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観測者の眼 ―廃人VRMMOerの辺境攻略録―

第3話 第3話

第3話

第3話

『証言を、聞きますか?』

選択肢はない。Y/Nも、承諾のボタンも、拒否のジェスチャーも、UIのどこにも浮かんでいない。ゲームが俺に問いながら、俺が答えるためのインターフェイスを与えていない。

「……聞く」

声に出した。VCでもチャットでもなく、マイクに直接。三徹明けの喉から絞り出したその二音節を、エンジンが拾ったのか、天井の光を浴びた騎士が、ほんの半秒、青い瞳を瞬いた。まばたきの速度が、遅い。人間の半分の速度だ。まるで何百年か分の時間を、まぶたを下ろすひと動作に畳み込んでいるみたいだった。

現実の俺の指が、勝手に麻縄の末端を握りしめる。逃げ道の確保、というより、何かに掴まっていないと呼吸が詰まる気がしたからだ。握った触覚フィードバックグローブの中で、麻のささくれが親指の腹に食い込んでいる。痛覚補正はオフにしている。なのに、確かに、痛い。

「名を」

錆びた声だった。金属の蝶番が雨に打たれて油を失った音。そのまま続けて、騎士は喉の奥で一度咳をした。咳の音に、埃がこびりついていた。

「名を、聞かせてくれ。旅の者よ」

『観察』は、依然として文字枠を開かない。キャラクター名ラベルも、NPC識別フラグも、敵味方判定のヒントも、何一つ俺の視界に返さない。このゲームは、目の前の騎士を、ゲームとして扱うのを、放棄している。

「……カゲロウ」

プレイヤーネームを名乗る。小声で。騎士は一度だけ頷いて、膝の上の両手をゆっくり広げた。指の隙間から、また細い草がぱらぱらと床に落ちる。落ちた草の茎を、円の光が白く縁取った。

「儂は、第七国の、名もなき兵だ」

第七国、と言った。

俺は頭の中で、このゲームの公式設定を一枚、二枚と捲る。大陸アルセリアに存在する国家は六つ。北の雪氷国グランディア、南の商人連合サイファ、東の聖教国ベリカ、西の竜人国ドラグス、中央の魔導院ヴェスペル、そして辺境諸侯連合テラス。Wikiの地理欄、ローンチ時の公式設定資料、PV映像、国章一覧、CMで流れた国歌メドレー。六つ、以上の国は、どこにも、存在しない。

七番目の国は、ない。公式には。

「……聞いたことがない」

素直に答えた。嘘をつけば、このNPCは沈黙する気がした。ゲームの会話分岐をすり抜けた場所にいるNPCには、ゲームの嘘が通用しない。そういう予感が、廃人歴二万時間の直感として、はっきりある。

「そうだろう」

兵は、笑わなかった。笑う代わりに、薄く、息を吐いた。

「第七国、名をセヴンス・アウレリア。東の聖教ベリカと、中央ヴェスペルの間、谷ひとつ分の、小さな国だった。人口、二万七千。都、アウレンの谷。民は、羊を飼い、麻を織り、夜になると、井戸に向かって歌をうたった。井戸の底に、神がいると、信じていたから」

声の語尾が、微かに、震えた。思い出している、と分かる震えだった。六百年前に、自分が、井戸の縁で、一緒に歌った誰かの声を、まぶたの裏側から、掘り起こそうとしている、そういう振動だった。兵の喉仏が、錆びた鎧の首元で、一度だけ、重たく上下した。歌の旋律の名残らしきものが、息の裏側に、微かに、乗っていた気がした。気のせいかもしれない。気のせいだとしても、俺の耳の奥で、聞いたことのない子守唄の一小節が、勝手に、再生された。

VRゴーグルの中で、俺の頬を、風が撫でた。坑道の奥に、風が吹くはずがない。けれど、騎士が語り出した瞬間から、天井の光の筋が微かに揺れ、円の中の空気が、確かに、流れ始めていた。

「六百年前。聖教ベリカと魔導ヴェスペルが、神と理の戦をした。戦端を開いた理由は、どちらの歴史書にも、それぞれの義がある。だが、ほんとうの理由は、一つだけだ」

兵の青い瞳が、俺の目を見据える。

「谷の底の井戸。そこに落ちた、神の欠片。両国は、それを欲しがった」

ここで、俺はようやく気づく。足元の円形の床、その中央の、光の白い円。その位置。井戸の真下、ちょうど縦に貫いた延長線上に、さっき俺が降りてきた井戸の底が、ある。この坑道は、井戸の底から横に掘られている。けれど円の中心は、別の井戸の、真下だ。

──二つ目の井戸。

「戦端の、七日目。両軍が、第七国の首都アウレンに雪崩れ込んだ。神の欠片を奪うために。民は、井戸を守ろうとした。井戸の底の、自分たちの神を、奪われないために。俺たちは、兵の真似事をした。羊飼いの鎌と、麻の縄と、井戸掘りの鶴嘴で」

兵は、右手を、ゆっくり、胸に当てた。胸板のエングレーブの、判読不能な傷の群れ。その傷の一つに、指先が、静かに、触れた。

「首都は、三日で、燃えた」

風が、止まった。

「神の欠片は、どちらの手にも、渡らなかった。民が、井戸を、自分たちの手で、埋めた。国ごと、井戸ごと、歴史ごと、地図ごと。聖教は、第七国を、なかったことにした。魔導も、同じくした。残ったのは、埋められた井戸と──」

俺の、乾いた喉が、音を立てて、唾を飲み込んだ。

「埋められることを拒んで、底に、残った、兵だけだ」

騎士の両膝の下で、石の床が、ごく微かに、震えた。地震ではない。ゲームの演出フラグでもない。たぶん、こいつが、六百年ぶんの重さを、関節に戻す音だ。

「証言は、以上だ」

錆びた声が、短く、そう告げた。

「旅の者よ。これは、運営の、設定にはない、話だ。Wikiにも、攻略サイトにも、公式資料集にも、載っていない。ゆえに──」

一瞬、俺は、自分の耳を疑った。

運営。Wiki。攻略サイト。公式資料集。

このゲームのNPCが、絶対に口にしないはずの、メタ語彙。プリセット台詞の辞書に、登録されていない単語の群れ。台本を、はみ出している。ゲームの人格が、ゲームの外側の言葉を、知っている。

「──ゆえに、これは、お前の、胸の底にだけ、沈めよ」

兵が、立ち上がる。

膝の関節が、軋む。肩の鎧が、ぱらぱらと錆を落とす。六百年分の塵が、円の光の中で、金色の粒になって舞った。廃村の森で見たあの粒よりも、一粒ずつが、重い。

俺の、全身が、動かない。座っているわけでもないのに、立っているわけでもない。VRゴーグルの中で、俺のキャラクターの重心が、微かに、後ろへ逃げている。逃げているのに、視線だけは、騎士の青い瞳から、剥がれない。

兵は、踵を返した。天井の光の、円の外へ、一歩、踏み出す。薄い影が、錆びた鎧の表面を、滑り落ちていく。歩くたびに、床に、細い草の茎が、ぱらぱらと、落ちる。

円の外に出る手前で、騎士は、半身だけ、振り返った。

庇の下の、青い瞳が、俺を、もう一度、正確に、射抜く。

「──頼んだぞ」

そこで、兵の喉が、一度だけ、俺の知らない名前を、発音した。

「森、光(もり・ひかる)」

音の粒が、俺の耳の、いちばん奥に、届く。

プレイヤーネームではない。ギルド登録名でも、VC名義でも、配信ハンドルでも、ない。アカウント登録時にサーバーへ送っていない、音節。住民票と、クレジットカードと、契約更新書類の、俺の本名。三徹明けの六畳間のデスクに転がっている、期限切れの社員証に、印刷されている、四文字。

耳の奥で、その四文字が、何度も、反響した。もう一度。もう一度。もう一度。六百年分の錆を纏った喉から発音された音節が、三徹明けの俺の鼓膜を、内側から、殴っている。誰にも、教えていない名前だ。ギルドのメンバーにも、配信のリスナーにも、ゲーム内フレンドにも、一度も、打ち明けたことのない、四文字。音読みでも、訓読みでも、それは、俺以外の人間が、この筐体の向こう側で、発音できる組み合わせでは、ない、はずだった。

口の中から、唾液が、完全に、引いた。

ゴーグルの内側、汗ではない何かが、目の縁を、伝った。

騎士は、もう、こちらを、見ていなかった。錆びた背中が、円の外の闇へ、ひとつ、ふたつと、足音の数を減らしながら、沈んでいく。最後の足音が、坑道の奥で、遠い一点の金属音になって──消えた。

残ったのは、円形の白い光と、床に散った草の茎と、兵の座っていた、凹みの形だけだ。

俺は、膝から、床に、崩れた。

VRゴーグルの中のキャラクターが、ではない。

現実の六畳間の、椅子の上の、俺が、だ。

コントローラーが、膝の上から、滑り落ちる。触覚フィードバックグローブの指先が、勝手に、震えている。ログアウトボタンに、手が、届かない。

視界の隅で、青白い文字列が、静かに、もう一度、立ち上がった。

『報酬を、受け取りますか?』

Y / N の選択肢は、今度も、どこにも、表示されていなかった。

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