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観測者の眼 ―廃人VRMMOerの辺境攻略録―

第2話 第2話

第2話

第2話

麻縄が手袋越しに軋む。

現実の俺の手には、コントローラーに結びつけた触覚フィードバックグローブがぴったり張りついている。VRの中で縄を握れば、現実の手のひらにも縄目の凹凸が押し返してくる。安物の麻縄のささくれが、二本の指の付け根に食い込んでくる感覚。ゲームエンジンが、本当に縄だと言い張ってくる。

両足で石垣の縁を蹴って、腹筋で体重を預ける。キャラクター重量補正七十二キロ。ログイン前にサーバーに申告した、現実の俺の体重そのままだ。嘘をつく意味がない。三徹明けの痩せた腹筋が、VRの中でも同じ仕事を拒否してくる。

「……降りるだけで、経験値くれよ」

独りごちると、井戸の壁に俺の声が跳ね返る。反響の仕方が、石造りの本物のそれだ。どの深度にいるかで跳ね返りの遅れが違う。他ゲームで嫌というほど聴いた反響を引き合いに、俺は底までおよそ十二メートルと見積もる。

ブーツの爪先で壁を蹴る。苔が剥がれ、下へ落ちていく。数秒後、水音ではなく、乾いた石の音が底から返ってきた。

──水は、ない。

井戸のくせに、水がない。攻略Wikiなら一行で済ませるだろう。『機能停止オブジェクト』と。だが俺は、ゲームデザイナーが井戸に水を入れ忘れるほど暇じゃないことを知っている。水のない井戸は、水のない井戸として描かれた井戸だ。

縄を一握り分ずつ、手繰り下ろす。苔むした壁面に、横へ一筋、爪で抉ったような白い跡がある。誰かが、ここを降りた。プレイヤーのアクセス履歴には、俺が初めてだと出ていたのに。

肺に冷気が溜まっていく。息を吐くと、ゴーグルの内側が一瞬曇る。──そんなわけがあるか、これはVRだ。けれど、このエンジンは、曇る息まで描写する。

足の裏に、硬い底が触れた。

井戸の底は、円形の石の床だった。直径三メートル。天井の口から差し込む光は、弱い月光より少し強いくらい。見上げると、青い空が銅貨ほどの丸になって遠い。

麻縄の末端を、腰のベルトに固結び。逃げ道の確保。廃人ごっこで覚えた、小さな作法だ。

床の端、壁際にぽっかりと、黒い口が開いていた。

横穴だ。井戸の壁を抉って掘られた、人が屈めば通れる程度の通路。縁には鎹の錆びた跡。石工が掘ったのではなく、あとから誰かが力で開けたような、不揃いな抉り方。鎹の間隔がばらついている。几帳面な職人の仕事ではない。焦っていたか、時間がなかったか、そのどちらかだ。

俺は『観察(初期)』を発動した。

視界の隅に、灰色の文字が浮く。

『古い坑道。用途:不明。経年劣化:重度。』

普段のスキルレベルなら、モンスターのHPしか読めない凡庸な目だ。なのに、この横穴には文字列が載った。鑑定不能ではなく、判読した上で『不明』と答えてきた。Wikiで『観察』の説明を読み漁ってきたが、用途テキストが返ってきた事例は、一つもない。

口の中が乾く。ログを開く。──何も出ない。新規フラグの通知も、クエスト受注履歴も、何もない。

「なんだよ、これ……」

独り言が低く揺れる。揺れるのは俺の感情ではなくて、俺の感情が揺れたことにエンジンが反応して、キャラクターの喉にも微かな震えを乗せてきた。五感再現率九十四%。声の震えまで再現してくるのは、たぶん、そのうちに入っている。

屈んで横穴に入る。肩がつかえる。初期装備の麻のマントが、錆びた鎹に引っかかって、音を立てて破れた。耐久値がマイナス三、と通知。どうでもいい。マントより先に、穴の奥の闇の方が俺の眼を引っ張っていく。

歩数を数える。十、二十、三十。石の継ぎ目を足裏で確認しながら、匂いの変化を追う。最初は井戸の底と同じ、湿った石と苔。二十歩を越えた辺りから、鉄錆の匂いが強くなる。四十歩で、金属が酸化するときの、あの舌の奥に苦さを運んでくる匂いに変わる。

VRのはずなのに、舌の奥に苦味が走った。

唾を飲み込んでも、苦味は薄まらない。喉の奥に、古い硬貨を噛んだような金気の残滓が貼りつく。鼻腔の奥では、錆と、それより一段下の層に、湿った土と、獣の骨が雨に打たれ続けたような、鈍い饐えた匂いが重なっていた。匂いの層が、三つ、四つと重なっている。一つの坑道で、こんな手の込んだ嗅覚テクスチャを焚く必要は、通常のダンジョンデザインには、ない。

五十歩目。ふいに、視界の中央、網膜の真正面に、青白い文字列が立ち上がった。

『条件達成:忘却の証言者』

システムログだ。通知音は鳴らない。効果音もない。ただ文字列だけが、網膜に刻印されるように現れて、三秒で消えた。

「……は?」

スクリーンショットボタンを連打する。撮れた。保存フォルダに、確かに文字列の残ったスクショが残っている。幻覚じゃない。

クエスト一覧を開く。空欄のまま。受注履歴、未受注クエスト、隠しクエスト欄──全部、空欄。条件達成したのに、クエスト名がどこにも載っていない。攻略Wikiで、こんな実装例を、俺は一度も見たことがない。

坑道の奥から、金属の擦れる音がした。

ずり、ずり、と、重い鉄が石の床を引き摺るような音。等間隔ではない。生き物のリズムだ。モンスターの湧きSEではない。プレイヤーのエモートでもない。俺の知っているこのゲームの音響ライブラリには、登録されていない音だ。

壁に背中を預けて、息を止める。

──戦え、のアラートは出ない。──安全圏、の判定も出ない。HPバーの上に警告は何も浮かばない。ゲームが、このエンカウントを、戦闘として処理していない。

歩けるだけ歩いた。横穴はその奥で一度広くなり、天井の高い小部屋に繋がっていた。直径七メートルほどの円形。天井の一点から、井戸の口とは別の、細い光が一筋だけ差し込んでいる。床に、その光が白い円を描いて、落ちている。

円の中心に、甲冑が一領、座り込んでいた。

座り込み、というより、朽ち果てて、骨組みのまま沈み込んでいる。赤錆で覆われたプレートアーマー。兜の庇は深く下ろされ、顔は見えない。両手は膝の上で組まれ、指の関節の隙間から、細い草が生えて伸びていた。頭の上、兜のてっぺんに、薄い苔が、緑の帽子のように貼りついている。肩当ての凹みには、雨水がいつからか溜まっていた痕跡があり、乾いた塩のような白い縁取りが、輪を描いて残っていた。胸板のエングレーブは──かつては紋章だったはずのものは──風化で潰れ、判読不能な傷の群れに変わり果てている。

NPCのスポーンアニメーションではない。最初から、そこに、そうしていたものだ。

『観察』を発動する。視線を、騎士の胸板に合わせる。

『──』

スキルが、何も返してこなかった。鑑定不能でもなく、用途不明でもなく、文字枠そのものが開かない。俺の観察が、拒絶された。いや、違う。拒絶されたのではない。『観察』というスキルそのものが、この騎士を前にして、自分のロールを、知らない。システム側が沈黙しているのだ。ゲームが、こいつを、ゲームの言葉で扱いあぐねている。

心拍が、現実の俺の耳の奥で鳴る。ゴーグルの内側、汗が眉間を伝う。

「……NPC、ですか」

声をかけた。反応はない。草の生えた甲冑が、ただ静かに座っている。

近づく。三歩。二歩。一歩。騎士の兜の、錆びた庇の下、暗がりに、何かがある。目だ。たぶん、目だった場所。そこに、薄い、氷のような青が一点、灯っている。

「生きてる……のか?」

俺の問いに、答える代わりに、甲冑の関節が、きい、と小さく軋んだ。

指の隙間の草が、ぱらぱらと床に落ちる。膝に置かれた両手が、ゆっくりと、何百年ぶりかの動作をするみたいに、持ち上がった。

兜の庇に、錆びた指がかかる。

顔が、ゆっくりと、上がる。

光が、兜の庇の下の暗がりに差し込んで、顔の輪郭だけが、ぼんやりと浮かび上がった。

俺は、一歩も、動けなかった。

兜の奥で、氷のような青い光が、二つに増えて、俺を、正確に、見た。

VRゴーグルの中で、俺の視線と、朽ちた騎士の視線が、真っ直ぐに、交わる。

その瞬間、視界の隅に、また、あの青白い文字列が立ち上がった。

『証言を、聞きますか?』

Y / N の選択肢は、どこにも、表示されていなかった。

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