、ログイン画面のロゴが網膜に刻まれた瞬間、それが全部どうでもよくなる。なる、というより、消える。仮想の風が頬を撫でるたびに、現実の俺は薄くなっていく。

『アルセリア・オンライン』。サービス開始から百八十二日。俺の累計VRMMOプレイ時間、二万時間。もちろん別タイトルとの合算だ。このゲーム単体ならゼロ。半年遅れの、初ログインだ。

「カゲロウ@廃人、参戦しまーす」

誰も聞いていない部屋に向かって独りごちる。デスクの隅、コンビニで買った冷えたカレーパン。期限切れの社員証。明日は契約更新の面談で、人事の女に「次年度は予算が」と告げられるのが目に見えている。けれど今は、それも消える。視界がフェードインして、王都らしき石畳の広場に俺は立っていた。

噴水。雑踏。プレイヤーキャラクターの群れ。

俺の身体は、ローブ姿の見習い種族ヒューマン、職業未選択、レベル一。初期装備の杖は枝に毛が生えた程度の代物で、街灯の魔石にすら勝てる気がしない。隣を駆け抜けたフルプレートの戦士の背中で、星二つの肩章が誇らしげに揺れた。

──遅い。半年遅い。それくらいは分かっている。

「うわ、ガチの初心者じゃん」

別のフルプレートが、こっちを一瞥して笑った。フレンドらしき魔法使いが続ける。

「サブ垢じゃね? 今更カゲロウとかいう名前で始める奴いる?」 「廃人ぶってる奴って痛いよな」

聞こえるように言ってくる。返事はしない。VC越しに顔の見えない他人を殴っても、現実の俺の血圧が上がるだけだ。代わりに、フードを目深に被って脳内コマンドを叩く。視界右上、攻略サイトのオーバーレイをすべて閉じる。配信ウィンドウもミュートする。

メインストリートの掲示板には、ギルドランキング上位の固定広告。一位『黎明の剣』、ギルマスは配信者『リオ』。視聴者数十万、登録百万、生粋のトッププレイヤー。さっきまで聞いていたアーカイブで、彼はこう言っていた。

『今からアルセリア始めるとか、正直時間の無駄っす。Wiki完成してるし、未踏要素ゼロ。新規はソシャゲ感覚で課金して、即廃人に追いつくしかないっすね』

未踏要素ゼロ、か。

俺はステータス画面の隅、スキル欄を一行だけ確認する。『観察(初期)』。レベル一の凡庸な目。それでも構わない。観察に課金は要らない。

街門へ向かって歩き出す。鎧を引きずる音、商人NPCの定型挨拶、パーティ募集の叫び、初心者を狩るプレイヤーが囁くトレード詐欺の文言。耳に入る情報を一つずつ分別しながら、俺は最低価格の麻のマントを十シルバーで買い、ついでに麻縄を二本、革袋に押し込んだ。

「クエスト掲示板、初心者向け……森林ゾーン、Cランク、ゴブリン討伐、推奨レベル五……」

選ばない。受けない。受注した瞬間、俺の足は推奨ルートに縛られる。誰かが踏み固めた獣道を歩かされるのは、配信者の言う『遅れた新規』そのものだ。

代わりに俺はワールドマップを開く。低人口エリア、辺境ランクE、推奨レベル一桁、報酬旨味なし、誰も行かない『ガストの森』。その奥、Wikiですら『データなし、廃村跡らしき地形あり、特筆事項なし』とだけ書かれた一区画。

ここだ。

「『今更遅い』のは、踏まれた地面だけだろ」

呟きながら街門を抜ける。視界の端で、さっきの戦士たちが新しい初心者を捕まえてご教授をふっかけているのが見えた。俺の存在は、もう彼らの認識から消えている。それでいい。観られた瞬間に、景色は手垢にまみれる。

ガストの森に入って二時間。初期装備の杖でゴブリン三匹を仕留め、薬草を七本拾い、ステータスはレベル四になった。誰も狩らないからリポップが詰まっていて、経験値効率はむしろ街道沿いより良い。

「やっぱりな」

口の端が勝手に上がる。攻略サイトは効率の話しかしない。だが効率の話しかしないということは、効率の話以外を全部見落としているということだ。

森の奥に進むほど、地面の質感が変わる。プレイヤーの足跡で踏み固められた幹道は土が黒い。けれどここは、苔が剥がされていない。葉先の蜘蛛の巣に虫の死骸が溜まっている。NPC冒険者もスポーンしないエリア。ここから先は『運営が描き込んだだけで、誰も拾っていない景色』だ。

足の裏に、湿った腐葉土の弾力が伝わってくる。VRゴーグルの中で俺は、靴底の感触一つ一つを噛みしめるように歩いた。一歩ごとに細い枝が折れる音が鳴る。本当に、誰の足にも踏まれていない枝の音だ。木洩れ日が斜めに差し込み、空気中の埃が金色の粒になって漂っている。これはイベント用に置かれた演出ではない。誰も来ないから、誰の視線にも消費されないから、ただ世界の隅で勝手に光っているだけの粒だ。

幹に手を当てる。樹皮の溝に、指先のセンサーが正確に応えてくる。ふと、一本の樫の根元に、誰かが彫ったような小さな刻印を見つけた。錆びた鉤十字に似た図形。攻略Wikiの素材一覧にも、装備の紋章一覧にも、こんな模様は載っていなかった。記憶を浚っても引っかからない。スクリーンショットを撮って、俺は黙って先へ進んだ。覚えておくのは、口に出さない方の領分だ。

風が変わる。湿った石の匂い。鼻の奥がむず痒い。VRなのに鼻腔の奥に残る感覚まで再現してくるのは、このゲームのエンジンが少しおかしいからだ。半年前のサービス開始日、専門メディアは『五感再現率九十四%』と書いた。あの数字は、嘘じゃなかった。

下草を分け、傾いた道標を踏み越え、苔むした石垣の崩れを乗り越える。視界が開けた。

廃村だった。

屋根の落ちた木造の家が四軒、半ば森に飲み込まれている。井戸が一つ。鶏小屋らしき板囲い。立て札は文字が読めないほど風化している。風が吹くたび、軋んだ扉が一つだけ、規則正しく開いて閉じる。誰もいない。NPCも、プレイヤーも、湧きモンスターも。

足音が聞こえる。自分のだ。

息を、無意識に殺していた。VRの中で呼吸を抑えても、現実の肺は変わらず動く。なのに、口の中が乾く。喉の奥に、二万時間ぶん溜め込んだ何かが、言葉になる手前で固まっている。──ここは、まだ誰の視界も通っていない。

軋む扉のリズムが、心臓のリズムとずれていく。一定なのは扉の方で、ずれたのは俺の方だ。一軒目の家屋に近づき、入り口の梁に手を触れる。木屑が指の腹に刺さるような感触。中を覗くと、土間に倒れた木椅子、卓上に風雨で白く腐った食器。生活の痕跡が、生活が終わったまま冷凍保存されている。NPC配置も、戦闘ギミックもない。誰のためにもデザインされていない無人の景色。けれど、それを描いた誰かは、椅子の角度まで決めている。

「……描いてある。誰も観てないのに、ちゃんと描いてある」

それが何を意味するのか、俺はまだ言葉にしない。

「……マジか」

『観察』スキルを発動する。普段はモンスターのHPバーを見るための凡庸な機能だ。だが廃村の中央、井戸の縁石に視線を合わせた瞬間、視界の隅にだけ、薄い文字列が浮いた。

『????』

判別できない。鑑定不能オブジェクト。攻略サイトで散々見た、未実装フラグかもしれない。半年放置されたゴミデータかもしれない。──だが、誰一人、この井戸を覗き込んでいない。

ログを開く。このサーバーで、このマップ座標に過去アクセスしたプレイヤーは「あなたが初めてです」と表示された。サービス開始から百八十二日。数十万のプレイヤー。誰も、ここに来ていない。

胸の奥で、二万時間ぶんの何かがゆっくり熱を帯びる。

俺は井戸の縁に手をかける。安物の麻のマントが石の苔を擦り、湿った藻の匂いが立ち上る。覗き込む。底は見えない。星も映らない、ただの黒い穴だ。普通のプレイヤーなら、ここで踵を返す。報酬がない、攻略にも書かれていない、何も起きないかもしれない井戸の底に、わざわざ縄を垂らす理由がない。

俺は装備欄から、さっき買った麻縄を引っ張り出した。指先で結び目を確かめる。固結びを二回、もやい結びでもう一重。現実の俺はキャンプの一つもしたことがない癖に、ゲームの中でだけは縄の結び方を覚えている。二万時間の偏った貯金が、こういう時にだけ役に立つ。

「誰も行かない場所にだけ、まだ見ぬ景色がある」

二万時間の廃人歴で、俺がたった一つだけ信じている法則だ。

縄を縁石に結わえつけ、もう片方を握り直す。井戸の奥から、ほんの一瞬、生き物の呼気めいた湿った風が吹き上がった。鉄錆と、青草と、それから──覚えのない、甘い花のような匂い。攻略Wikiにも、素材図鑑にも載っていない香りだ。背中の産毛が、ゴーグルの中で確かに逆立った。

足を、踏み出す。

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